第6話「僕の彼女はたぶん母乳派」
結局、黒兎が靴を脱いだのは、雪見邸とベビー用品店を三往復した後のことだった。
今や、極端に物が少なかった玄関は、人一人がやっと通れるくらいのスペースしかない。
黒兎が初めて雪見邸の敷居を跨いでからおよそ四時間。やっとのことで玄関から上がり、彼女の後に続いてすっかり狭くなった廊下を歩いていく。
窓の外にはすっかり暗くなった空が見える。
夜。初めての彼女の家。廊下に反響する、妙に艶めかしい素足の足音。健全な男子なら、いや、むしろ不健全な男子でも、盛り上がらずにはいられないシチュエーションだ。
だが、彼の胸中は穏やかではなかった。
黒兎は気付いてしまっていたのだ。ある重大な買い忘れに。
およそ十五分の道程を三回も往復してベビー用品を運んだけれど、その中に『ミルク』は一つもなかったのだ。
赤ちゃんといえばミルク、ミルクといえば赤ちゃんと言っても過言ではない。そんな最大級に大事かつ必要なものの一つが、このうず高く積まれたダンボールの山の中に無いのだ。
……だが、だがしかし。
逆に考えてみよう。この思慮深い彼女が、とてもとても子ども好きな彼女が、紙おむつをサイズ別に三種類から、果ては、部屋の入り口に設置する柵みたいな感じのアレまでを、買い出しメモに列記した彼女が、こんな初歩的なミスをするだろうか。
答えは否。断じて否だ。
ならば、そこには何か別の理由が隠されていると考えるのが道理なのではないか。
考えろ……考えるんだ。正直、理由が単なるケアレスミスでも、僕の体力と精神力がちょっと削れるだけのような気もするけど、考えるんだ。そうだ、誰か偉い人が言ってたじゃないか、「理解しようとする意志が重要なのであります」とか、そんな感じの事を。
冷や汗が額を伝う。
廊下を歩き、部屋の中に入るまでの数秒間の考慮時間を使い切って、彼の高校二年生男子の神経回路が一つの答えを導き出す。
黒兎はごくりと生唾を呑む。
ベビー用品店のほとんどすべての売り場を回った、と言ってもいいほどに多種多様な赤ちゃん用品を網羅した彼女が、ミルクだけは買わなかった理由。
それは……つまり……。
「(……彼女は母乳派だったということか!)」
あくまで噂、あくまで咲良から聞いた噂なのだけれど、世の中のママさんには、ミルク派と母乳派という二大派閥が存在しているらしい。つまり、楓さんはその後者に属していた、ということで……。
「今は寝てるから、あんまり大きな声は出さないでね」
楓さんは背中で念押しをしてから、赤ちゃんに覆いかぶさるようにして、足元にタオルケットを掛ける。慈愛に満ちた優しい姿だ。
……だが、その姿勢がまずかった。
前かがみ気味になった上半身は、図らずも体の一部分を強調してしまう。
この無防備さ! 不意打ち感! 意識がない一人を除けばほぼ二人っきりなこの状況!
五秒前までママさん的派閥争いに思いを馳せていた高校二年生男子・恋人なしの視線が、ある一部分に吸い寄せられてしまうのは、なんというかある意味仕方のないことで。
「ん? どうかした?」
「ひぃやっ!」
あの改造厨教師じゃあるまいし、背中に目がついているわけじゃないはずなのに!
こういう時に限って妙に鋭いのも、女子の嗜みというやつなんだろうか。
どっちにしても、こちらにしてみればたまったものじゃない。
「ぼ、ぼぼ、僕は何も見てないですから!」
声がひっくり返るとはまさにこのこと。
自分でも聞いたことがないような裏声と共に、思わず赤面した顔を思いっきり見られてしまう。
「ほら、起きちゃった。もう、望月君も手伝って! はい、早く!」
「は、はい……」
赤ちゃんはぱっちりとまぶたを開けていたものの、泣き顔ではなくどこかきょとんとしたような様子で、上から覗き込む黒兎を迎えた。
そして、彼女に勧められるまま、赤ちゃんを抱き上げようと手を伸ばす。
おずおずと惑い、不慣れさを全力でアピールし続ける指先。思っていたよりもずっと重い推定一歳前後の体。むずがる動きに合わせてするりと抜けてしまう布地。
ただ、この小さな体をほんの少し抱き上げる、それだけのことがこんなにも難しい。
「抱き上げたら、ゆっくりと揺らしてあげて」
赤ちゃんはやっぱり少し居心地悪そうに身動きをするけれど、それも数分くらい何も言わずに続けているうちに静かになっていった。
「そうそう、結構うまいよね。もしかすると望月君って育児の才能あるのかも」
……申し訳ないけれど、今は赤ちゃんより、耳元でささやくあなたの声を鞄の奥にあるレコーダーで録音して、保存用・保存用・保存用の三枚に焼き増ししたいです。はい。
そんな、ある意味失礼なことを考えていた黒兎を、赤ちゃんが腕の中から見つめている。
「う〜ん、でも、なかなか寝てくれないなぁ。お腹がすいてるのかな? ちょっと待っててね、着替えてくるから」
「きがえ……て!?」
ちょっと待って、待って! さすがに、それはこっちのキャパシティを大幅に超えちゃうんですけど!? おにいちゃん、そんな急展開は許しませんよ!?
「着替えなくていいから!」
「え? でも汚れちゃうかもだし」
「僕の心の汚れも大変なことになっちゃうから!!」
現に、赤ちゃんのよだれとMother’s milk(婉曲表現)で汚れた服を想像して、神経回路の雑念領域が急速に拡大中だ。
だが、彼女はそんな混乱と焦りと上っ面の建前だけで構成された言葉では、止まらない。
とっさに目を背けた黒兎の背後から、無情な衣擦れの音が響く。
「お願いします! それだけはほんとに勘弁してください!!」
望月黒兎、高校二年生彼女なし。彼はまだ犯罪者に身を堕とす覚悟を持っていなかった。
『うぎゅ、ぎゃあぉあ』
「もう! いきなり叫ぶから泣き出しちゃったよ!」
幸いなことに、ちょっと怒りながら近づいてきた彼女の服は、はだけることなく、クラス平均をかなり上回る標高を誇る連山を、ちゃんと覆い隠していた。
「どうしたの? さっきからおかしいよ望月君。ひょっとしたら昨日の電車の時よりも」
腕から赤ちゃんをおろし、布団に寝かせ直してから数分後。
僕は再び彼女の詰問を受けていた。優しさとか気遣いが滲んでいるのが逆に辛い。
ただ、昨日とは違って原因の何割かは向こうの危機意識の欠如にある。今回は、そこのところをそれとなく伝え、なおかつオトコノコのデリケートな部分は保護するという難度の高い課題が課せられているのだ。……がんばれ、僕。
「その……ごはんが大切なのはよくわかるんですけど、もうちょっと周囲に対する配慮をした方がいいと思うわけですよ」
「周囲って、望月君しかいないし。別に困ることなんてないでしょ」
「困るよ!!」
薄っ、貞操観念薄っ! 僕の思い人ってこういう感じだったの!? なんか、こう早くも心が折れそうなんですけど!
え、っていうかこれ僕が悪いの? 確かに授乳は露出のうちに入らない聖域的な感覚があるのは分かるけど、こちとら一応同学年の異性ですよ?
溢れ出る好意も半ストーカー行為も昨日宣言しましたよね!? 目の前でそんなことされたらどうしていいかわかんないよ!? これまで授乳風景に遭遇したことなんてないし!
「どうして困るのよ……普通に離乳食作るだけなのに」
「え……離乳食? ミルクではなく?」
「だって、ミルク買ってないし」
「それって、その……母乳派だからですよね」
「え?」
「あ!?」
早っ、口滑らせるの早っ! さっきの難度の高い課題うんぬんはそこにいったんだよ!? デリケートな部分、まるで守れてないじゃないか!
「……赤ちゃんは人間換算で一歳相当だから、必ずしもミルクをあげる必要はないんだよ」
「え、え? でも、赤ちゃんはミルクで育つって……」
「そもそも、私たち母乳とか出ないし」
「……」
「だって母乳って英語なら”Human milk”だよ? 私たちから出るわけないと思わない?」
「…………」
「望月君もやっぱり男子高校生だったんだね。……そんな根も葉もない噂を信じるなんて」
「………………す」
「す?」
「すいませんでしたー!!」
「いや、そこで謝られても困るんだけど」
だって、言えるわけないよね。一人でふしだらな想像して空回ってました、なんて。
たぶん、いや絶対バレてるけど。
「あ、ということは、さっきの私を必死で止めようとしてたのって」
「そこはもう立派な裂傷になってるんで現在進行形で鉄分が流れ落ちてるんでこれ以上塩を塗り込むのだけは勘弁してください本当にお願いします」
◇
「意外だね、望月君って料理も出来たんだ」
「味の保証はできませんからね。さすがに離乳食を作ったことはないですから」
思い人本人に、正面からバッサリとやられてしまってから十数分後。
僕は恥ずかし成分高めの汚名を雪ぐため、彼女の手伝いに邁進していた。
……しかし、本当になんとかしないと。
このまま一日に一個のペースで恥を晒していけば、最終的にいったいいくつの弱みを握られることになってしまうのか想像もつかない。
「……え? 望月君に頼んでたのは私たちが食べる普通の晩ごはんだよね?」
「え?」
本日何度目かの、驚きと戸惑い入り混じったリバースボイスが漏れる。
手元の片手鍋には、病人でなければ、それも消化器系に相当のダメージを負ってでもいないと食べないような、ドロッドロのおかゆが泡を吹きながら煮えていた。
……後で聞いた話によると、親がこの年くらいの子どもと一緒に食事を取るといろいろと良い効果があるらしい。
あと、その際、必ずしも子どもと同じメニューを取る必要はない、だそうだ。
……別にいいもん。お腹にも優しいし。
◇
「はい、あ〜ん」
……たぶん、みんなわかってると思うけど、この恋愛系映画における食事シーン定番のフレーズを向けられているのは僕じゃないからね。赤ちゃんだからね。そこんところ誤解しないでね。
しかし、そんな風に、黒兎が心の中で虚しさ満点の釈明を行う一方で、うらやましくも彼女の“あ〜ん”を受ける赤ん坊はといえば
『あう!(プイッ)』
差し出されたスプーンから目を背け、全力で彼女の表情を曇らせていた。
「(何をやってるんだよ!)」
と、怒るような、大人げない行動はさすがにしなかったけれど
「う〜ん、店売りのでもダメかぁ、今朝は私の料理が下手なだけかと思ったんだけど」
それでも、彼女の落ち込んだ顔を見るのはやっぱり複雑で。
「ちょっと僕があげてみてもいい?」
だから、僕がそんなことを申し出たのも、ちょっとした罪滅ぼしとか気遣いとかいたたまれなさのせいで、本当のところ、ぜんぜん期待とかはしていなかった。
大人用のれんげに乗せたおかゆの量もちょっと多かったし、本当は、もっとゆっくり口元に持って行った方が良くて、そもそも食べかけのおかゆじゃなくて彼女の作った本物の離乳食をあげるべきだった。
……だけど、いや、だからこそ、僕たちは小さな口がドロドロに溶けたおかゆをのみこんだとき、とても驚いた。
『あう!』
三口かけてれんげを空にした赤ちゃんは、彼女の離乳食を拒否した時と同じような声をあげ、今度は僕の顔を見つめる。
「望月君!」
彼女の急かす声でやっと我に返った僕は慌てておかわりのおかゆをすくった。
そのあとも、赤ちゃんのつぶらな瞳に急かされながら、ひたすられんげを運び続ける。
「……どうして? 私は頑張っていっぱいレシピとか調べて作ったのに……」
その間、後ろから聞こえるちょっと恨みがましい呟きから必死に耳を背けながら。
……なんだろう。彼女から嫉妬を向けられること自体は嬉しいはずなんだけど、これは僕が思っていたものとは違う気がする。
あ、お椀に半分以上残ってたおかゆ、全部食べてくれた。
「(じとり)」
……そんな目で睨まれても、僕にどうしろっていうんですか!?
◇
食べた後は眠くなる。
全年齢対象の法則が示す通り、僕が空になった食器を洗い出す頃には、赤ちゃんの瞼はすっかり落ち切っていた。
「それじゃ、また……」
一通りの後片付けを終え、僕は玄関で別れの挨拶をする。
今日だけで何回もくぐる羽目になった玄関だけど、それでもまだちょっと気恥ずかしい。
「あ、明日は休みだし、朝から来られるよね?」
また、次はいつか。僕が言えなかった言葉の続きを、彼女が継ぐ。
そのちょっとした一言が嬉しくて。
「もちろんです!」
僕は確実に浮かれていた。
「ちなみになんだけど、望月君って早起きは得意?」
「ええ! もちろんですとも!」
毎日、朝ご飯を食べずに学校まで走るはめになっているくらいには。
……だいたい高校が遠すぎるのが悪いんだ。片道四十分だよ、四十分!? 小学校も中学校も歩いて十分もかからなかったのに。
「それじゃ、六時半に来てね。うちまで」
「あ、いや、それはちょっと——」
「いや〜助かるよ。昨日は寝られなくて、たぶん今日もそうなると思うから。明日望月君が早くに来てくれたら、その間にあの子を任せてちょっとだけでも眠れるじゃない?」
そう言って、彼女は口元に手を当ててあくびをかみ殺した。
「じゃ、また明日よろしくね」
そして、重い金属音と共に彼女が扉を閉めると、僕が訂正の言葉をはさむ隙もなく、一瞬で二重のロックが掛かる。
……さすが過ぎるでしょ、この家のセキュリティ。
え、あと何気に二人っきり(プラス一)状態で寝るって言いました?
◇◆◇◆◇
「次回予告のコーナー」
まさか、恋人未満状態の楓さんから嫉妬を向けられるとは思わず、嬉し困りしな黒兎くん。
しかし、彼の受難がこれだけで終わるはずもなく、さらには、楓さんの様子も少しおかしくて……。
子育てとトラブルの輪が広がる第三章
次回、第7話「SMコンビは見た」お楽しみに!




