キャンパスの観測者と、非論理的な視線
「……静香。一度しか言わない。座れ」
「湊様。私はメイドであり、護衛です。主の背後を無防備に晒すことは、職務規定に反します」
静香は、俺の座る椅子の真後ろで直立不動の姿勢を崩さない。
大学という公共の場において、黒いロングスカートのメイド服は、それだけで周囲の演算能力を奪う「圧倒的なノイズ」だった。
「ここは戦場ではない。学問の場だ」
「いいえ。情報の奪い合いという点では、ここも紛争地帯と何ら変わりありません。……あちらの三列目の男子学生、湊様の画面を三秒以上注視しました。網膜スキャンによる情報漏洩のリスクがあります。排除しますか?」
「するな。ただの隣人だ」
俺は溜息をつき、画面に並ぶ数式に集中しようとした。
だが、その時。教室の後方から、バタバタと慌ただしい足音が響いた。
「お、お兄ちゃん……! 待って、今行くから!」
教室の扉を勢いよく開けて現れたのは、制服姿の理央だった。彼女は巨大な三段重ねの重箱を抱え、今にも転びそうな足取りで、必死に俺のもとへ駆け寄ってくる。
「理央……。お前、今日は高校のはずだろう」
「お兄ちゃん、これ! 昨日の夜、お兄ちゃんが『最近少し疲れた』って言ってた気がしたから……栄養たっぷりの煮物を作ってきたの! さあ、冷めないうちに食べて!」
理央は周囲の学生たちが呆然と見守る中、重箱を広げ、震える手で箸を俺の口元へ運ぶ。その顔は、期待と少しの不安でいっぱいだ。
「理央。……呆れるな。今は教授の講義中だ。お前のその行動は、集団における集中力の平衡を著しく乱している」
俺が冷静にたしなめると、理央の眉が八の字に下がり、大きな瞳が潤み始めた。
「……ぐ、ぐぬぬぬぬ! せっかくお兄ちゃんのために、指に絆創膏を三枚も貼って一生懸命作ったのに! お兄ちゃんの健康を、一番に考えてるのは私なんだからぁ!」
理央は悔しげに声を漏らし、煮物の入った箸をプルプルと震わせる。だが、彼女はすぐに思い直したように、パッと顔を輝かせた。
「……わ、わかったわ! 講義が邪魔なら、お兄ちゃんが食べ終わるまでちょっとだけ『休憩時間』にしちゃえばいいのよね! お兄ちゃんのためなら、これくらい朝飯前なんだから!」
理央は「えっへん」と鼻息を荒くして、腰に両手を当て、いかにも「お兄ちゃんを助ける天才妹」という顔で胸を張った。実際、彼女がスマートウォッチをいじった瞬間、教壇のプロジェクターに「15分間の休憩」という偽のテロップが表示され、教授が首を傾げ始めた。
「湊様。お嬢様の給餌は非効率な上に、ただのワガママです。咀嚼音による周囲への影響を考慮すれば、こちらの無音・無臭・高純度栄養ゼリーを吸引すべきです」
「ちょっと静香さん! またそんな冷たいものを! お兄ちゃんが今欲しがってるのは、温かい手料理と、妹の真心なの! それを無視するのは、倫理的にアウトどころか、妹愛に対する冒涜よ!」
「愛情という不確定な調味料では、湊様の血糖値を正確にコントロールできません」
「なんですって……! お兄ちゃんは私の煮物が一番好きなんだから!」
最前列で、子供の喧嘩のような言い合いを始める二人。
教授はすでにチョークを置き、窓の外を眺めながら「今日の昼飯は何にしようか」と現実逃避を始めている。
「……呆れるな、お前たち。周囲の学生の学習権を侵害するなと言っているだろう」
俺はノートPCを閉じ、半べそをかきながら重箱を抱え直す理央と、淡々とそれを監視する静香を連れて教室を出た。
理論上、俺の大学生活はもっと静かで、知的な孤独に満ちているはずだった。
だが、俺の袖をギュッと掴んで離さないポンコツな妹と、その反対側で機械的に周囲を警戒し続けるメイド。
この「二人」という変数が存在する限り、俺の日常が「静寂」という解を導き出す日は、どうやら永遠に来ないようだった。




