非・検疫対象とスーツケースの鳴き声
羽田空港、保安検査場。連休初日の混雑の中、湊は苛立ちを隠せずにいた。
「直道、なぜ有人カウンターへ誘導した。自動預け機の方が論理的かつ迅速だと言ったはずだ」
「悪い悪い、俺のバッグ、スプレー缶の制限に引っかかりそうでさ。……それより湊、お前のスーツケース、さっきから微妙に『温かく』ないか?」
「……摩擦熱だろう。これだけの重量を移動させれば、キャスターと床の間にエネルギー変換が生じるのは自明の理だ」
湊は淡々と答えながら、スーツケースを計測器の上に乗せた。デジタル表示が非情な数値を叩き出す。
【38.5kg】
「……は?」
湊の思考がコンマ数秒、停止した。パッキング時の予測値の倍以上。これはもはや「誤差」で済まされる領域ではない。
グランドスタッフの女性が困惑した顔で湊を見る。
「お客様……失礼ですが、中身に何か液体物や、あるいは……その、重量のある『動植物』などは入っておりませんでしょうか?」
「入っているわけがないだろう。私の荷物は厳密に計算された無機物の集合体だ。強いて言えば、私の情熱という名の質量が――」
その時だった。スーツケースの中から、限界を迎えたような「くしゅんっ!」という、あまりに人間味あふれるくしゃみが響いた。
周囲の空気が凍りつく。直道が目を見開き、スタッフが絶句する中、湊は無機質な表情のまま、震える手でスーツケースのジッパーに手をかけた。
「……ありえない。確率論的に、そんな事象が発生するはずが……」
ジッパーを勢いよく開くと、そこには湊のパーカーにくるまり、真っ赤な顔で丸まった理央が、上目遣いでこちらを見ていた。
「……えへへ。見つかっちゃった、お兄ちゃん。……中、ちょっと暑かったよぉ」
3.論理的拒絶と「生もの」扱い
「理央ォォォォォ!! お前は、お前という存在は、ついに物理的な境界線(家の壁)を越えて私のパーソナルスペースを侵食し始めたのか!」
空港のロビーに湊の絶叫が響く。しかし、湊はすぐに冷徹な「処理」モードへと移行した。彼はスタッフに向かって、極めて事務的なトーンで言い放った。
「申し訳ない。私の荷物の一部が、意図しない『有機的なバグ』に置換されていたようだ。……これの配送手続きを頼みたい。宛先は自宅だ。品名は『生もの』、あるいは『要隔離対象の哺乳類』として処理してくれ。航空法に基づき、即刻強制送還を希望する」
「ひどいっ! お兄ちゃん、実の妹をクール便扱いしないでよぉぉ! 私はお兄ちゃんの愛が詰まった『精密機器』なんだよ!?」
理央が床に転がりながら抗議していると、人混みの向こうから、聞き覚えのある、しかし極めて優雅な声が響いた。
「お困りのようですね、湊様。……やはり、私という『演算装置』を欠いたあなたのパッキングは、これほどまでに致命的な欠陥(妹)を混入させてしまうのですね」
そこには、完璧なキャビンアテンダント風の私服に身を包み、優雅にコーヒーカップを手にした静香が立っていた。
「……静香。お前、なぜここにいる。謹慎を命じたはずだ」
「主人の安全管理を放棄して謹慎するなど、メイドとしての論理に反します。……さて、その『生もの』の処理ですが、自宅へ送り返すよりも、私の監視下で『南国での強制労働』に従事させる方が、論理的な単位取得に繋がると思われませんか?」
湊、理央、静香。そして頭を抱える直道。
羽田空港の出発ロビーは、連休初日にして既に「湊の平穏」が完全消失したことを告げていた。




