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空間に綴る  作者: 三千
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手の届かない存在

「なあ、どう思う?」


「弟のことが、好きだったんじゃねえ」


「やっぱ、そうだよな」


大谷と飲むのには珍しく、今夜は暗い空気が肩を並べてカウンターに座る二人を取り巻いている。


「でも弟ってのはなあ。血が繋がってるし、なあ」


「そうだな」


大谷が手酌でビール瓶を傾けてコップに注ぐ。ついでに北川のコップをも満杯にする。それを三分の一ほど空けると、北川は前々から思っていたことを言った。


「でも、彼女は恋愛とか結婚とか、そういうのはしないと思う」


「何で?」


持病のことは口外できない。けれど、エアリアルルームを用意する過程で感じた、生への意欲の欠落。一歩後ろへ引いてものを見る、あの長く艶やかな睫毛に隠された瞳。


死ぬ時に、自分の生に何かの意味があってはいけない、そんなようなことを夜爪が普段から考えているのだと思うと、何だろうか、寂寞の思いのようなものに包まれる。

ほんの一欠片でも、生への執着を持っていて欲しい。


「んー、何となくだよ」


しばらく無言でコップを空けていた大谷が切り出した。


「言おうかどうか、迷ったけどよ」


いつもは、適当で不真面目な男が、真剣な顔をして言ってくる。


「何だよ」


「夜爪さん。俺、実は正体知ってんだ。今までは繋がらなかったけど、今日昼間に会って思い出したっていうか」


「何?」


「あの人さ、不動産関係で有名な人だよ。マンションとか駐車場とかたくさん持ってて、そりゃあ半端ない税金を納めてるんだぜ。弟と並んで、長者番付にも名前が上がったこともあったなあ」


「それ本当か。金持ちかも、とは思ってたけど」


「確か、エアリアルルームの賃貸もやってたと思う」


「え、じゃあどうして俺のところなんかに?」


「それは分かんねえけど」


大谷がサラダをいきなりむしゃむしゃと食べ始めた。北川がその姿を見て、イライラとした気持ちを込めて、皮肉って言った。


「おい、今更野菜食ったって、腹の周りは細くならないぞ」


「彼女、周りの実業家からめちゃくちゃ言い寄られてるぜ。引く手数多ってやつ。確か、角谷建設の社長の息子にも求婚されてるっていう噂だ。何だかなあ、誘われ慣れしてるのかもな」


昼食を一緒に取った時、直ぐにカゴから箸を取ってくれたことを思い出す。


「そうだな」


胸の中が空っぽになった。誘われ慣れしているなら、今日誘った映画も、彼女にとってはあまり意味のないものだったかも知れない。


今日見た映画は、火星に独り取り残された主人公が、地球から助けが来るまで何とかして生き延びるという、近未来の話だった。

荒れ狂う火星の環境の下、彼は何とか生き伸びた。生きたいと願って。


映画を見て、君も生きるんだと言いたいわけではなかった。最初は純粋に、ただこの作品が観たいと思っただけで選んだ。けれど、観ているうちに、この映画を観てどう思っただろう、どう感じたのだろうと、気になった。


見終わって、夜爪が面白かったと少しだけはしゃいでいるように見えて、気晴らしくらいにはなっただろうかと思った。


「CGの技術が素晴らしいですね。本物の火星にいる感覚でした」


口元で、合わせて握るその両手。今も、その手はひんやりと冷たいのだろうか。


けれどもう、知ってしまった。自分の手が、その手に届かないことを。


「すまんな、北川。馬に蹴られるようなことをして」


「いいよ、いつかは知ることだろうから。俺は彼女には相応しくない、分かっているよ」


空っぽになった二本のビール瓶に手を伸ばした。もうその温度を失った瓶に指先が触れると、水滴が伝って手の甲へと流れていった。そしてそれは、冷たくなかった。


✳︎✳︎✳︎


「積み木がもう、無くなりそうです。少し様子を見に来て頂けませんか?」


玄関のドアを開けると、夏の装いのワンピースが清々しい、夜爪が立っていた。


映画に誘って一緒にランチを食べた日から、北川はなるべく接点を持たないように心がけていた。それは、自分の中で芽生えて盛り上がっていた恋心を抑えつける時間が欲しかったのと、夜爪に会えばそれが難しくなることを知っていたからで、そんな風に思っていたのが顔に出てしまっていたのかもしれない。


それを違った意味で取ったのだろう、夜爪は悲しげに眉を下げると、


「突然来てすみませんでした。電話の方が良かったですね」


北川が、いえ、と声を掛けようとすると、背後からバタバタと足音が跳ねる。


「マリちゃんっ」


視線を北川の後ろへと移動させると、夜爪はまた腰を折って、アイに目線を合わせた。


「こんにちは、アイちゃん」


「ねえ、マリちゃん、ちょっと待ってて!」


直ぐにも走り去ってしまう。そして、気まずい空気が二人を覆った。


「すみません、マリちゃんだなんて。積み木の件、スケジュールを確認して、またご連絡します」


「お手数をお掛けしますが、」


「いえ、それが仕事ですから」


その言葉に少しだけ拒絶の意が含まれているのを悟ったのだろうか、夜爪が眼を伏せて頷いた。北川は、その黒々とした睫毛から、眼を逸らした。


直ぐにもバタバタと足音がする。階段を勢いよく下りてきたアイが、息を切らしながら封筒を差し出した。


「これ、おてがみ書いたの」


「まあ、本当? 貰ってもいいの?」


夜爪が手紙を嬉しそうに受け取る。


「あと、これっ」


アイが後手に持っていた、小箱を渡す。それは折り紙で上手に折られた、蓋つきの小箱だった。


「中に何か入っているの?」


手紙を脇に挟み、両手で大切そうに包み込む。


「おうちに帰ったら、みて」


うん、分かった、ありがとうと言ってから一礼し、彼女は帰っていった。送りますと、声を掛けたくて仕方がなかった。俺にも笑い掛けてくださいと、言いたかった。


「アイはいいな、言いたいことが言えて」


腐って呟くと、アイは頭をかしげて不思議そうな顔をしている。何かを言われそうな気がしたので、先手を打って言った。


「手紙、何て書いたの?」


「この前、パパが作ってくれたマドレーヌのレシピ」


てっきり、イラストか何かだと思っていたので、驚いて声を上げた。


「えっ! お前、そんなの書けないだろう。っていうか、字っ‼︎」


「書けるよ。マリちゃんにおしえてもらったもん」


「マリちゃんって? 今の?」


「あたりまえでしょ。マリちゃんはマリちゃんだもん」


「え、え、え、いつ? どこで?」


北川は混乱する頭を何度か振ると、アイの両肩に手を置き、改めて訊いた。


「どこで?」


「ほいくえん」


「ほ、保育園?」


直ぐに保育園に電話し、事の詳細を訊く。


『ボランティアでピアノを教えて貰っているんです。最初は、園の保育士向けの指導だけだったんですけど、アイちゃんとお知り合いだったみたいですねえ。アイちゃんもですけど、他の子どもたちがピアノを習いたいって言うもんだから、マリ先生も快く引き受けてくださって。え? 字ですか? ええ、ひらがなの他にも絵の描き方だとかも教えてくれていますよ』


園長がほくほくとした声で満足そうに話す。

携帯の受話ボタンを切ってから、北川は大きな溜息を吐いて、キッチンのイスに座り込んだ。


「何だよ、全然知らなかったぞ。言ってくれれば良かったのに」


盛大に独りごちながら、けれど自分の知らないところでアイが夜爪と仲良くなっていたと知って、複雑な気持ちになった。


(別にアイに口止めしてたわけじゃないから、内緒ってことでもないんだろうけど)


不服申し立てしたくなる気持ちが次々に湧いてくる。けれどそこには、アイに対するヤキモチの気持ちも含まれているのを北川は何ともできなかった。子どもに嫉妬すんなよな、しかも自分の娘にさあ、呆れて物も言えねえや。ふてくされて何本かのビール缶を空けてから、北川はその夜、早々に眠りに就いた。

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