千羽鶴に願う
「何度も学習せずに、すみません」
日曜日の朝、そんなに早くもない時間、チャイムを鳴らしてやってきた夜爪を中へと招き入れた。それは北川が、夜爪の顔の気配がいつもと違い元気のない様子が気になったことと、それより何より夜爪にもう一ヶ月近く会えていないことからで、その長い時間に忘れようとして失敗した恋慕と未練の情が口をついて出てきた格好になったに他ならなかった。
けれど、夜爪は玄関より先には入ってこなかった。
「これを、アイちゃんに」
アイの名前を聞いて、そうだアイは保育園で会えるのかと、ここ一ヶ月同じことを繰り返し思ってそれを羨望する。
封筒と小箱。小箱と言ってもさほど小さくない、厚みのないものだった。某高級ジュエリーメーカーのロゴの入ったしっかりした造りのそれに、ピンクのリボンがかけてある。
「あ、これ、中身は違います。空き箱を使っただけですから」
大きさからいくと、少し大きめのパーティー用のネックレス。誰かからのプレゼントか、そう思うとどす黒い感情が内側から徐々にせり上がってくるのを感じた。顔が引きつって、上手く笑えない。
いつもならアイを呼んで直接礼を言わせるところなのに、北川はアイの名を呼べなかった。
「渡しておきます」
それをどう取ったのかは分からないが、夜爪は苦笑して言った。
「あと、これ。貰ったマドレーヌのレシピ、とても美味しく出来ました。良かったら食べてください」
そして、「お休みのところをすみませんでした」と言って、背中を向けた。
ドアノブに手を伸ばす。
北川は、カッとなって、手渡された小箱や紙袋を玄関に素早く置くと、そのドアノブを奪った。その北川の動作に驚いて、手を引っ込めた夜爪の表情を見ることはできなかったが、北川は構わず自分の身体全体で、ドアを開けて外へと出ると、その横をすいっと通り過ぎて、夜爪も外へ出た。
その乱暴な動作を怒りと取ったのだろう、夜爪が再度小さく言った。
「すみませんでした」
そして、小走りで歩いていった。少し肌寒くなり、薄手のカーディガンを羽織った肩が、背中が、細っそりと弱々しく見えた。その背中が泣いているようにも見えて、北川は夜爪が去ってもしばらくの間、その場を離れられなかった。
北川は、弟を想って北川と大谷の前で泣いた夜爪を思い出した。綺麗な水晶のような涙。手に入れたいと思い、心から欲しいと思った。
夜爪を追い掛けたいと思う心をその場に置いて、北川は玄関のドアを開けて中へと入った。玄関で、アイが変な顔をして立っている。
「どうした、アイ?」
左手には夜爪が持ってきた封筒、右手には手紙を握り締めている。夜爪を送り出す時、玄関に慌てて置いたのを思い出す。
「何だよ、どうした、」
何も言わないアイに、再度問い掛けようとした時、アイが大声を上げた。その顔がくしゃりと歪み、そしてその瞳からは大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
北川がぎょっとして、アイに寄る。
「どうした、アイ。何て書いてあったんだ?」
けれど泣きじゃくるだけで何も言わない。いや、言えないほど泣いている。
北川は手紙をそっと取ると、くしゃりと丸まっていた部分を手で簡単に直してから、読んだ。
『あいちゃん、おてがみありがとう。とてもじょうずにかけていて、うれしかったです。あいちゃんは、おべんきょうがんばっていたものね。まどれーぬをつくってみたら、とてもおいしくできたので、ぱぱといっしょにたべてください』
きっと、ここまでは喜んで読んでいたのだろう。けれど、ここからは。
『あと、あいちゃんのおねがいについてですが、ざんねんですが、さんたさんでもかなえるのはむずかしいとおもいます。ごめんね。でも、あいちゃんのこと、だいすきです。これからも、あいちゃんとあそんだり、おはなししたりしたいな』
北川の顔も歪んでいた。涙が出るのかと思った。いや、涙は目の縁に留まっただけで、流れはしなかった。
これからもあそんだり、おはなししたりしたい、と前向きな言葉が書かれている。
何にも執着しないように、何にも意味を見出さないように生きていた夜爪の中に、そっと光のようなものが見えた気がして、感慨深い気持ちが湧き上がった。
きっと、アイとは泣いている理由が違う。けれど、一緒になって心で泣いた。
✳︎✳︎✳︎
「マリちゃんに、アイのママになってほしいって。サンタさんにおねがいするねって、書いたの」
冷静になってアイが大泣きした理由を訊いてみると、それを聞いてからは頭を抱えたまま穴があったら入りたい気持ちになり、眼を真っ赤にしているアイを前にして、大声を上げて怒ることも、盛大に溜息を吐いてお前何やってくれてるの、と責めることもできずに、そんな複雑な心を持て余しながら、北川は昼食用のホットケーキを作っていた。
「アイ、マリちゃんのこと、好きなんだね」
「うん」
キッチンのテーブルの前に、フォークと皿を用意して、ちょこんと座っているアイが大きく顎を打つ。それを横目で見ながら、北川はホットケーキを裏返した。
「マリちゃんのどこが好きなの?」
「やさしいし、あたまがいいところ」
「頭が良いんだ」
「いろいろおしえてくれるんだよ。アイだけじゃなくて、みんなに。えんちょうせんせいも、マリちゃんのこと、すっごくほめてた」
そこで、子どもってどうしてこう不必要な情報も与えてくるのかなと、ちらっと思う。園長先生ね、はいはい。心で片付ける。
ホットケーキを皿の上に滑らすと、メイプルシロップを盛大にかけた。
「はい、できあがり」
「たべる、たべるっ。いただきますっ」
小さく切り分けると、切ったものから直ぐにもフォークを刺して、さらっていく。
「なあ、多田先生、はどう?」
恐る恐る、保育士歴二年の若手の先生の名前を挙げる。
「トオルせんせい? トオルせんせいは、かたぐるましてくれるし、やさしいよ。アイ、トオルせんせいだいすきだもん」
「そっか、うん。で、トオル先生はさあ、マリちゃんとさあ、」
「アイをかたぐるましてねえ、」
北川が渋々ホットケーキを口に突っ込む。
「で、マリちゃんよりアイの方が背がたかくなったって言って、二人でおいかけるのがたのしいの」
(うわあ、三人でじゃれてんだ、聞かなきゃ良かった……)
北川は後悔して落ち込むと、「アイ、早く食べちゃいな」と言って、皿を片付け始めた。
「そういえば、アイ、マリちゃんから何貰ったの?」
高級ジュエリーの箱がテーブルの端に置いてあり、気になっていた。けれど、アイの言葉に北川の心臓はどきりと鳴った。
「にっきだよ」
「日記? 見せてもらっても良い?」
「いいよ、まだなにも書いてない」
箱を開けると、中から可愛らしいハートのついた小ぶりな日記帳が出てきた。手に取ってみる。シンプルなデザインで、それでいて子どもが喜ぶような可愛いクマのキャラクターもついている。パラパラとめくってみると、真新しい紙の良い香りがした。
「可愛いの貰ったね」
「うん、うれしい」
アイが最後のホットケーキを口に入れている。
「そういえば、アイは何をあげたの?」
随分前のことだったので、北川もそういえばアイも何かあげていたな、そう思い出すのに時間がかかった。
「ツル」
「ツル?」
「おりがみでつくったの」
「そうなんだ」
「トオルせんせいにおしえてもらったの」
ここで、再度げんなりする。
「ふうん」
「ツルをあげると、びょうきがなおるんだよ」
「えっ、」
北川が驚きの声を上げた。
「パパ、しらなかった?」
「……知らなかった」
それはもちろん、アイが夜爪が病気を抱えていることを知っている、ということを知らなかったという意だ。
彼女が話したのだろうか、いや、そんなことを話すような人じゃない、勝手にもそう思う。夜爪がエアリアルルームの関係でこの家に来ていた時にでも、小耳に挟んだのだろうか、そう思いながら問うてみれば、果たしてそれは正解だった。
「マリちゃんが病気って、アイはどうして知っているんだ?」
「だって、マリちゃんがしんじゃうとか、パパとはなしてたじゃん」
「そうだっけ」
「うん、でもそれはまちがいなんでしょ。マリちゃんが、いってたもん。びょうきだけど、しなないよって。ねえパパ、ママみたいにしんじゃわないよね」
北川は、アイが覚えてはいないアイの母親について、よく話を聞かせていた。車の事故で死んでしまったことも。思いを馳せる前にアイが続けた。
「それに、アイがつくったツルをおまもりにするから、だいじょうぶだよっていってた。ツルを千こ、つくればいいんでしょ。アイ、一日に五こ、つくってるもん。それに、マリちゃんもいっしょにつくってるから、すぐに千こたまるよ」
たくさん喋って喉が渇いたのか、牛乳をゴクゴクと飲み干すと、アイはごちそうさまと言って、二階の自分の部屋へと向かった。階段の途中で足を止めてテーブルへと戻り、貰った日記を箱に入れると、それを抱えて再度階段を駆け上がっていった。
北川は何か夢物語でも聞いているような心地で、シンクの前にぼけっと突っ立っていた。
病気が治るようにとツルを折っている、そう聞いて、前向きに生きようとする夜爪に会いたくてたまらなくなった。
朝、夜爪が来た時に、引き止めれば良かった。ドアノブを奪ったのは、帰らせたくない、その気持ちが全身を駆け巡って北川の左腕に伝わったからだ。
ドタバタと階段を駆け下りてきたアイの脇にはたくさんの折り紙セットが抱えられていた。
「パパもマリちゃんのこと、だいすきでしょ。いっしょにツルつくってよっ‼︎」
仔犬のように駆けてくるアイを見て、そしてアイに見透かされていた夜爪への恋慕の気持ちを思うと、北川は苦く笑ってから、テーブルの上に放り出された色とりどりの折り紙に手を伸ばした。




