秘密
意を決して誘った映画を夜爪と見て、その後に遅めのランチを食べていた時のことだった。
「あれから、作業は進んでいますか?」
北川がサラダを箸でつつきながら問うと、夜爪は口をつけていたスープカップから口を離した。
「はい、少しずつ敷き詰めて、半年分くらいはいきました。日記は毎日書いているわけではないので、日にちは直ぐに過ぎるんですけど、文章が長くて一日分を終わらせるのにこれがなかなか、時間が掛かるんですよ。ぼちぼちやっていきたいと思います」
「天井まで届いてしまったら、どうするんですか?」
「ある程度までいったら、もう一つエアリアルルームを購入しようと思っています。とても楽しいので、やめられません」
微笑みをたたえながら夜爪が言うと、北川の口元も緩んでいった。
「そうですか。僕はもうお邪魔できませんので、積み木の在庫などの様子を教えてください。直ぐに追加の発注をかけますので」
北川がそう言うと、夜爪はキョトンとした顔を投げて寄越した。いつもは切れ長の細い瞳が、少しだけ大きく見開かれている。
「どうかしましたか?」
「いえ、どうしていらっしゃらないのかと?」
予想外の反応に、どうして良いのか分からない種類の照れが頭と顔を覆う。もうこうなると、思考がまとまらなくなって、自分でも何が何だか分からなくなるのだ。
「あの、えっとお、プ、プライベートですし、日記の内容が目に入ってしまってもいけません。それにプライベートのことですし、」
(あれ、俺、今プライベートって二回言ったか?)
混乱のまま、北川は慌てて水を飲んだ。
「そうですか」
夜爪が少しだけ寂しそうにしたような気がして、都合の良いように取ろうとする自分を少しだけ抑える。
するとそこで、水を差すような声が聞こえてきて、北川は途端にげんなりした。
「おう、おう、北川っ」
入り口から数人、客が入ってきて、その中の一人と目が合うと、男が手を上げて近づいてくる。北川は、心の底からの舌打ちを何度も繰り返した。
「何だよ、お前。今から、飯なの?」
時間をずらしたから、絶対にかち合わないはずと思っていた大谷に見つかって、テンションが一気に下がる。確かにこの店は、大谷が勤める玩具メーカーの入るビルに近い。けれど、いつもは定時に昼飯を取ると聞いていたので、この時間なら大丈夫だろうと気を抜いてしまっていた。何より、映画館から近いカフェはここしか知らなかったのもあって、北川は自分の失態と不運に顔をしかめた。
大谷は北川の隣の席に、強引に座り込んできた。向こうの方で、部長~と聞こえてくる。
「おい、呼んでるぞ」
「いやいや、俺、こっちで食うから~」
大谷が手を上げて大声で制する。
「ちょっと待て」
「それより、紹介してよ。あ、俺、北川の友達の大谷って言います」
キョトンとしていた夜爪が、我に返ったように慌てて、「夜爪と言います」と言った。
そして続けて、
「大谷さん、トマツトイの、大谷さんですよね。一度、お会いしたことがあります」
チャラそうにしていた大谷の顔が真面目なそれに変わった。
「え、あ、そうですか? 何処でだろう、こんな美人、覚えてないわけないけどなあ」
くせえ、と北川は思ったが、真実だとも思う。夜爪は表情も変えずに続けた。
「一瞬だったので、覚えてないかも知れませんが。太平商事の株主パーティーです。その頃、私の弟がNNPカンパニーの役員をやっていましたので、そのつてで私も参加させて頂きました。その時に」
夜爪が持っていた箸を皿の上に置く。それと同時に、店員が大谷の分の水と手拭きを持ってきた。どうやら、向こうの席に座っていた部下が気を利かせて、店員をこちらへやったらしい。大谷がAランチを頼むと、店員は下がっていった。
大谷は記憶を辿って思い出したような体を装い、手を鳴らしながら言った。
「ああ、はい。覚えています。滝川さんの、お姉さんですかあ」
仕事内容には触れてはいないが、夜爪のことは大谷にも話してあったので、大谷が余計なことを言わなければいいがと、北川はハラハラしながら、二人の様子を見ていた。
「お名前が違うので、繋がりませんでした。大変失礼ですが、ご結婚されたんですか?」
心の中で、大谷あ、と呆れながら、突っ込む。
「あの時は、まだ弟と同じ苗字だったので。その後、独立しましたので、今は名前が違います」
そして、最後に付け足すように言った。
「結婚はしていません」
そうですか~、と言いながら、大谷が北川の肩をバシッと叩いた。お前、いい加減にしろよ、そう目で釘をさす。けれど、横に座っているので、角度的にあまり効果は無かったようだ。
「しかし、僕はあの時はまだ下っ端の下っ端で、あの日も連れられて参加しただけだったんですよ。よく覚えていらっしゃいましたね」
大谷が運ばれてきたランチプレートを店員から受け取ると、ガタンと音をさせてテーブルに置いた。それを横目で見ながら、北川は構わず、自分のハンバーグに箸をつけようとした。すると、夜爪がテーブルの端の方に置いてあった、カゴに手を伸ばし、「ナイフとフォークはご入用ですか?」と訊いた。北川は、持っている箸を上げて不要であることをアピールすると、夜爪はそのまま大谷へと顔をやった。
「大谷さんは? お箸ですか?」
「箸をください」
夜爪から箸を受け取り、食事に手をつける。夜爪も同じように、ハンバーグに箸をつけ始めた。
「お顔を覚えるのは得意なので。大谷さんはあの時、弟とよくお話しくださいましたので、それで覚えていました」
大谷がガツガツと白飯を掻き込んでいる傍で、北川は思いを巡らせていた。
(そんな上流階級の付き合いがあったとはな。大谷も恰幅だけは良くなるはずだ)
「弟のことでは、北川さんには大変ご迷惑をお掛けしたようで」
言いにくそうに夜爪が零す。
「いえ、そんなことは。滝川さんにはとても良くしてもらいました。滝川さんはお元気ですか?」
北川が慌てて返す。最後には自然に滝川のことを聞けたのではないかと、ほっと胸を撫で下ろした。けれど、やはりマズイことを聞いたのだろうか、そんな風に思えるような長い時間、沈黙が降りた。隣に目をやると、大谷が夜爪をじっと見ている。
「弟は元気です。とても幸せそうです」
顔を上げて、北川を見、次に大谷を見てニコッと笑う。
「ずっと想い続けていた人と、先日結婚しました。私は彼の隣で、ずっと悩んだり悲しんだりしていたのを見ていましたので、願いが叶って良かったと思います」
「それは、おめでとうございます」
大谷の言葉に重ねるようにして、北川も「おめでとうございます」と伝える。
「……ありがとうございます」
すると、その瞳がぼやけて見えたと思った刹那、夜爪の右目から大粒の涙がぽろりと落ちた。それは頬を流れて、その顎のラインを辿りながら、最後には彼女の白い手の上に落ちた。その涙に触れてみたい、そんな衝動を隠して、ポケットからハンカチを取り出すと、北川は夜爪に差し出した。そのハンカチを見、そして北川を見上げた瞬間に、左目からもそれは落ち、同じように頬を辿っていった。
夜爪がハンカチを受け取ると、それを頬に押し付ける。
「すみません、ありがとう」
小さな小さな言葉が、ようやく耳に届いた。
北川と大谷が、突然ガツガツとハンバーグを食べ始めると、その二人の様子を見て、夜爪は笑った。けれど、今度の微笑みは、薄く儚いものだった。




