隠密のチェックインと本館の罠
機内。玲奈が窓の外のエメラルドグリーンの海に気を取られている隙に、湊は中央席の直道に、音を立てずにスマートフォンを差し出した。画面にはメモアプリが立ち上がっている。
『直道。至急、宿泊予定のホテルの空き状況を調べてくれ。特に「別館」だ』
直道は意図を察し、ニヤリと笑って手元の端末を操作し始めた。彼は湊の友人であり、こうした「緊急避難」の隠密工作には慣れている。数分後、直道からスマホが返された。
『別館は全室空室。学会関係者は全員本館に固まってる。玲奈も本館の最上階だ。どうする?』
湊の脳内で高速演算が行われる。
妹(理央)とメイド(静香)は、搭乗リストから玲奈の存在を把握している。彼女たちが到着した際、真っ先に確保しようとするのは「湊の隣」であり、同時に「玲奈の監視ができる位置」だ。
「……直道、そのまま私の予約を『別館』の端の部屋に変更してくれ。玲奈には、私がまだ本館に泊まると思わせておく」
「了解。……お前、相変わらず逃げる時だけは天才的な計算速度だな」
直道が密かにホテルのシステムへアクセスし、湊の宿泊先をこっそりと書き換えた。湊はそれを確認すると、深く座席に背中を預けた。これで、玲奈という「現在のノイズ」と、後着する「未来の嵐」から、物理的な距離を確保できるはずだ。
那覇空港に降り立ち、一行はホテルへと向かうタクシーに乗り込んだ。玲奈は湊の隣を陣取り、上機嫌で話し続けている。
「湊君、ホテルに着いたらまずはラウンジで学会の予稿集を読み合わせましょう。……あくまで、あなたの論理的ミスを私が事前に修正してあげるためよ。感謝してほしいわね」
「……あいにくだが、玲奈。私は移動の疲れで、少し一人の時間が必要だ。チェックイン後は各自、自由行動にしよう」
「なっ……! せっかく私が時間を割いてあげると言っているのに! ……ふん、勝手にしなさいよ。どうせ本館の私の部屋から、あなたの部屋は見えているんだから。逃げ出そうなんて思わないことね」
玲奈の言葉を聞き、湊は心の中で直道と視線を交わした。彼女はまだ、湊が別館に「隔離」されたことを知らない。
その頃、那覇空港の滑走路に、凄まじいエンジン音と共に次便が着陸した。
扉が開いた瞬間、通路を猛然とダッシュする二つの影があった。
「静香! 早く! 予約サイトによると、お兄ちゃんの隣……本館のスイート付近がまだ一室空いてるわ!」
「承知しております、理央様。既に私の端末から、本館・玲奈様の真隣の部屋を確保いたしました。……これで、主人の貞操を守りつつ、あの『不純物』を24時間監視下に置くことが可能です」
静香と理央は、勝利を確信していた。
ホテルの本館マップ上で、湊(と彼女たちが思い込んでいる部屋)、玲奈、そして自分たちの部屋が三角形に並んでいるのを見て、静香は冷徹な笑みを浮かべた。
「ふふ、これでチェックインした瞬間に、あの女に絶望を教えてあげますわ…
ホテル本館。
玲奈は、湊が自分の近くの部屋にいると信じ込み、「いつ彼が部屋から出てきてもいいように」と、廊下を気にしながらあまのじゃくな再会のシミュレーションを繰り返していた。
そこへ、嵐のような勢いで理央と静香がチェックインしてくる。
「見つけたわ玲奈! お兄ちゃんはどこ!? 私たちが来たからには、一秒たりとも近づかせないんだから!」
「玲奈様。主人の隣という『特等席』を不当に占拠した罪、ここで清算していただきます」
理央と静香が玲奈の部屋のドアを叩き、一触即発の修羅場が本館で幕を開ける。だが、彼女たちがどんなに睨み合い、湊を探そうとも、そこに本尊の姿はない。
その頃、湊は。
本館から数百メートル離れた、誰もいない静かな「別館」のテラスで、一人静かにトロピカルジュースのグラスを傾けていた。
「……静かだ。これが、本来あるべき南国の休日だな」
湊の背後で、直道が「あいつら、今頃本館で大騒ぎだろうな」と笑いながら、自分もジュースの瓶を空けた。
本館という「戦場」を完全にパージした湊の、束の間の安息が始まった。




