深夜の脱獄と私物による誘引
午前二時。人間が最も深い眠りに落ち、論理的思考が停止する時間帯。
理央は、昼間に宣告された「地獄の補習」を回避すべく、暗闇に紛れて自室のドアを静かに開けた。彼女の狙いは一つ、この「教育監獄」からの脱出。
だが、リビングを横切ろうとした理央の鼻腔を、ある「馴染み深い香り」がくすぐった。
「……ん? この、微かに漂うウッディで知的な香りは……お兄ちゃんが愛用している柔軟剤!」
見れば、暗がりのソファの上に、無造作に置かれた湊の「お気に入りパーカー」があるではないか。
「あ、あれがあれば、逃亡先でもお兄ちゃんの成分を補給して頑張れるかも……!」
理央が吸い寄せられるようにそのパーカーに手を伸ばした瞬間――。
パッ、とリビングの照明が全開になった。
「――ターゲット、捕捉完了。やはり貴女の行動パターンは、主人の私物という餌に対して驚くほど忠実ですね」
そこには、完璧な直立不動で待ち構えていた静香の姿があった。その手には、ストップウォッチと、逃走防止用の結束バンド(のようなリボン)が握られている。
「静香さん!? なんで起きて……っていうか、これ罠!? お兄ちゃんのパーカーを囮にしたの!?」
「囮ではありません。これは『主人の私物に対する貴女の執着心』を測定する実験、兼、物理的拘束のための誘引剤です。さあ理央様、大人しく学習机に戻りなさい。深夜の徘徊は成長ホルモンの分泌を阻害し、脳の演算効率を……」
「――おい、お前ら。この騒音は一体何のバグだ」
寝室のドアが開き、眠たげに、しかし鋭い眼光を放つ俺が現れた。視線の先には、俺のパーカーを握りしめた理央と、それを冷徹に見下ろす静香。
「主人、申し訳ありません。理央様が脱走を試みたため、対処しておりました」
「対処だと? 静香、お前が理央を捕まえるために、私のパーカーを囮にしたのは明白だ。私の私物を、妹を釣るための低俗なトラップとして運用するな。兄の聖遺物という不要なデータが蓄積されるだろうが」
「……っ。主人の私物の有用性を、最も効果的に活用したまでですが……。以後、最適化します」
俺は深く溜息をつき、眼鏡をかけ直した。
「そして理央。お前もだ。脱走という非合理的な手段を選んだ挙句、私の私物を窃盗して精神安定を図ろうとするとは。お前の脳内回路は、学習意欲よりも物欲と依存心にメモリを割きすぎている」
「だってお兄ちゃん……このパーカー、すごく安心するんだもん……」
「黙れ。逃亡罪および窃盗罪(未遂)。これら重なるエラーを修正するため、明日の開始時刻を一時間前倒しする。……静香、理央を部屋に連行しろ。ドアの前に、お前の言う『物理的障壁』として待機することを許可する」
「御意に。……理央様、行きましょう。明日は日の出と共に物理(の地獄)が待っていますよ」
「お兄ちゃんのケチーッ! 静香さんの陰険メイドーッ!」
理央の絶叫が夜の静寂を切り裂く。
俺は、理央が掴んで離さないパーカを見ながら目頭を押さえた……
(続く)




