不確定な聖域と、未来予測の履歴書
大学の講義を終え、寮の301号室に戻った俺を待っていたのは、静寂ではなく「陣取り合戦」の続きだった。
「湊様、お帰りなさいませ。お疲れの脳に、最適化された糖分補給(和三盆ケーキを用意しました」
「あ、お兄ちゃんお帰り! ケーキなんてダメだよ、夕飯が食べられなくなるでしょ! ほら、お兄ちゃんの好きな、脂質を抑えた特製お浸しがあるから!」
玄関を一段跨いだ瞬間、左右から腕を引かれる。
狭い寮の玄関口で、メイド服の静香とエプロン姿の理央が火花を散らしている。この空間の人口密度は、すでに設計時の想定を大幅に上回っていた。
「……二人とも、そこをどけ。私は今、今日の講義で得たデータを整理したいだけだ」
俺は二人をすり抜け、自室のデスクに向かう。だが、そこにはさらに「非論理的」な光景が広がっていた。
「……静香。これは何だ?」
デスクの上に置かれていたのは、一冊の分厚いバインダー。そこには『九条湊様・生涯健康及び生活管理計画書』という不穏なタイトルが記されている。
「湊様のこれからの五十年間における、睡眠、食事、排泄、そして『子孫繁栄』に至るまでの最適解を算出したタイムラインです。現在、理央お嬢様という不確定要素によるノイズを排除した場合のシミュレーションを行っています」
「子孫……!? ちょっと、何勝手に将来設計まで管理しようとしてるのよ!」
理央がバインダーをひったくり、ページを捲るなり顔を真っ赤にした。
「な、なによこれ! 二十五歳で『最適な遺伝子を持つ伴侶とのマッチング』、二十七歳で『第一子(知能指数180以上期待値)の誕生』……って、この伴侶の候補、全部静香さんのデータじゃない!」
「効率を考えれば、最も近くで湊様のバイタルを把握している私が、生殖パートナーとしても最適であるという結論に達しました」
「倫理的にアウトどころか、職権濫用よ! お兄ちゃんの将来を決めるのは、昔からずっと隣にいた私なんだから!」
理央は悔しげに声を漏らし、バインダーを机に叩きつけた。
「いい、お兄ちゃん! こういう機械的な未来なんて信じちゃダメ! 私なんて、お兄ちゃんがまだ言葉も喋れない頃から、将来は私がお嫁さんになるって……」
「妹よ。何度も言うが、お前は俺の二歳下だ。お前が俺の赤ん坊時代を観測しているはずがない」
俺が冷静に釘を刺すと、理央はハッとしたように口を噤み、顔を真っ赤にした。
「……ぐ、ぐぬぬ。それは、記憶の深層にあるイメージで……! とにかく、このメイドさんの計画は没! お兄ちゃんの未来は、もっと、こう……愛情とか、温かいものに溢れてるはずなんだから!」
理央は鼻息を荒くして、腰に両手を当て、いかにも「私が兄を救った」と言わんばかりの顔で勝ち誇っていた。実際、彼女の指先が動くたびに、バインダーに挟まれていた静香の「遺伝子適合証明書」がシュレッダーへと吸い込まれていく。
「……呆れるな。私の人生の変数を、勝手に固定しようとするなと言っているだろう」
俺はシュレッダーのスイッチを切り、二人の間に割って入った。
「静香。未来予測は統計学に過ぎない。現実の私は、お前の計算通りには動かない。……そして理央。お前も過去を捏造して現実逃避をするな。事実は一つだ」
俺が二人の頭に軽く手を置くと、騒がしかった室内が一瞬で静まり返った。
静香は無機質な瞳を僅かに揺らし、理央は耳まで真っ赤にして俯く。
「……湊様。計算外の接触により、心拍数が上昇しました。管理計画の修正が必要です」
「お、お兄ちゃん……。今の、もう一回……いや、なんでもない!」
狭い寮の部屋。
一人は完璧な未来を描こうとし、一人は捏造した過去に縋ろうとする。
その中心で、俺は再び専門書を開いた。
この二人の「天才」を飼い慣らす数式は、まだ見つかりそうにない。だが、このノイズだらけの日常が、以前の孤独な研究生活よりも、僅かに「効率的」に感じてしまうのは、一体どういうバグなのだろうか。
俺は自分の中に芽生えたその「非論理的な仮説」を、そっと脳の隅に追いやった。




