論理的休戦と植木鉢のセキュリティホール
研究室の静寂は、何にも代えがたい「情報のデトックス」だった。
真壁教授が淹れた(というより俺が淹れ直した)コーヒーの香りが、学食での「おにぎり強制入力」による精神的摩擦を中和していく。
「……湊君、そんなに険しい顔をして計算しなくても。この数式、あと三、四年は解けないわよ」
「先生。私にとっては、未解決の数式よりも、生活に干渉してくる『愛』という名の未定義変数を処理する方が、遥かに計算資源を消費するんです」
俺は、ボタンが二つも掛け違っている真壁先生の白衣から目を逸らし、ノートにペンを走らせた。
この人は、世界的な頭脳を持ちながら、自分が今朝何を履いてきたかさえ怪しい。その「欠陥」が、今の俺には救いだった。
だが、安息は「不器用」という名の地雷によって踏み抜かれた。
「あら、そういえば湊君。さっきの植木鉢……。私、昨日お水をあげすぎちゃって、鉢を動かしたのよね。それで鍵が、廊下の方へポロッと転がっていったような……」
俺のペンが、紙を突き破った。
思考回路が警告音を鳴らす。
廊下。そこには、俺を「管理」し、「養育」しようと牙を剥く、兄という名の獲物に飢えた二体の獣が潜んでいる。
「先生……! なぜそれを今言うんですか。それは物理層における致命的なバックドア(裏口)だと言ったはずです!」
「えへへ、ごめん。でも大丈夫よ、あの廊下は散らかってるから、すぐには見つからな……」
刹那。扉の向こうで、獲物の匂いを嗅ぎつけた獣たちの歓喜の咆哮が上がった。
「検知しました! この有機物(泥)の付着した金属片……湊様の生体反応が残留している『スペアキー』です!」
「見つけたー! 静香さん、ハッキングなんていらなかったんだよ! 物理こそ最強! 物理こそパワーだよ!」
ガチャリ、という絶望の音が、静寂を切り裂いた。
「湊様。セキュリティの更新(教育)の時間です。……あら、真壁教授。主人がお見苦しい『大雑把な生活』に染まる前に、私が除菌・消毒・管理させていただきます」
静香が、手にした霧吹き(さっきの艶やかミスト)を構えて突入してくる。その目は、獲物を仕留めるハンターそのものだ。
「お兄ちゃん! そのパン、昨日のでしょ? 私のセンサーが『鮮度不足』のアラートを出してるよ! はい、作り直した『超高密度ビタミンサンドイッチ』を口に……あーん!」
理央が、今度はサンドイッチという名の鈍器を手に、俺のパーソナルスペースを蹂躙する。
「……待て! 先生、助けてください! ここは私の……っ!」
俺は助けを求めて真壁先生を振り返った。
だが、先生は理央の持ってきたサンドイッチを興味深そうに覗き込み、
「あら、それ美味しそうね。私も一口……あ、またボタンが外れた」
……だめだ。この人は、論理的には最強だが、実生活においては「敵の兵站(食料)」に即座に買収されるタイプだ。
4.再定義される日常
「湊様、逃げないでください。まずはその掛け違った白衣のボタンから修正します。……真壁教授、あなたもです。並んでください」
「えっ、私も? メイドさん、厳しいのねぇ……」
静香によって、研究室という名の聖域は、瞬く間に「家事管理センター」へと書き換えられていく。
「お兄ちゃん、はい、あーん! もぐもぐしないと、午後の講義中に低血糖で倒れちゃうよ!」
「……理央。……咀嚼という行為は、本来自分の意志で行うべき……ぐ、」
三度目の「ぐ、」。
俺の口内は、理央の献身によって物理的に沈黙させられた。
どうやら、俺に「安息」というパラメーターは、プログラムされていないらしい。
(続く)




