第7話「SMコンビは見た」
今日は日曜日。窓から差し込む西日が、明くる月曜日の憂鬱を助長する日暮れ時。
しかし、楓の抱える悩みの種は貯め込んだ宿題でも、退屈な授業でもなかった。
「う~ん、やっぱり食べてくれない……」
要するに、現在進行形でそっぽを向き続けている赤ん坊の食事問題だ。
もちろん、彼女もただ手をこまねいていたわけではない。
朝・昼・晩、毎食毎食、異なるレトルト離乳食のふたを開け続け、そして、そのことごとくが、鉄壁の首振りディフェンスの前に、敗北を喫していた。
この二日間、途方もない忍耐と粘着的努力の末に、彼女が食べさせることに成功したのは、たった幼児用スプーン数口分のみ。
「……でも、なぜか望月君のおかゆだけは三食きっちりと食べてくれるんだよね」
一日三食おかゆを作り続ける黒兎。
それはもはや赤ちゃん専属シェフと言っても過言ではなかった。
幸い、給仕の方は彼でなくても問題なく食べてくれたこともあって、そちらの役割は楓に譲っているものの、依然、彼女から黒兎へと向けられる視線は痛い。
むしろ、日に日に痛みが増しているような気さえする。
「本当にどうしてなんでしょうね……。僕よりずっと料理もおいしいのに」
「そんなに謙遜しないで。嫌味にしか聞こえないから」
本当においしいんだけど、どうして……。
「(ギロリ)」
いや、ほんと僕にもわからないんで勘弁してください……。
「……明日の朝の分、買ってきて」
「……朝?」
「この子のごはん、五食分くらい……あとパジャマの換えも」
「は、はい! 喜んで!!」
そして、追加の一往復をこなした後、今日も別れの時間がやってきた。
陽が落ちた玄関先は、昼間の威容とはまた少し違う顔を覗かせている。
「その……さっきはごめんね」
もうすっかり顔を覚えられてしまったベビー用品店から帰ると、少ししおらしくなった彼女が待っていた。
「別に大丈夫ですよ。むしろその言葉を聞かせてくれるなら、もう三往復くらいは余裕でできますよ」
たぶん、それ以上は向こうの営業時間的に無理になっちゃうと思うけど。
「それはたぶん、私の良心の方が先に耐えられなくなると思うんだけど……」
彼女はそういうと、少し困ったようにはにかんだ。
ふむ、実に良い。今すぐカメラを取りに帰りたいくらいだ。
……ただ、今の彼女の顔は、モデルとして写真に写るとなると、目の下のクマがどうしても気になってしまう。かえって普段の彼女の顔をよく見ているからこそ。
「……それで、どうするつもりなんですか? その……これから」
子育ては大変だとよく言われる。その言葉はまったくもって真実だ。
楓と黒兎が赤子を拾ってから、だいたい七十時間。この三日間、楓はまとまった睡眠時間をとれていなかった。
赤ちゃんが寝たり、黒兎が相手をしている時間を利用して、二時間ほどの仮眠をとることはあっても、深い眠りにまではたどり着けていない。どうしても、少しずつ少しずつ疲れは蓄積していく。
それだけではなく、もっと直接的な問題もある。
「どうするって、何のこと?」
「明日、学校ありますよね」
そう。今日は日曜日。そして、彼女と僕がA市であの子を拾ったのが先週の木曜日のこと。
先週の金曜日、彼女は学校を休んだ。
それはある意味ではやむを得ないことで。
でも、これから先、ずっとそうし続けることは難しい。
「……この子を置いていけって言うの?」
「ですけど……」
「私は行かないからね」
僕と彼女の付き合いはそう長くない。
楓さんが転校してきたのは今年に入ってからで、初めてまともに会話をしたのが三日前、家に上げてもらったのはつい一昨日のことだ。
僕たちは十年来の幼馴染でも銀婚式の熟年夫婦でもないけれど、その口調から強い拒絶の意志を感じ取ることは、そう難しいことではなかった。
彼女とは対照的に、黒兎の歯切れは悪い。
理由は明白だった。
「(無理だったんじゃないですか……僕たちだけで子どもを育てるなんて)」
……その言葉を胸の奥に呑みこんだ、その理由は。
「じゃあね、また明日」
昨日とほとんど同じセリフとともに自重で扉が閉まっていき、黒兎の指は何かを探すように宙をさまよう。
「うん、また……」
奇しくも、一昨日と順番が逆さまになった別れの言葉が、完璧な防音性を備えた扉に、吸い込まれるように消えていく。
ただ、黒兎の胸に大きなもやもやを残しながら。
◇
そして、時は巻き戻る。
今日の昼でも、昨日でもなく、それは金曜日の放課後のこと――。
「美智流、今日もいつものファミレスでいいか?」
「う~ん、今日はコーヒーショップの方がいいかなぁ。いつもとは逆方向になっちゃうけど、今週から新商品の『ファイブ・タイム・ブラックス』が出てるんだよ」
「あいつに飲ませたら一瞬で体調崩しそうな名前だよな……」
「うさくん、お腹弱いもんね~」
「それじゃ今日はコーヒーな」
「あ、咲良も飲む? 『ファイブ・タイム・ブラックス』」
「俺は美智流ほど黒いのは好きじゃないから遠慮しとくよ」
「…………」
「あれ、何で急に早足に? 美智流、待ってくれよ?」
「……それで、どうだ、そのファイブなんちゃらのお味は?」
「うん、悪くないよ。多分豆から変えてるねぇ、これは。……まぁ、私と違って黒くない咲良には分からないかもだけど」
「その話は勘違いだってわかったんだから勘弁してくれよ……。ん……? あそこに立ってるの、うさじゃないか?」
「またそんな風に……」
「いやいや、これは嘘でも勘違いでもねぇって! ほら、あそこ!」
「……ほんとだ。あ、中に入っていったよ」
「あそこってベビー用品店だよな、何だってそんな所に……。ハッ、まさかあいつに幼児性愛趣味が!?」
「いくらうさくんでも、それは守備範囲広過ぎじゃないかなぁ。それに、もしもそういう趣味に目覚めたんだとしても、グッズだけ集めたりはしないと思うよ」
「グッズって、もうちょっとマシな言い方あるだろ……。でも、そうだな、そうだよな。あいつはちょっと変わったやつだけど、育児アイテムにさえ萌えられるようなレベルの高い変態じゃ……ない……よな……?」
「うんうん。たぶん、うさくんなりのよく分からない理由があるんだよ」
「……それ、あんまりフォローになってなくないか?」
~約一時間後~
「あ、うさくん出てきたよ」
「……なんかめっちゃ荷物増えてないか?」
「たくさん買い物したんだねぇ。後ろからお店の人も見送りに来てるよ」
「超優良顧客!? いや、ほんとに何してるんだよあいつ……」
~さらに三十分後~
「よし、俺も買って来たぞ、ファイブなんちゃら。って、うわ苦っ。匂いだけで苦っ」
「ねぇねぇ咲良、またうさくんが来てるよ~」
「はいはい、うさね。こっちは五倍の苦味でそれどころじゃ……ってうさぁ!?」
「今、中に入っていったよ」
「なんでだよ!? こんなところに一日に二回も来る必要がどこにあるんだよ!?」
「やっぱり倒錯的な趣味が」
「違う、あいつは俺の親友なんだ」
「それは多分私もだけどねぇ~」
「だから、何も言わずに信じてやるのが俺たち親友の務めなんじゃねぇかな」
「ひゅ~ひゅ~。さくらかっこい~」
「……美智流絶対そう思ってないだろ」
「あ、バレちゃった? ほんとはねぇ、目の前に完璧に盛り付けられた据え膳も食べられないとんだチキ」
「わーっ! それ以上はやめてくれ、お願いだから、頼むから、今日のコーヒー代おごるから!!」
~さらにさらに一時間三十分後~
「う~ん、やっぱりコーヒーは苦いのも甘いのも最高だねぇ」
「ついでに値段も最高だけどな。おかげで今週の小遣いがもう底をつきそうだぜ……」
「あ、うさくん」
「またか! またなのか!? もう月曜日どう顔を合わせたらいいのかわかんねぇよ!」
「あんまり大声で叫ばないでね。ほら、店員さんが『もう一杯ぐらい頼めよ』みたいな、物言いたげな視線を送ってるよ」
「ほら、でも俺のせいじゃないじゃん? 仕方ないみたいなところあるじゃん!?」
「はいはい仕方ないのはわかったから。おかわり頼んでこようね、私が払ってあげるから」
「美智流におごってもらうなんてできるか! ……おかわりも頼まないけど」
「その言い方には複数の受け取り方ができると思うんだけど、咲良的にはどういう意味?」
「後が怖い的な」
「ふぅん……まぁいいよ……。それで、うさくんの件、もう言い逃れはできないような気がするけど、どうするの? 親友として」
「うーん……。いや、あいつの趣味を広い心で受け入れてやるのも親友としての務めなんじゃないかな、うん」
「なんだかすっごくなげやりだねぇ」
「まぁ来週までには気持ちの整理つけてくるからさ」
「ほんとに?」
「……たぶん」
◇◆◇◆◇
「次回予告のコーナー」
早くも慣れ始めていた秘密のお買いものを、クラスメイト二人に目撃されていた黒兎くん。
自主休校を決め込んでいた楓さんと合わせて、いよいよ包囲網も完成間近か、と期待が高まる今日この頃。
しかし、それでも投げ出すわけにはいかないのが惚れた弱み。
次回、第8話「女神はあなたの隣にいます(洗脳済)」お楽しみに!




