移動の最適解と、キャンパスの不確定要素
翌朝。国立SSS大学のキャンパスへ向かう準備を始めた俺の前で、再び「非論理的」な衝突が発生した。
「お兄ちゃん、はい、これ。今日の講義スケジュールに合わせて、糖分とビタミンを時間差で放出する特製サンドイッチだよ。お昼休みまで脳をトップギアで回せるから!」
理央が自信満々に差し出してきたのは、一見すると何の変哲もない、三角形に整えられたミックスサンドだった。だが、九条家の「天才」である彼女が作るものが、ただの軽食であるはずがない。
「理央。……以前も言ったが、このパンの厚みと具材の密度が、私の咀嚼回数と計算速度に及ぼす影響を考慮したのか? 私は食事中も思考を止めるつもりはない」
「もちろん! 具材の配置を数理モデルで最適化してあるから、どこから齧っても同じ栄養素が摂取できるわ。おまけに、お兄ちゃんの脳を活性化させる特殊成分(愛情)をソースにミリグラム単位で配合してあるんだから!」
「まったく!、理央。嘘は情報のノイズだ。 愛情という成分が脳の神経伝達物質に直接作用するというエビデンスはない」
俺が呆れながらサンドイッチをバッグに収めようとすると、背後から音もなく静香が歩み寄ってきた。
「湊様。登校の準備が整いました。……お嬢様、そのような『手で持って食べる』という原始的な摂取方法は、湊様のタイピング効率を著しく低下させます。ソースが指に付着するリスクも排除できません」
静香は、俺の通学用リュックのショルダーストラップに、見慣れないチューブと超小型のポンプを装着していた。
「……静香。これは、何だ?」
「歩行中の振動を利用して、一定間隔で高純度ブドウ糖液を直接、口腔内に噴射する『自動給餌システム』です。これにより、湊様は両手を開けたまま、歩きながら専門書を読破することが可能になります。さあ、マウスピースを装着してください」
「マウスピース……!? ちょっと静香さん! お兄ちゃんを競走馬か何かだと思ってるの!? 大学の構内でそんなの咥えて歩いてたら、倫理的にアウトどころか、完全に不審者よ!」
理央が悲鳴に近いツッコミを入れ、俺の肩からリュックをひったくった。
「お嬢様。効率を追求すれば、外見という変数は切り捨てるべきです。湊様の一秒は、凡人の一時間に相当するのですから」
「その一秒のために、お兄ちゃんの『人間としての尊厳』をドブに捨てないで! お兄ちゃんは私が車椅子で押していくからいいの!」
「車椅子は、段差という物理的障害に対して脆弱です。私が背負って運ぶ方が、移動速度は1.2倍向上します」
「背負うって……! 密着しすぎよ! 下心が見え見えなんだから!」
二人が俺の左右の腕を掴み、どちらが「輸送」を担当するかで火花を散らし始める。
「……呆れるな、お前たち。私には自律歩行機能が備わっている。……そもそも、理央。お前は自分の高校の登校時間は大丈夫なのか?」
俺が釘を刺すと、理央はハッとしたように手元のスマートウォッチを確認した。
「……ぐ、ぐぬぬぬぬ! 登校完了まで残り十五分……でも、お兄ちゃんをこの女と二人きりにするなんて、論理的にリスクが大きすぎるわ!」
理央は悔しげに声を漏らしながらも、素早い手つきでウォッチを操作した。
「……よし、今この瞬間に私の学校の出席管理サーバーに介入して、登校時間を三十分後ろにスライドさせたわ。これでお兄ちゃんを校門まで見送る時間が確保できた!」
「……理央。お前のその卓越した演算能力を、不正アクセスの隠蔽に使うのは非効率だと言っているだろう」
俺が溜息をつくと、理央は「お兄ちゃんのためならサーバー一つくらい飛ばしてあげる!」と鼻息を荒くし、腰に両手を当て勝ち誇っていた。
「さあ、お兄ちゃん、行くわよ! 静香さん、私の見送りが終わるまで、お兄ちゃんの半径五十センチ以内に近づくのは禁止だからね!」
理央は強引に俺の腕を引いて、寮の部屋を飛び出していった。
静まり返った部屋で、静香が淡々とマウスピースを片付け始める。
「……湊様。お嬢様は去りましたが、私の計算では、サーバーの書き換えが発覚するまで残り十二分です。……今のうちに、移動中の心拍数測定用パッチを胸部に……」
「却下だ。私は普通に歩いて大学へ行く」
俺はリュックを背負い直し、ドアを開けた。
五月晴れの空の下、SSS大学のキャンパスは今日も知的欲求に溢れている。
だが、俺の隣を歩く無表情なメイドは、周囲の学生たちの視線を「ノイズ」として切り捨てながら、俺の歩幅をミリ単位で計測し、最適化された歩行ルートを指示し始めた。
「湊様。三メートル先、左から来る教授を回避してください。挨拶に要する十五秒のロスを回避できます」
「……静香。社会的な調和という変数を、もう少し考慮に入れてくれないか?」
俺の大学生活という名の数式に、新たな「メイド」という定数が加わってから数日。
キャンパスの平穏が崩れるまで、残された時間は、どうやら俺の計算よりもずっと短そうだった。




