溢れる気持ち
夜爪の要望で、もう一つのエアリアルルームを確保した。確かにもうあの部屋は満杯だ。北川は、積み木の入った段ボール箱以外は今はまだ何も置かれていないだだっ広い部屋で、腰に手を当てて仁王立ちしていた。
「よし、やるぞ」
運んだ積み木の箱を開ける。
そして、独り言を言いながら作業を進めていく。
「トオル先生にも、園長先生にも、角谷建設の社長の息子にも、どんな大金持ちでイケメンにも、夜爪さんは渡さない。もちろん、弟にもだ」
そう何度も繰り返した。口に出して言うのにも飽き足らず、何度も頭の中で繰り返した。
「よし、できたっ」
軽い興奮とともに、声に出して読む。
『よづめさんぼくはあなたがすきですどうかぼくとつきあってくださいしあわせにします』
『しあわせにします』の前に、『ぜったいに』を入れる。
「何か、子どものラブレターだな、これ」
どれだけ仁王立ちで立って読み上げてみても、その稚拙さは変わらない。
そして優に一時間の間、その文章の前でうろうろとしてから、腹を決めてエアリアルトランスファーで帰る。まだ夜爪と受け渡しの契約をしていないので、そのまま北川の自宅へと繋がっている。
保育園にアイを迎えに行き、上の空でハンバーグを作り、アイに「ねえ、パパっ、パパってばあ‼︎」と何度も言われながら夕食を食べ終わると、意を決して夜爪に連絡する。
「エアリアルルームを確保できましたので、一度、確認にいらしてください。ご案内します」
交わした約束は二日後の午後二時。北川の自宅に来てもらうことになっている。そわそわと落ち着かない時間を過ごし、何度もエアリアルルームへと足を運んで告白の文章を確認し、そして約束の日。
彼女は来なかった。
約束の時間を一時間ほど越した頃、携帯に夜爪から着信があった。北川は慌てて受話ボタンを押した。
「もしもし、夜爪さん?」
『こちら北川さんの携帯電話ですか?』
見知らぬ男の声が聞こえてきた。
「はい」
『私は矢野と申します。夜爪の代理人をしています。今日の北川さんとのお約束ですが、延期させて欲しいとの伝言を言づかっています』
咄嗟に嫌な予感がして、恐る恐る聞く。
「夜爪さんはどうされましたか? 具合でも悪いんですか?」
『今朝から風邪をこじらせて、入院されています』
背中をひやりとした冷たいものが走る。
「え、入院? どこの病院ですか?」
『如月総合病院です』
「お見舞いに伺っても? どんなご様子ですか?」
『現在は検査入院の段階ですが、結果によっては長引くかもしれません。面会はできますので、お見舞いもどうぞご自由に』
北川は慌ててジャケットを羽織ると、車に飛び乗ってナビを病院に設定した。設定ボタンを押す指が、微かに震えているのを、別人のように冷えた自分が見ていた。
「症状が一つずつ増えていくんです。それは痛みだったり、目や口の渇きだったり、筋力の低下だったり。それに加えてできないことが、一つずつ増えていくんです。その度に、歩けなくなったらどうしようとか、見えなくなったらどうしようとか、食べられなくなったらどうしようとか、不安に思って」
あの積み木で一杯となったエアリアルルームで、コーヒーを飲みながら話した記憶が蘇る。
彼女は独り、震えている。怯え、不安になり、気がふれそうになりながらも、それに耐えて生きている。
誰か、寄り掛かる人はいるのだろうか、そう考えるたびに、北川の心は激しく揺さぶられた。
「お金の心配はしなくていいようにと、弟が色々と手助けをしてくれました。弟と私は、異母姉弟なんです。弟は父とは上手くいかず、とても苦労していました。それを助けていたのは、咲ちゃんの存在なんです」
夜爪が俯いて眼を伏せた。
「弟は本当に……凄いですよね、ぶれることなく一途に、一人の人を想うって。それはどんなことなのだろうと、私は疑問で頭を一杯にしながら、傍で指を咥えて見ているだけでした。どうして一人の人を想い続けられるのか、私にもいつかそういう想い人ができるのだろうか、と」
ナビを手繰る指を止める。
「けれどもう、途中から諦めてしまった。この病気まみれの私の人生に、誰かを引き込んで巻き込むことはできないと思いました。それで一人で生きていこうと決めて、独立して名前も母方の姓だった夜爪に戻しました。無意味で無機質、それはこの日記ではなく、私自身なんです」
ぽかりと、どこか空洞のある夜爪の背景に、触れられたような気がした。夜爪がこの日話してくれたことは、やっと少し心を開いてくれた証拠のような気がして、北川は暗々裏に小さな喜びも感じていた。
距離を置いていたはずなのに、計らずも自分の前に、もうほんの一歩ほど前に、夜爪の存在がある。手を伸ばせば届く距離に。
欲しい、欲しい、欲しい。そう思うと、心が欲して、渇いていった。
北川は、その溢れ出してくる熱情に突き動かされ、キーを回してエンジンをかけると、車を勢いよく走らせた。
✳︎✳︎✳︎
心が急いて、それが身体中に伝わっていく。急ぎ足で辿り着いた病室は、その病棟の一番奥にあった。病室のドアの前で名前のプレートを確認すると、息を整えて控え目にノックをする。
すると、中から「はい」と返事が返ってきた。男の声。
ドアをそろそろと開けて、一歩中に入ると、むせかえるような花の匂いに圧倒された。個室で大部屋より狭い空間にも関わらずの、この大量の花。目に飛び込んできたのは、華美な花々だった。その時に初めて、手ぶらで来てしまったことに気がつく。
ベッドには横たわった夜爪が眠っていた。
その傍に座っていた男性が読んでいた本を閉じ、立ち上がって人差し指を口元へ持っていく。そして、促されてそっと病室を出た。
「矢野です。北川さんですね」
北川より高い長身の、スマートなスーツに身を包み、見かけは四十代くらい、片手に読んでいた本を抱えている。持つ手を避けて見えるのは、『幸福論』という題字。けれど、直ぐにも北川は眼を離して訊いた。
「お加減はどうですか?」
すると、矢野がおや、というような表情を見せた。
「ああ、ええ、まあ。風邪をこじらせただけなんですけど、持病があるので念のため検査を。検査結果については、明日説明がありますが、何もなければそのまま退院です」
「そうですか、良かった」
北川がほっと胸を撫で下ろす。
「じゃあ、また明日来ます。今は眠っているみたいなんで」
「ああ、そうですか。ありがとうございます」
そして、北川は少しだけ病室を覗いてから、病院を後にした。
翌日の土曜日は、アイを保育園に預けるか迷ったが、行きたいと言ってきかないアイを休ませて、一緒に病院へとやってきた。
アイが折り紙で作った花束を大切そうに持っている。これは作り方を知らないアイと北川が、インターネットでその折り方を調べて、悪戦苦闘した末にできたものだった。
「マリちゃん、だいじょうぶなの?」
不安そうにしているアイを宥めながら作った花束と、途中で買ったゼリーを手にして二人は病室に入った。昨日と同じく、花の匂い。夜爪は身体を起こして、クッションを背にしていた。
「北川さん、アイちゃん、来てくれてありがとう」
昨日見た寝顔より、血色が良いような気がして、少しだけほっとする。矢野は不在だった。
イスを勧められ、もう一つイスをと、立ち上がろうとする夜爪を制して、北川は座った自分の膝の上にアイをひょいっと乗せる。後ろから抱え上げられたアイが、わぁっと声を上げた。
「お加減はどうですか?」
北川が慎重に問う。
「昨日もいらっしゃって頂いたみたいで。眠っていたようで、すみませんでした。やっぱりただの風邪で、それで入院だなんてお恥ずかしいです」
「そんなことはない。大事をとっておいた方が良いに決まってます」
強い口調で言うと、アイが北川に振り返って言った。
「パパ、おこらないで。マリちゃんが泣いちゃうよ」
北川と夜爪が顔を見合わせて笑う。
「アイ、パパは別に怒ってるわけじゃないんだけど」
「大丈夫よ、アイちゃんのパパは私を心配してくれて、るの」
そう言いながら、夜爪は顔を上げた。何故か、驚いた顔をしている。
「ん、どうしたんですか?」
いえ、と言って、顔を伏せる。少しの沈黙があったと思うと、アイが声を上げた。きょろきょろとベッドの周りを見回す。
「たくさんお花が、」
「綺麗だね。アイも持ってきただろう。それ、渡しなよ」
「……う、うん」
手に握っていた折り紙の花束を夜爪に渡す。握っていた根元の部分が、アイの手の熱と力加減で、くちゃりと歪になっている。
「これ、おり紙のお花だけど」
小さな声で言うアイの表情が見えなかった。けれど、声の調子で、落ち込んでいることが分かる。この部屋に飾られた花の数々と、自分が作った花束とを見比べてしまったに違いない。
北川がアイに言葉をかけようとした時、夜爪が先に言った。
「アイちゃん、ありがとう。とっても可愛く作れたね。すごく嬉しい」
笑ってくれて、北川は眼を細めた。
「うん、パパもいっしょに作ったんだ。おりかたがすごくむずかしかったけど、パパにおしえてもらったの」
「そうなのね、北川さん、ありがとうございます。私に一番近い、枕元に置いておくね。そうすると、可愛いお花がよく見えるから」
「うん、がんばって作ってよかったあ」
「見ていると、とても元気になるわ」
「ゼリーもかってきたんだよ。モモの味はアイがえらんだの。たぶん、おいしいよ」
ふふっと笑い、「ありがとうございます」と頭を下げる。
北川は頷き、ゼリーの袋をベッドの横に置いてから訊いた。
「それで、退院できそうですか?」
「はい、午後に。あとは自宅療養です。点滴で熱も下がりましたし、あとは食欲が戻れば」
「戻ったらまた食事でもしましょう」
積極的に誘うと決めた。返事を待たずに続ける。
「あと、もう一つのエアリアルルームですが、すでに用意してありますので、お元気になられたら、部屋の内部を確認しに行ってください」
夜爪への恋文を遠くに思い出す。恋文を書いたのは、ついこの間であったのに、ここ最近では時間が過ぎるのが、とても長く感じられていた。
「紙袋の中に、トランスファーも入れてあります。体調が戻ったら、近いうちにどうぞ」
ここで夜爪の代理人だという矢野の顔が散らつく。
「できたら、確認はお一人で。夜爪さんがお願いします」
不審に思ったか、わざとらしかったか、そう思うが念を押しておかないと、まさか矢野に見られはしまいかと気が気ではない。
「はい、分かりました」
そしてここでアイが口を挟む。
「パパ、なんかおこってる。どうして、マリちゃんにそんな風にイジワルみたいに言うの?」
告白して、積極的に攻めると心を決めたことからの、この口調。強気な言い方が、アイには気に入らないようだった。
「え、いや、そんなことはないよ」
「いつもとしゃべりかたがちがうもん。いつもはもっとやさしいもん」
北川がおろおろとしていると、夜爪が苦笑しながら言った。
「アイちゃん、大丈夫よ。いつものアイちゃんのパパと一緒だよ。優しいパパで羨ましいな」
「マリちゃんもパパのこと好き?」
ここで、北川がえっと声を上げてしまった。告白はこれからだというのに、ちゃんと準備だってしてあるのに。
北川は焦って、「アイ、お前何言ってるんだ」などと言うしかなかった。
「マリちゃんが、こ、困るだろ」
そう言ってから、自分がマリちゃんと初めて名字ではなく名前をうっかり口にしたことに気づいて、さらにダメージを受ける。
「や、えっと」
もうこうなると、頭を掻くしかない。言葉が続けられないでいると、夜爪が笑って言った。
「アイちゃんのパパのこと、好きって言ってもいい? アイちゃん、許してくれる?」
「いいよう。アイもマリちゃんのことだいすきだから。パパもマリちゃんのことだいすきだって」
「アイ、アイ、もう勘弁してくれ」
顔から火でも噴きそうな状態だった。北川は顔を覆っていた両手を離すと、後ろから抱えているアイの背中に顔を押しつけた。
(ああ、もう! せっかくの恋文がおじゃんじゃないかあ)
けれど、北川はようやくちらっと見た夜爪の顔が、照れて恥ずかしそうにしているのを見て、内心は嬉しく思った。アイがキューピッドとなって、呆気なく両想いだ。アイに嘘は言うまい。
よしっと、心の中でガッツポーズを作ると、北川はアイを連れて病室を後にした。
「アイちゃんが来てくれて、すごく元気になった。また保育園で、遊ぼうね」
アイが手を振って、そして彼女は笑っていた。




