閉鎖空間の心理戦と水平線の彼方の脅威
機体が安定高度に達し、シートベルト着用サインが消えた。湊は隣に座る直道の肩越しに、窓側の席からこちらを睨んでいる九条院玲奈を視界に入れ、小さな溜息をついた。
現在、この列の座席配置は【窓側:玲奈 — 中央:直道 — 通路側:湊】。湊にとっては、直道という「物理的な隔壁」が存在する、極めて合理的な布陣だった。
「……ふぅ。直道、君がその席を死守していることには、戦略的な価値がある。そのまま動かないでくれ」
「おいおい湊、俺を盾にするなよ。……ほら、窓際から飛んでくる視線が痛くて、コーラの味がしねえよ」
直道が苦笑いする。その隣で、玲奈が文庫本を叩きつけるように閉じた。
「……ねえ直道。あなた、幼馴染の空気が読めないのかしら? さっさと湊君と席を替わりなさいよ。あなたが真ん中にいるせいで、物理学の最新パラダイムについての議論が滞っているじゃない」
玲奈の言葉はもっともらしいが、顔はわずかに赤い。彼女の本音は「湊の隣に座りたい」だけなのだが、あまのじゃくな彼女はそれを「議論のため」と言い換えた。
「断る。湊は俺の隣が一番落ち着くんだよな? なあ湊」
「その通りだ、直道。君という緩衝材があってこそ、この機内の秩序は保たれている」
「なっ……! 湊君、あなたまで何を言っているの!? 私が隣にいた方が、知的な刺激があって有意義なフライトになるに決まっているでしょう? ……べ、別に、あなたの寝顔を間近で見たいなんて、一ミリも思ってないんだから!」
玲奈の露骨な動揺に、湊はさらに深く座席に身を沈めた。
「……玲奈。君の知能指数は認めるが、その『刺激』は今の私には過剰だ。ほら、これ。直道から預かった。君が喉を痛めないように、機内サービスの飲み物でも選んだらどうだ」
「……っ! 余計なお世話よ! ……あ、でも、その……あなたが選んだものなら、飲んであげなくもないけれど」
3人は昔からの付き合いだが、湊にとっては、妹やメイドがいないこの空間は「平和」なはずだった。しかし、幼馴染特有の距離感に、別の意味で精神を削られていた。
二時間の飛行時間は、玲奈が直道に「退きなさい」と迫り、湊が直道に「死守しろ」と命じ、直道がそれを楽しむという不毛な三つ巴のまま過ぎ去った。
やがて、機体は那覇空港へと着陸した。
「……着いたな。まずはホテルへ向かう」
湊が機内モードを解除した瞬間。彼のスマートフォンが、テーブルの上で跳ねるほどの激しい振動を開始した。
【通知:新着メッセージ 87件】
理央: 「お兄ちゃんのバカ!今、別の航空会社の臨時便を『力ずく』でもぎ取ったからね!待ってて!!」
静香: 「主人の隣席防衛に失敗した不徳、万死に値します。……なお、搭乗名簿のログを解析したところ、湊様の数座席隣に『特定の排除対象(玲奈様)』の反応を確認いたしました。現在、次便を確保。あと120分で、その不純物を物理的に排除しに伺います」
「……っ、静香の奴、地上にいながら機内の搭乗者リストまで洗ったのか……」
湊は、メイドの執念がもたらした「筒抜けの現実」に戦慄した。
到着ロビーに出ると、南国の生温かい風が一行を包み込んだ。湊の背筋には、北極圏のような寒気が走っていたが、玲奈は晴れやかな顔で湊の隣に並び、当然のようにその歩調を合わせた。
「どうしたの? 湊君。せっかくの沖縄なんだから、もっと解放的になりなさいよ。……まずは三人で、景気づけにトロピカルジュースでも飲みに行かない? ……ほら直道、あなたはあっちの荷物受け取りでも見てきてよ。私のスーツケース、重いんだから」
「はいはい、そっちが本音ね。湊と二人になりたいからって、俺を使い走りにするなよ」
直道は玲奈の言い草を軽く受け流しながら、スマホの画面を見つめたまま固まっている湊の横顔を覗き込んだ。
「……おい湊。これ、ジュース飲んでる場合じゃないだろ。お前の妹さんとメイドさん、もう離陸したってよ。この文面だと、ここに着いた瞬間にターミナルを爆走してくるぞ。……特に静香さん、『不純物の排除』って、玲奈のこと完全にロックオンしてるじゃないか」
直道の言葉に、湊は手の中のデバイスを握りしめた。
水平線の彼方から、憤怒と執念を積載した次便が迫っている。
二人の幼馴染に挟まれたこの120分は、安息などではなく、嵐の前の静けさに過ぎなかった。




