リネン室の聖域と情報の非対称性
ルームサービスのステーキを完食し、別館512号室には平穏な時間が流れていた。しかし、湊の視線は鋭くドアを見つめていた。
「……直道。君は先に寝るといい。明日の学会に備えて、レム睡眠とノンレム睡眠のサイクルを最適化しておくべきだ」
「ん? おう、そうするけど……湊、お前はどうするんだ? 荷物も片付けないで、なんでそんなに落ち着きがないんだよ」
直道は湊の様子に違和感を覚えた。湊の目は「安息」を得た男の目ではなく、まだ「逃走」の最中にある戦術家の目だったからだ。
「お前、まさかまた何か企んでるな? 俺を一人置いて、自分だけまたどこかへ消えるつもりだろ。……水臭いぞ、俺も行動を共にする」
「……やれやれ。君の直感は、時に論理的な計算を凌駕するな」
湊は小さな溜息をつき、声を潜めて予定を明かした。
「直道、彼女たちの行動パターンを分析した結果、高確率で『寝巻き』という無防備かつ攻撃的な姿で、この部屋に乱入してくることが予測される。……そこで私は、事前にホテルの構造を調べ、従業員用のリネン室の鍵が開いていることを確認した」
「リネン室……!? まさか、あそこで寝るつもりか?」
「ああ。そこは宿泊客の検索インデックスからは完全に除外されている。さらに、この部屋にはわざと私の生活痕跡(開いたままの参考書や飲みかけのペットボトル)を残し、私が『まだ潜伏している』という誤認を誘発させる。……これぞ、情報の非対称性を利用した擬装だ」
その頃、本館ではようやく「湊の食事分」を胃袋に収めきった三人が、怒りと執念を燃料に再起していた。
「……許さない。お兄ちゃん、部屋で一人でステーキなんて。……こうなったら、可愛いパジャマ姿で油断させて、一晩中説教してやるんだから!」
理央はフリルだらけのパジャマ、玲奈はあえて少し大人びたネグリジェ、そして静香は隙のないシルクの寝巻きに身を包んでいた。
「いざ、別館512号室へ。主人の『安息の地』を、私たちが真の『修羅場』へと変えて差し上げますわ」
三人は夜の廊下を音もなく、しかし確実に獲物を追い詰める速度で移動し、湊の部屋へと乱入した。
「見つけたわ、湊君! ……って、あれ?」
「お兄ちゃん? ……いない。参考書も開いたままだし、スマホの充電器も刺さってるのに……」
三人はクローゼット、ベッドの下、さらにはベランダまで徹底的に捜索した。しかし、そこに湊の姿はない。
「……バカな。生活反応はあるのに、本人が消失している……?」
「まさか、また警察沙汰……!? いや、でも直道もいないわ!」
三人は狂ったように別館の廊下やラウンジを再度探し回ったが、満腹による疲労と睡魔が限界に達していた。
「……もう、無理。お腹も苦しいし、眠すぎて頭が回らない……」
「……不覚ですわ。一度退却し、明日の学会本番に備えるしかありません……」
一時間後。三人がフラフラと自分の部屋へ戻っていくのを、湊はリネン室の清潔なシーツの山の中から、スマートフォンの監視映像越しに確認した。
「……見たまえ、直道。これが『情報』の力だ。相手に正しい情報を与えつつ、それをどう解釈させるかをコントロールする。情報とは、単なる知識ではなく、優位を確立するための武器なのだよ」
リネン室の硬い床の上、シーツに包まりながら湊は満足げに眼鏡を上げた。
「お前……そこまでして勝ちたいか。……まあ、確かにあいつらのパジャマ姿を見ずに済んだのは、命拾いしたのかもな」
直道の呆れた声をBGMに、湊は勝利の確信と共に、深い眠りへと落ちていった。
明日の学会、演壇の前に立つ時、自分がどれほどの「包囲網」に晒されるかも知らずに――。




