北緯44度のクローズドサークル
北海道、某所。窓の外には、境界線の曖昧な白銀の世界がどこまでも広がっていた。
湊は実家の居間で、静かに男爵芋の皮を剥いていた。スマホは直道に預け、自身のGPSログは東京で「幽霊」として彷徨っている。情報の死角。物理的な隔離。ここにあるのは、完璧な安息のはずだった。
しかし、湊の背筋には、拭いきれない戦慄が走っていた。
「……私の演算ミスだ。あらゆるデジタル・パケットを遮断しても、母さんという『管理者権限を持つアナログ・デバイス』の善意までは制御できていなかった」
事の真相は、あまりにも単純で致命的だった。湊が鉄路を北上している間に、母が理央に送った一通のメール――『湊も急に帰ってきたから、理央も休み中にこっちに帰ってきなさい』。
管理権限を持つ者による、悪意なき情報漏洩。それこそが、湊が築き上げた情報の城壁を内側から崩壊させた、最大の「セキュリティ・ホール」だったのだ。
「お兄ちゃん、ジャガイモ剥くの、上手になったね」
背後から、温かいココアを手に持った理央が、勝利者の余裕を湛えて微笑みかけてくる。彼女は実家に辿り着くや否や、追っ手(玲奈・静香)を完全に撒くための「防衛プロトコル」を完遂していた。
「……理央。ルーターのコンセントまで抜く必要はなかったんじゃないか?」
「ダメだよ、お兄ちゃん。追っ手は私のスマホのGPSを辿ってくる可能性があるもの。だから、ここで完全に世界から消えるの」
理央は湊の目の前で、自身のスマホを「機内モード」に設定し、さらに実家のWi-Fiルーターの光ケーブルを物理的に引き抜いた。お兄ちゃんのスマホは東京、妹の電波も消失。これで、この家は地図上のどこにも存在しない「情報の空白地帯」となった。
「これで安心ね。……ねえ、お兄ちゃん。誰にも邪魔されないバカンスを、二人で始めよう?」
湊は、理央が差し出したココアの湯気を見つめ、無言で頷くしかなかった。外部からの干渉をパージすることを最優先する彼にとって、この「独占的な閉鎖空間」は、皮肉にも論理的に正しい選択肢に見えてしまったのだ。
一方、その数時間前。羽田空港の喧騒の中で、静香の瞳は冷徹にタブレットのログを追っていた。理央が「学食へ行く」と称して離脱した瞬間から、その端末は監視対象となっていた。
「……理央様のパケットがロストしました。場所は――」
静香が示した座標のモニターを、玲奈が横から覗き込む。
「……半径5キロ圏内に、新幹線駅があるわね。新函館北斗……。あの子、北へ向かったの?」
「ええ。ですが、ここから通信が完全に途絶しています。隠密行動に移行したと見るべきでしょう」
玲奈は、画面に表示された「駅」というキーワードから、脳内にある湊の過去データを高速で検索した。幼馴染という特権だけがアクセスできる、古い記憶のフォルダ。
「……そうよ。湊君、昔から言ってたわ。『一番落ち着くのは、最果ての雪原だ』って……。新幹線で北海道……あの子、実家に逃げ込んだのね!」
座標(解析)と記憶(確信)が合流した瞬間、二人の「パージ・アライアンス(追跡同盟)」が結成された。静香の財力による民間チャーター機の確保と、玲奈の土地勘。理央の単独占拠を許さないという一点において、天敵同士は手を取り、北の大地へと飛び立った。
湊と理央がコタツの中で、数時間の「偽りの平和」に浸っていた、その深夜。
廊下から、母の呑気な声が響いた。
「あら湊、理央ちゃん。さっき玲奈ちゃんから(固定電話に)電話があったわよ」
湊の剥いていたジャガイモが、手から滑り落ちた。
「駅まで着いたけど吹雪で動けないって言うから、さっきお父さんに雪上車で迎えに行ってもらったわ。もうすぐ着くわよ」
湊と理央、二人の戦術家が同時に凍りついた。
(……母さんは、居場所を教えただけでなく、自ら迎えを送り出したのか……!)
直後、雪原の向こうから、凄まじい光量のサーチライトがリビングの窓を射抜いた。雪上車のエンジン音が、静寂を物理的に破壊していく。
玄関の扉が、凄まじい勢いで開かれた。
「湊君、見つけたわよ! ……幼馴染の私に、実家の場所を隠し通せると思った?」
「……主人。理央様による『情報の隠蔽』は、これより私が物理的に上書き(オーバーライド)いたします」
そこには、雪まみれになりながらも、猟師のような鋭い眼光を放つ玲奈と静香が立っていた。
湊は、コタツの中で天を仰いだ。
「母が招いたライバル同盟」vs「実家を占拠した理央」。
沖縄から始まった逃走劇は、ついに逃げ場のない「極寒の最終戦」へと突入した。




