聖域の境界と不透明な演算
国立SSS大学、第六研究室。
ここは、静香の「完璧な管理」と、理央の「過剰な献身」が物理的に遮断される、学内唯一の非武装地帯だ。
この研究室の扉には、俺が独自に開発した暗号化ロックが施されている。静香の指紋も、理央の声紋も登録されていない。
つまり、ここでは「インスリンの限界予測曲線」を突きつけられることも、「ただの丸めた米」を無理やり口に入れられることもない。
「……あぁ、空気が論理的だ」
俺は椅子に深く腰掛け、眼鏡を外して目頭を押さえた。学食での屈辱的な咀嚼(おにぎり事件)による精神的ダメージを、ようやくデバッグできる。
「あら、湊君。お疲れ様。顔色が少し『非効率的』だけど、またあの二人組に揉みくちゃにされたの?」
声をかけてきたのは、この研究室の主、真壁教授だ。
白い白衣を纏った姿は清楚そのものだが、彼女のデスクは情報のカオス(書類の山)と化している。
「……真壁先生。私のプライバシーに対する不必要な推論は控えていただきたい」
「ふふ、ごめんなさい。でも、これを食べると脳の演算速度が戻るわよ。ほら、賞味期限が昨日までのコンビニパン。少し固いけど、エネルギー量は変わらないわ」
彼女は、封が雑に引きちぎられたパンを無造作に差し出してきた。
静香なら「細菌繁殖の可能性」を論じて即座に廃棄し、理央なら「お兄ちゃんのために私が無農薬で一から!」と騒ぎ立てるだろう。
だが、真壁教授は違う。
「食べられるなら、それでいい」という、この潔いほどの大雑把さ。
「……いただきます。保存状態の厳密さより、今は『干渉を受けない自由』の方が栄養価が高い」
俺は固いパンを齧った。
彼女もまた、生活能力に関しては壊滅的だ。白衣のボタンが一つ掛け違っているし、さっきからコーヒーを淹れようとして、豆を床にぶちまけている。
「あ、またやっちゃった。湊君、代わりに淹れてくれる? 私、物理的なボタン操作は苦手なのよね」
「……いいでしょう。先生の不器用さは、もはや一種の自然定数(定数)ですから」
俺たちは、高度な数式については数時間語り合えるが、洗濯機の回し方一つで共倒れになる。この「生活上の無能」という共通項が、俺たちを奇妙な連帯感で結んでいた。
その時。
研究室の重厚な扉の向こうから、聞き覚えのある不穏な電子音が響いた。
「湊様。セキュリティの隙間を検知しました。扉の下、〇・三ミリの隙間から、霧状にした『高濃度栄養ミスト』を噴霧します。呼吸するだけで強制的に健康体へ導きます。開錠してください」
静香だ。破壊ではなく、まさかの「隙間風を利用したドーピング」という搦め手。だが、すぐに「……くっ、この部屋、気密性まで独自に強化されていますか。ミストが跳ね返って私に付着しました……。私の肌が不必要に艶やかになってしまいます……」と、自爆している声が聞こえる。
「お兄ちゃーん! その部屋の鍵、私が作った『自動開錠ナノマシン』を鍵穴に送り込んだよ! ……あれ? マシンたちが部屋の中の数式に興味を持っちゃって、鍵を開けるのを忘れて計算を始めちゃった! 戻ってきてー!」
理央だ。彼女の作ったAIは、主人の教育が悪すぎて好奇心が強すぎる。
扉の向こうで、最強の二人が「高度すぎる手法」ゆえに自滅し、悶絶している気配がした。
「……無駄だ。静香、理央。この扉は、私が一六八時間かけて構築した『論理の盾』だ。付け焼き刃の愛情では突破できない」
研究室の中は、再び静寂に包まれた。
「賑やかねえ。……でも湊君、あの扉、私が『合鍵』をそこの植木鉢の下に置いたままにしてた気がするんだけど……」
真壁教授が、コーヒーを啜りながらのんびりと言った。
俺は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「先生……。その『大雑把さ』が、時に私の命を奪いかねないということを理解してください。今すぐその情報を脳内から抹消してください」
「あら、ごめんなさい。……でも、今のところは見つかってないみたいだし。ね、研究の続きをやりましょうか」
先生が広げたノートには、コーヒーのシミと、世界を揺るがす理論が混然一体となっていた。
俺は、扉の外でまだ「栄養ミスト」を浴びてツヤツヤになっている静香たちを無視し、目の前の「美しいカオス」に集中することにした。
二十万字への道。
たまには、バグだらけの安息も必要だ。
(続く)




