密航の力学と重力異常のスーツケース
午前9時。 湊は自室の床で、横たえたスーツケースのジッパーに手をかけた。
「……? 妙だな。資料を詰め込みすぎたか。噛み合わせに通常以上の抵抗値を感じる」
ジッパーを引く指先に、ぐにりとした「有機的な弾力」が伝わる。まるで内側から、柔らかい何かがジッパーの進行を押し返しているかのような感触だ。
「学会のポスターケースが内部で膨張でもしているのか。あるいは、衣類の圧縮率が計算を下回っているのか……」
湊は膝でスーツケースの蓋を強く押し込んだ。その瞬間、中から「うぐっ」という微かな、空気が漏れるような音が聞こえた気がしたが、湊はそれを「ポリエチレン製の圧縮袋から空気が抜ける音」だと即座に定義した。
「ふん、無駄な抵抗だ。私のパッキング密度に逆らうことは論理的に不可能だ」
彼は力任せに、最後の一センチまでジッパーを力強く閉め切った。これでパッキングは完了。内部の容積は、理論上の限界値まで満たされたはずだ。
湊はスーツケースのハンドルを握り、床から引き剥がすように「グイ」と力を込めた。
「……っ!? ……ぐ、……ぬぅ」
その瞬間、湊の右腕を襲ったのは、想定を遥かに超える凄まじい質量だった。
計算上の総重量は、資料と着替えを含めて18.5kg。湊の筋力からすれば、片手で軽々と持ち上がるはずの数値だ。しかし、実際に手に伝わってきたのは、明らかに30kgから40kg近い「巨大な密度」の手応えだった。
「……重い。……重すぎる。重心のバランスも異常だ。底部にあるはずの重みが、なぜか側面の中央――ちょうど大型の辞書でも詰め込んだような場所に偏っている」
あまりの重さに、スーツケースのキャスターが悲鳴のような音を立てて床に沈む。
「なあ湊、何やってんだ? 早く行こうぜ、直道の車、もう下に来てるぞ」
隣で直道が、軽いボストンバッグを肩にかけながら呆れたように声をかける。
「……直道。このスーツケース、何か物理的な異常を感じないか。まるで中に『高密度の質量体』が潜んでいるような重さだが」
「ははっ、お前のパッキングが下手だったんだろ。それか、お前の執念が具現化して重くなったんだろ。早くしろ、時間がもったいない」
「……フン、非科学的な。……おそらく、室内と廊下の気圧差、および床のワックスの粘性抵抗が、私の触覚に誤差を生じさせているだけだろう」
湊はそう自分に言い聞かせ、腕に血管を浮かべながら無理やりスーツケースを転がし始めた。
二人がリビングを通り抜ける際、そこには湊の予想通り、椅子に座ってうなだれる静香の姿があった。
ピクリとも動かず、絶望に打ちひしがれたその背中は、あまりに完璧な「お仕置きされたメイド」の姿そのものだ。
「静香、留守を頼む。理央が計算を投げ出さないよう、一時間おきにバイタルを確認しろ。いいな?」
静香は、無言で深く、深く首を縦に振った。そのあまりに滑らかな動きに、直道が「なんか、いつもより動きがデジタルっぽくないか?」と首をかしげたが、湊は時計を見て歩を早めた。
「行くぞ、直道。空港へのリムジンバスの到着まで、あと12分だ。これ以上の遅延は許されない」
バタン、と重厚な玄関のドアが閉まり、オートロックの電子音が「カチリ」と鳴り響いた。
湊は、これで「バグ(妹とメイド)」を物理的に隔離したと確信した。
直道の車のトランクに、ドスンとスーツケースが積み込まれる。
その衝撃を受けながら、漆黒のスーツケースの中で、理央は湊のパーカーを抱きしめ、胎児のように丸まっていた。
(……はふぅ。苦しい……。けど、お兄ちゃんの服と、お兄ちゃんの荷物に囲まれて、私は今、宇宙で一番幸せな『手荷物』だよぉ……!)
理央は、静香から事前に渡されていた「小型酸素ボンベ」と「防音耳栓」を装着し、湊の残り香に陶酔していた。
今、自分とお兄ちゃんの間を隔てているのは、わずか数センチのポリカーボネートの壁一枚。
(待っててね、お兄ちゃん。空港に着いたら、私はお兄ちゃんの影に溶けて、南国の風になるんだから……!)
一方、直道の車のすぐ後方を走るタクシーの車内。
そこには、メイド服を脱ぎ捨て、完璧な「旅行者」に変装した静香が座っていた。
「……主人のバイタルに変化なし。スーツケースの重量異常に対する疑念も、現時点では『誤差』として処理されたようです。ふふ……論理的であるということは、想定外の狂気に対してこれほどまでに無防備なのですね、湊様」
静香は冷徹にタクシーの運転手に告げた。
「前の車と、一定の車間距離を維持してください。空気抵抗の計算は私が指示します」
南国への空路を前に、湊の知らないところで「三人」の旅行は既に始まっていた。




