肌の温度
「では、もう一つ、新しいエアリアルルームを用意しますね」
「北川さんは、見に来ていただけないのですか?」
「はあ、あなたのプライベートですから」
「私は構いませんが」
自宅の玄関先で、北川は夜爪に知られないように、深い溜息を吐いた。
最初に用意したエアリアルルームが、程よく一杯になり、日記の内容が現在に追いつきそうだという話を、北川は夜爪から何度も聞いていた。行ったら行ったで、最近の夜爪の行動が日記から目に入ってしまうかもと思うと、もうそれだけで恐れ慄いてしまって足が進まない。
他の男とのデートの様子を目の当たりにして狂ってしまうことだけは、どうしても避けたかった。何という心の狭さだ、北川はその溜め息と共に、自分を失笑するしかなかった。
「私の集大成なんです。お手伝いしてくれた北川さんと共有したかった」
夜爪が寂しげな空気を散らしながら言った。
その言葉で、余命宣告された老人のことを思い出す。一緒にコタツに入って、お酒を酌み交わした日。
「家族って言えるかどうか、うちの場合は。どうしようもないですけどね。お金があり過ぎるんですよ。平等に分けても分けなくても、文句が出るんです。ここを買う時にも、余計なお金を使って財産を減らすなって、反対されましたよ。十分過ぎるくらいのものが、ちゃんと遺るっていうのにです。北川さんにも迷惑掛けちゃって」
何度も老人の家族から電話があり、説得してくれだの、お金は払わないだの、言ってきたことを思い出す。北川はそれをのらりくらりとした態度で、かわしてきた。
「それならよっぽど、他所へ寄付でもしてしまおう、そう思うんですよ。でも、」
寂しそうな顔で、猪口に残った酒を啜る。
「そうすると、家族が困るでしょ。当てにしてたお金が貰えないってことになるとね。うちの家族は大馬鹿者ばっかですけど、私も相当な大馬鹿者ですよ」
顔中の皺を寄せて苦笑する老人を前にして、北川は胸を締めつけられるような思いがした。余命宣告を受け、倒れそうなくらいに打ちのめされているのは、他ならぬこの老人であるのに。
「北川さんには良くして貰ったので、少しあんたにも遺していきたいんだが」
口座番号を聞かれ、やんわりと断った経緯もある。
「よしてください。最後の最後で、あなたの悪口でも聞かされるんじゃないかと、気が気じゃないだろうから。仕事の報酬だけで十分ですよ」
「あんたともお別れだと思うと、寂しいよ」
北川はそれだけで胸が一杯になった。そしてこの老人になら、自分の中にある大切な思い出を話してもいいか、そんな気になって言葉を進める。
「妻がね、生前の妻が実家に遊びに行く時に、よく言っていました。実家の彼女の母親が、もうその時はかなりの高齢だったんですが、いつもね、もう直ぐお迎えがくる、もう直ぐお迎えがくるって言うんです。親戚はみんな、まあ僕を含めてなんですが、何を言ってるんだ、まだまだ長生きしてもらわんとって、笑って誤魔化すんですけど」
北川は少し微笑んでから、続けた。
「彼女は、あの世の世界は時間の流れがあっという間なの、私も直ぐにもそこに行くから、少しの間だけ待っててねって。向こうで、待ち合わせしましょうって。そうするとお義母さんはすごく安心した顔になるんですよ。それからは、僕も信じています。向こうでまた、会えるだろうって。きっと、あなたも向こうでご家族に会った時、お金を遺してくれて助かりました、ありがとうって、言ってくれると思いますよ」
老人は、うんうんと頷いたきり、当分の間何も言わなかった。彼は本とコタツを心から堪能して、亡くなった。
「私の集大成なんです。お手伝いしてくれた北川さんと共有したかった」
夜爪からその言葉が聞けて、単純に嬉しかった。「共有」という言葉に、喜びが湧いてきて、全身から溢れ出しそうだった。
「……分かりました。伺います」
すると、夜爪が笑った。道端に咲く、可憐な花のようだと思った。
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秋口の、澄んだ空気が肌をちりりと刺して、もう冬の入り口だと教えてくれるような日。
エアリアルトランスファーで移動すると、一瞬の内にエアリアルルームの入り口に立っていた。エアリアルルームにはドアや玄関はない。移動すると直ぐにその空間に足を踏み入れることになる。目に飛び込んできた、だからこその、この景観。
腰の辺りまで積み上げられた積み木でできたオブジェが、ぐわっと目の前に突然現れて、頭では分かってはいたけれど、視界で圧倒される。
その圧迫感に慄きながらも、北川は言葉を繋いだ。
「なかなか、凄いことになってますね」
夜爪がふっと吹き出して、「頑張りましたでしょう」と言うので、北川もふふっと笑った。
「これ以上、積み上げると、この上に登れなくなるので、この辺でやめておこうかと。日記ももう、現在に追いついたので、ここに直接書きに来ています。どこからでも移動できるし、本当に便利です、これ」
夜爪が手元にあるエアリアルトランスファーを見る。
一見すると、ただのプラスチックの箱のように見えるが、中を開けば複雑な構造になっており、一度解体すると、機械音痴の北川では、二度と組み立てられない。
最低限の、スイッチやボタンの操作の説明だけで、あとの管理は依頼人本人に任せてあるのが現状だ。
これはエアリアルルームへと移動するものであると同時に、部屋の鍵の機能も果たしている。それはその空間を緯度や経度、新たに定められた深度という概念で高さを特定し、そしてそこへと人間を運ぶようにできているのだが、それが第三者には改ざんできないようなシステムになっているため、セキュリティーも万全、ドロボウに入られることもなければ、家族や他人に踏み込まれることもない。
今日も、夜爪本人の了承と許可の上で、北川はこの部屋へと招待されているというわけだ。
「どうぞ、上にあがってください」
一歩を踏み出すのに躊躇している北川に、夜爪は以前言っていた同じ内容の話をする。
「読んでくださっても構いません。いえ、逆に読んで欲しいくらいです。私を知って欲しいのです」
再度、同じ内容を言われて、北川の心臓は爆発しそうだった。
(私を知って欲しいなんて、)
それが悪い意味でないことも分かっているし、ともするとその好意とも取れる言葉に、先ほどから自分でも面白いほどに振り回されている。
腰の辺りまで積み上げられた積み木の上へと、よじ登る。小さな台が置いてあり、これが夜爪が持ってきたものだと知れる。
後から、夜爪が登ってくるのを手助けしてから、北川はその真ん中で立った。
壮大だ、凄い。
積み木を並べ始めた頃は、間が抜けたバカみたいな行為に思えたのに。
部屋の真ん中に立っているので、足はついてはいるが、妙な浮遊感がある。歩くと、ミシミシ、カタカタと小さな音がした。
「床が抜けるとか、そういう危険性がないので、安心です」
エアリアルルームに重量制限はない。無重力ではないが、地上ほどの重力もないので、自分の身体さえ軽く感じるくらいである。
「凄いです、頑張りましたね。感動しました」
そう言うと、夜爪はにっこりと笑って、初めてここでコーヒーを飲んだ時のように、カバンからポットとマグカップを取り出した。夜爪がその場で座り込んで作業をしている間、北川は意を決して、日記を読み始めた。
『てやあしがしろいまえからいたみがあるとはおもっていたがちがかよっていないようだ……』
頭の中で漢字に変換していく。
『手や足が白い。前から痛みがあるとは思っていたが血が通っていないようだ。脳が少しでも寒冷を感じると、直ぐにも指先に血が通わなくなる。出来る限り温めて、冷やさないよう主治医に言われる。これでまた一つ病名が増えてしまった』
そこまで読んで、北川は振り返った。夜爪の、マグに温かいコーヒーを入れ終わって、ポットのフタを回す手が、真っ白だった。
北川は直ぐに夜爪に近寄っていって座り込み、ポットを奪って置くと、その白くなった手を両手で握った。
「き、北川さん」
何という冷たさだ。前から冷たいとは思っていた。けれど、血が通わないその真っ白な指を見て、そして北川の握った手の温度をするすると奪っていくその冷たさを感じて、北川はこれは死人の手だ、と思った。
死。
それを考える時、一種の畏れのようなものが北川を包み込む。
妻の手も、
それを思い出した瞬間、北川は夜爪を抱き締めていた。そして身体を離すと、直ぐにまた手を握り、「どうしたらいいんですか、どうしたら温かくなる?」と何度も問うた。
夜爪の指先に、はあっと息をかけてみたが、一向にその肌の色が帰ってこない。自分の首にその手をくっつけると、ひやりとした冷感が、全身を駆け巡った。その上から、自分の手を押しつける。サンドイッチにされた手が、少しずつその温度を変えていくのを、ただひたすら待った。
その間、一度だけ夜爪を見た。近づいたその顔は俯いてしまって、よくは見えない。けれど、北川が愛した長く美しい睫毛は、ふるりと震えて、未だに北川の中に跡をつけていくのだ。
けれど、それどころじゃない、血が通っていないということは、指が壊死してしまう可能性だってあるはずだ。
北川は自分のまだ熱い部分を探りながら、掴んだ手を首から頬やうなじへと移動させていった。
自分の体温を押し付けたい、以前と同様にそう思う気持ちが今度は欲望へと変わる瞬間、それは夜爪を愛する気持ちをやっとのことで、素直に認めた瞬間でもあった。




