極楽の終焉と最悪のバッティング
本館の捜索網が徐々に別館へと伸びている気配を察知し、湊は最後の一手に出た。
「……直道。彼女たちは執念深いが、まさか『男湯』の中にまでは踏み込んでこないはずだ。あそこは物理的に隔離された聖域。今すぐ大浴場へ避難するぞ」
「お、おう。お前、そこまでして逃げたいのかよ。……まあ、ひと風呂浴びるのは悪くないな」
二人はタオルを手に、別館の奥にある大浴場へと滑り込んだ。広々とした露天風呂に浸かり、南国の星空を見上げる。
「……フゥ。ようやく、統計学的な安全圏に辿り着いた。ここなら彼女たちの視線は届かない」
「湊、お前……風呂に入りながらまでそんな難しい顔するなよ。ほら、いい湯だぞ」
湊は、ようやく解き放たれた手足を伸ばし、安堵の溜息を吐いた。
その頃、本館から別館の隅々まで、一時間以上にわたって湊を捜し歩いた理央、静香、玲奈の三人は、極限の疲労の中にいた。
「……もうダメ。お兄ちゃん、本当に蒸発しちゃったのかも。……足が棒みたい」
「理央様、気を確かに。……ですが、私の脚力をもってしてもこの広大な敷地は厳しい。一度、汗を流して思考を整理すべきですわ」
「ふ、ふん、私も同感よ。あんな逃げ足の速い男のことなんて忘れて、ゆっくりお湯に浸かってやるわ! あくまで、明日の学会に備えた調整よ!」
三人は吸い寄せられるように、別館の大浴場へと向かった。
数十分後。心身ともにリフレッシュし、「さて、これからどう隠密行動を続けるか」と作戦を練りながら脱衣所へ出てきた湊と直道。
そして、同じタイミングで、湯上がりの顔で女湯の暖簾をくぐってきた三人と、運命のバッティングを果たした。
「「「…………あ」」」
「…………っ!?」
沈黙が走る。湊の心拍数が跳ね上がった。次の瞬間、直道が湊の肩をポンと叩いた。
「……じゃあな湊。俺、ちょっと忘れ物思い出したわ」
「直道!? 待て、君は私を見捨てるのか――」
直道は、脱兎のごとき速さで出口へとこそっと逃げ出していった。
直後、別館のロビー。そこには南国の開放的な空気とは無縁の、氷点下の空間が広がっていた。
「……お兄ちゃん。何か、私に言うことはない?」
「湊君。……楽しい『一人バカンス』だったようね。私たちをあんなに走り回らせておいて……万死に値するわよ」
「主人の身勝手な隠密行動、ここで徹底的に教育し直す必要がありますわ」
湊は、逃げ出した罰としてロビーの床の上にきっちりと正座させられていた。
「……反論を許してくれ。公共のロビーでこのような『正座』をさせるのは、周囲の宿泊客に多大な迷惑をかける。これはホテルの秩序を乱す行為だ」
必死の論理的抵抗を試みる湊。だが、三人の冷ややかな視線がそれを遮る。
5.非人道的な「解放条件」
静香が一歩前に出た。
「……よろしい。主人の言い分にも一理ありますわ。ここで公開処刑を続けるのは、私たちの品位にも関わります。……ですので、条件を出しますわ」
「条件……だと?」
「ええ。今すぐ私たちの前で、現在あなたが潜伏している『別館の部屋番号』を白状なさい。 その情報を共有し、私たちの管理下に戻ると誓うのであれば、今すぐその正座を解いて差し上げますわ」
三人の視線は一切の譲歩を許さない。湊は、このまま正座を続けて社会的ダメージを負い続けるリスクと、部屋番号を教えて安息の地を失うリスクを天秤にかけた。
「……512号室だ。別館の、最上階の角部屋だ」
湊が絞り出すように答えると、静香は満足げに手帳にその数字を刻んだ。
「賢明な判断ですわ、主人。……さあ、立ってください。これより、私たちは主人の『本当の宿泊先』へと、責任を持ってエスコートいたします」
解放されたはずの膝は、恐怖でガクガクと震えていた。こうして湊の「隠れ家」は、一瞬にして「三人の攻略目標」へと成り果てた。




