離陸の優先順位と第三のバグ
保安検査場という「物理的な聖域」を目前にして、湊は冷徹に状況を収拾させていた。スーツケースから這い出した「生もの(理央)」と、どこからともなく現れた静香。この異常な光景に周囲の視線が集まる中、湊は事務的に問いかけた。
「……待て。理央、お前はなぜここにいる。有効な搭乗券を持たない個体がこのゲートを越えるのは、航空法およびセキュリティ上のプロトコルに反するはずだ」
理央がパーカーの襟を正しながら、気まずそうに静香を見る。静香はCA風の私服で優雅に一礼し、自らの端末を操作した。
「ご安心ください、湊様。理央様が密航に失敗した際を想定し、主人のマイレージポイントを勝手に運用して、座席未指定の『オープンチケット』を確保済みです。さあ、QRコードを表示してゲートを――」
静香が自信満々に端末をゲートのリーダーにかざそうとした、その時だった。二人のスマートフォンが同時に、不吉な電子音を奏でた。
「……あ、メール? 航空会社から、『ご搭乗手続きに関する重要なお知らせ』……?」
「……チェックイン・システムからのエラー、ですか?」
二人が画面を凝視する。そこには、連休初日の混雑と機材変更が引き起こした、非情な現実が綴られていた。
【重要】オーバーブッキングに伴う座席未確保のお知らせ
本日の便におきまして、機材変更により座席数に不足が生じました。
誠に恐縮ながら、お客様の予約(キャンセル待ち種別)は**「座席未確保」**となり、保安検査場への入場資格が付与されませんでした。次便以降への振替をお待ちください。
「な、……そんなっ! 保安検査場にすら入れないなんて! お兄ちゃんと一緒に離陸する気満々だったのに!」
「……計算外です。私のハッキング……いえ、高度な予約割り込みが、航空会社のメインサーバーに弾かれたというのですか……」
隣で同じメールをチェックした直道が、肩をすくめて笑い出した。
「残念だったな、お二人さん。湊と俺のチケットは一ヶ月前の早期確定分だ。お前らみたいな『直前の横入り分』は、こういう時に真っ先にシステムからパージされるんだよ。……おっ、湊、もうゲートが開くぞ」
湊はゆっくりとノイズキャンセリングヘッドホンを装着し、口角を微かに上げた。その瞳には、計算通りの結果を得た学者のような冷徹な光が宿っている。
「……ふむ。理央、静香。お前たちが不当な手段で私を追跡しようとした結果、宇宙の自浄作用によって物理的に隔離されることになったわけだ。これは因果応報だな。大人しくそこで、次便の空席という名の奇跡を待つがいい」
「待っててお兄ちゃん! 私、滑走路に寝そべって離陸を止めるからぁぁぁ!」
「湊様、お待ちください! 私が今から空港のシステムを直接ジャックして――」
「犯罪行為は認めない。さらばだ、バグ共」
湊は、検査場の手前で地団駄を踏む理央と、殺気立った表情でスマホを叩く静香を背に、軽やかな足取りで保安検査場の奥へと消えていった。
飛行機の機内。ようやく座席に腰を下ろした湊は、深く、深く安堵の溜息をついた。
エンジンの心地よい低周波振動が、先ほどまでの喧騒を洗い流していく。通路を挟んだ隣の席には、学会の共同研究者であり友人の直道が座り、リラックスした様子で機内誌を眺めている。
「……ようやく、環境の最適化が完了した。直道、やはり物理的な隔離こそが、バグに対する唯一の解だったな」
「まあ、あんなに必死な二人を置いてくるのは気が引けるけどな。……でも湊、これでようやくゆっくりできるぜ。……なあ?」
直道がニヤリと笑い、自分のさらに隣――窓際の席へと視線を向けた。
そこには、見知らぬビジネスマンが座っているはずだった。しかし、そこに座っていたのは、洗練されたリゾートドレスに身を包み、優雅に文庫本を捲る女性だった。
彼女は湊の視線に気づくと、驚いたように、しかし華やかな微笑を向けた。
「あら……湊君? まさかこんなところで会うなんて。これ、偶然かしら。それとも、神様のいたずら?」
湊は絶句した。それは、妹の理央やメイドの静香が「あの女だけは、お兄ちゃん(主人)に近づけてはならない」と、固い同盟を組んでまで警戒していた女性だった。
「……何故、君が此処にいる? というか、学会のスケジュールは把握していたはずだ。この便に乗る予定は聞いてないぞ」
湊の問いに、彼女は楽しげに小首をかしげた。
「フフ、予定は変えるためにあるのよ。……それより、いつもあなたの左右を固めている『可愛い監視役』さんたちはどうしたのかしら? 今日は随分と、自由な身みたいね」
彼女は、妹やメイドがどれだけ「管理」しようとしても入り込めない、湊の過去や知見を知る、二人にとっての「最凶の天敵」。直道が面白そうに耳打ちする。
「おい湊、お前の安息、離陸前に終了したな。これ、静香さんたちが知ったら、空港が爆発するんじゃねえか?」
機体が滑走路を走り出し、強烈なGが体をシートに押し付ける。
「……南国での休暇は、どこへ消えたんだ」
湊は、深く安堵の溜息をつくはずだったその口で、今度は絶望の溜息をついた。
家(空港)には、今にも暴動を起こしそうな執念の塊(妹とメイド)。
そして目の前には、彼女たちが最も恐れる「第3の女」。
高度三万フィート。逃げ場のない密閉空間。
湊は、リクライニングを倒すことすら忘れたまま、天を仰いだ。




