本館の空虚と消えた主人
那覇空港からタクシーを猛スピードで飛ばし、ホテル本館へと降り立った理央と静香の足取りは、もはや軍隊の強行軍だった。
「静香、お兄ちゃんの部屋は502号室ね! 確保よ!」
「イエス、マイレディ。主人の貞操、これより回収いたします」
二人はチェックインをフロントへの威圧で済ませると、502号室の前へ。静香がプロの技術でドアを開け放つ。
「主人、お迎えに……っ!?」
そこにあったのは、ゴミ一つ落ちていない、完璧に無人な部屋。
「……いない。お兄ちゃんが、いない!? 誘拐? 蒸発? もしかして、私の愛が重すぎて分子レベルで分解しちゃったの!?」
「理央様、落ち着きなさい。……ですが、主人の荷物が届いていない。これは『事前の計画的逃走』ですわ」
そこへ、隣の501号室のドアが開き、玲奈が顔を出した。
「ちょっと、うるさいわよ……って、何よその空っぽの部屋! 湊君は!?」
玲奈も湊が隣にいると信じて、あまのじゃくな入室挨拶の予行演習を終えたところだった。
「あんたでしょ! お兄ちゃんを四次元ポケットかどこかに隠したのは!」
「なっ、なんですって!? 私は彼が『隣がいい』って泣いて頼むと思って、仕方なく待ってあげていたのよ! 隠すなら私のクローゼットに入れるわよ!」
「……不毛な議論です。主人が消えた以上、これは国家レベルの緊急事態ですわ」
静香が冷徹にスマートフォンを取り出す。
「理央様、今すぐ110番を。警察を呼んで、島中に検問を敷くのよ! 捜索願を出して、ヘリを飛ばすのよ!」
その頃、本館から離れた「別館」の静かなテラス。
湊はトロピカルジュースを啜りながら、手元の双眼鏡で、遠くの本館の廊下が騒がしくなっているのを眺めていた。
「……直道、見ろ。本館の5階が、まるで作戦本部のようになっている。理央がスマホを振り回し、静香がフロントを問い詰めているな」
「うわ、本当だ。玲奈も一緒になって暴れてるぞ。……あいつら、お前が『本館のどこか』に隠れてるって確信してるみたいだな」
「フッ、当然だ。私の予約データは君が完璧に書き換えた。彼女たちの論理回路では、『湊が別館にいる』という解に辿り着くには、まだ数時間はかかるだろう。これぞ物理的・情報的パージの極致だ」
湊は、ようやく手に入れた「誰にも邪魔されない時間」に、勝利の美酒を喉に流し込んだ。
本館では、理央が「お兄ちゃん! 出てきて! 警察を呼ぶわよ!」と叫びながら、非常階段の隅々まで探し回っている。
静香はホテルの監視カメラの映像をハッキングしようと、フロントで「支配人を出しなさい」と詰め寄っていた。
「……湊、これいつまで持つかな?」
「データ上の偽装は完璧だ。だが……直道、君のSNSの投稿だけは控えてくれ。それだけが、唯一の脆弱性だ」
「分かってるって。……あ、でも、さっき理央ちゃんから『お兄ちゃんがいなくなった! 心当たりない!?』って涙目のスタンプ付きでメッセージ来たけど、無視していいんだよな?」
「……ああ。慈悲の心は、今の私の平和には不要だ」
あまりの執念で本館をひっくり返そうとする三人の姿に、湊は少しだけ「ドン引き」しつつも、まだ見つからないという確信に浸っていた。
だが、湊は知らなかった。
執念に燃える静香が、既に「湊が好む、エントロピーの低い(静かな)場所」を逆算し、捜索範囲を別館へと広げようとしていることを。
南国の夜。嵐はまだ、本館という名の檻の中で猛っているだけだった。




