三八度線のパーテーションと、非論理的な聖域
……理央。静香。これは何のデモンストレーションだ?」
翌日の放課後。研究室から寮の301号室に戻った俺は、玄関で絶句した。
狭いワンルームの床に、鮮やかな**「赤いテープ」と「青いテープ」**が、寸分違わぬ直線で引かれていたからだ。
「お帰りなさい、お兄ちゃん! 昨日の夜、じっくり考えたの。この部屋の混乱の原因は、占有権の不透明さにあるって!」
理央が青いガムテープを手に、自信満々に胸を張った。
「この青いラインからキッチン側は、私の『妹特区』。お兄ちゃんの健康管理と、思い出の捏造……じゃなくて、心のケアを行うための聖域よ!」
「湊様。論理的なゾーニングの結果、赤いラインから窓側は『専属メイド管理区域』に設定しました。清掃、警備、および高効率な栄養供給(バケツプリンのストック含む)は、このエリアで完結させます」
静香は赤いテープの境界線上に、一分の隙もなくパーテーションを立てていた。
その結果、俺のデスクとベッドがある中央エリアだけが、まるで緩衝地帯のように細長く取り残されている。
「……呆れるな、お前たち。ここは学生寮であって、分割統治される紛争地帯ではない」
俺は溜息をつき、自室の中央を歩こうとしたが、即座に両側から制止の声が飛んだ。
「ダメだよお兄ちゃん! そこから一歩でも青いラインに入ったら、私の特製マッサージ(愛情100%)を受けなきゃいけないんだから!」
「湊様、左足が赤いラインに0.5ミリ侵入しています。規定により、速やかに脳活性化用の耳栓を装着していただきます」
「……移動の自由という基本的人権を、お前たちの勝手なルールで制限するな」
俺は二人の制止を無視して、自分の椅子に座った。
理論上、この分割は「衝突を避ける」ためのものだろうが、実際には二人が境界線ギリギリに立って睨み合っているため、以前よりも部屋の電圧は高まっている。
「いい、静香さん。お兄ちゃんの机の上のゴミを片付けるのは私の役目なんだから、そっちから手を伸ばさないで!」
「お嬢様、それは『清掃』というカテゴリーに属します。私の専門領域です。お嬢様は大人しく、その過剰な出汁の香りが漂わないよう、換気扇の管理に集中してください」
「なんですって……! 出汁は日本の心よ! お兄ちゃんの遺伝子が求めてるの!」
「湊様の遺伝子は、現在、私の合理的な管理を求めています」
狭い部屋の中で、二人の声が重なり合い、物理的なノイズとなって俺の鼓膜を叩く。
俺は専門書を閉じることもできず、ただペンを止めた。
「……理央。お前はさっきから、その青いラインを越えて俺に茶を運ぼうとしているが、それは自分の引いたルールに反していないか?」
俺が釘を刺すと、理央はハッとしたように自分の足元を見、「……ぐ、ぐぬぬぬぬ」と声を漏らした。
「……これ、これは、特例よ! お兄ちゃんにお茶を出すのは、ルールを超越した『妹の義務』なんだから!」
理央は鼻息を荒くして、いかにも「自分が正しい」と言わんばかりの顔で勝ち誇っていた。実際、彼女の手にある茶托は、今にも赤いラインに侵入せんとする静香のトングを、巧みな身のこなしでブロックしている。
「……静香。お前もだ。パーテーションの隙間から、私のベッドのシーツのシワをレーザーで計測するな。集中できない」
「失礼しました。0.1ミリの誤差が、湊様のレム睡眠を妨げる可能性を考慮した結果です」
俺は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
20万字に至るまでの長い物語。その序盤において、この「寮内分割」がどのようなバグを引き起こすか、計算するまでもない。
「……いいだろう。このルールが、お前たちの納得する最適解だと言うのなら、好きにしろ」
俺が投げやりに言うと、二人は一瞬だけ顔を見合わせ、それから再び互いに背を向けた。
「わかったわ! お兄ちゃんがそう言うなら、私がこの部屋の半分を完璧に支配してあげる!」
「了解しました。私は残りの半分で、湊様の生活を完全に自動化します」
理論的には平和への一歩。
だが、俺の直感という名の非論理的な計算機は、明日以降、この「境界線」がさらに複雑なトラブルを生む未来を、すでに高確率で弾き出していた。




