第二話 西暦二〇四四年 七月二十四日 ③
出発した時はまだ陽は高かったのだが、車が停まった時には橙色と藍色のコントラストが頭上に広がっていた。町から随分と離れ、今は山の中腹である。森の中にぽっかりと穴が開いたかのように拓かれた土地があり、豪邸と呼ぶにふさわしい家屋が一軒建っていた。
車を降りて周囲を見渡してみる。空から見下ろさない限り人目が届かなさそうな辺鄙な場所だ。そのことが少し不安を覚える。
車がガレージに向かって行くのを見届けていると、「いらっしゃい! 待ってたよ!」と上から聞こえてくる。バルコニーから東道社長が笑顔を覗かせていた。
「さあいらっしゃい! 玄関のロックは解除してあるから目の前に立てば開くはずだよ!」
俺は案内に従って玄関へと向かうのだが、ドアを前にして困惑する。つるりとした分厚い金属の板には開けるためのノブがなかったのだ。
すると突然、ピッ、という音や鍵を開けるときのようなガチャンという音が連続して鳴った。一枚の金属板だと思っていたドアは金属の棒を重ね合わせた形状だったらしく、交互に左右へ開いていく。恐る恐る玄関へと踏み込むと、背後で扉が閉じた。振り返ってみるとやはりドアノブはなく、閉じ込められたかのような閉塞感を覚えた。
「いらっしゃい、よく来てくれたね! 変わった扉だろう? 気になるかい?」
エントランス奥の螺旋階段から東道社長が下りてきて微笑みをこちらに向けてきた。
「え、ええ、面白い構造ですね」
「センサーで人を感知し開く、つまり自動ドアなんだがね。普通と違うのは重力操作技術で扉を操作しているんだ。重力の方向は装置に一瞬電気を通すだけで変えられるから非常にエコなんだ。近い未来、この方式の自動ドアがスタンダードになるはずだよ」
社長の手招きに従い、俺は靴を脱いで艶やかなフローリングに上がった。
社長はエントランスを横切り、左手にあるリビングへと向かって行く。奥にはダイニングキッチンもあり、その横には茶室や室内庭園があった。
リビングスペースのソファを手で示され、「座っててくれ」と社長が言うので、俺は素直に従い低反発のクッションに腰を下ろす。社長はキッチンから二つのワイングラスと大きな水がめを持ってきて俺の前に並べた。
「その紙袋、ワインだろう? お土産だなんて粋なことするねぇ。私がワイン好きだと知ってのチョイスかい?」
「え? ええ、まあ。以前ネットの記事か何かで読んだことがあって」
お口に合えばいいんですが、と少しでも好感度を上げておこうと話を合わせるのだが、桐箱からワインボトルを取り出した社長は「あー」と声を漏らして表情を曇らせる。
「シャトーモンドールの二〇三一年か。新興のシャトーなのにパーカーポイント九十七点を叩き出したとこだな。しかし申し訳ない。私は白を飲まない主義なんだ」
社長はそう言うと、ソファのすぐ横に備えてあった小型のワインセラーを開く。空っぽの上段の端に白ワインのボトルを入れると、代わりに赤ワインのボトルを取り出した。
「白はお嫌いだったんですね。すみません、そこまでは調べていなくて……」
「嫌いではないんだが、薄まる気がするんだ」
「薄まる?」
「そう、私の中の生命力がね。ほら、デキャンターの中を見てごらん」
社長は取り出した赤ワインを開封すると、ガラスの水がめの中に注いだ。濃厚で赤黒く見えるその液体をぐるぐると回しながら、社長はうっとりと中を眺めていた。
「どうだい、美しい血液の色だろう。キリスト教徒というわけではないんだが、私は赤ワインを血に見立てて飲むんだ。血は肉体を動かすガソリン。命そのもの。それを取り込むイメージだ。飲めば飲むほど血が濃くなり、白を混ぜると薄まって力が削がれてしまう」
社長は水がめからワイングラスに血のような液体を注ぎ、俺の前に差し出してきた。ほんの少量、グラスの底を埋めるほどの量だ。しかし社長は自身のグラスになみなみと注ぎ、
「君のお父さんの冥福を祈って」と言って慎重に持ち上げてみせた。
「あの、改めてお招きいただいたこと感謝申し上げます。本当に素晴らしい、というかユニークなお宅ですね」
ごくごくと音が聞こえそうなほど豪快に飲む社長を尻目に、俺は室内を一瞥した。
入り口の横には長方形の金属のボックスが置かれているのだが、そのボックスの上、何もない空間に小さな木製の立方体が浮いている。まるで、下のボックスから強烈な風を吹かせて浮かせているように見えるが、そういった音は聞こえない。どうやらそれは時計であるらしく、浮いている立方体は組み合わさって現在時刻を示していた。
左手奥の室内庭園では、無数の盆栽が二階まで続く吹き抜けのあちこちを漂っている。その盆栽たちの間を尾びれを靡かせて錦鯉が泳いでいるのだが、水槽は存在せず、水が一人でにふよふよと宙で波打っていた。
「これらはすべて重力操作で浮かせている。地球の重力よりも更に強い力を四方から加えて宙に固定しているんだ」
「ニュートラリーノ結晶体、ですか?」
「それを加工して生み出す重力操作の力だ。未来技術学科の生徒たちのアイディアを形にしてみたものなのさ。もしかしたら君のアイディアがこの中に並んでいるかもしれないね」
「いえ、それはないです。私はその学科の生徒ではないので」
「そうなのかい? 東道パーフィニティに興味あるっていうから、てっきり重力操作技術の勉強をしてるものだと思っていたよ」
「その……将来の方向を決めたのはつい最近なもので」
「そうかそうか。いつだって夢や希望は突然降ってくるものだ。せっかく気持ちが固まったんだから転科したらどうだい? 下品な言い方だが、お父さんが遺したお金があるはずだろう。あいつ……君のお父さんも、夢のために使うことは反対しないと思うよ」
「いえ、それがお金はあまり遺してはくれなかったもので……改めて大学生を一からやり直すのは無理かと」
「用心深いあいつのことだ。実はこっそり大きな金額を振り込んである通帳でも隠してるんじゃないのかな」
「事件が事件なので、家の中を隅から隅まで警察が調べてましたけど、そういったものは見つかりませんでした。残っていたのは当面の生活費ぐらいです」
社長はグラスを空けると、すぐに自分でワインを注いだ。グラスの中身を回し、「ふぅん、そうかそうか」としきりに頷いている。
こうして偲ぶ会を開いてくれたり、『あいつ』呼ばわりするぐらいだから、友人ではなくとも距離感は相当近かったようだ。まだまだ父の話を掘り下げようとする気配がある。このままではいつまでも続きそうなので、本題に切り込むことに決めた。
「ところで、ちょうど夕飯時ですけど、ご家族のお二人は今どこに?」
「うん? お二人?」
「奥さんと、お嬢さんです」
「私の家族構成なんて、いつ話したっけな?」
「お嬢さんが私と同年代だという話をどこかのメディアで目にしたことがありまして。あの、もしや私が来るから外に行かれたとか?」
「ああ、実はそうなんだ。亡くなった元社員の息子が来ると話したら、ゆっくりと語らうといいって外に食事にでかけたんだよ」
ということは娘がいるのは間違いないようだ。緊張で肌がざわつき、膝の上で手を揉み心を落ち着かせる。ここからが正念場だ。
「すみません、団欒を邪魔しちゃったみたいで。いつお戻りになられるんですか?」
「食事の後は町に繰り出して、ショッピングでも楽しむんじゃないかな。まあとにかく、すぐには戻って来ないから安心してくれ」
「お嬢さんはやはり名門大学へ通ってらっしゃるんですか? それとも未来技術学科の生徒だったりってことは?」
「いやいや、どうも私はあまり好かれてないようでね。NT結晶体も重力操作技術も興味がないみたいだ。名門とはいえない平凡な大学へ通っているよ。まあ、精神的な病気で長期休暇を取ったところなんだがね」
「そうだったんですか。それは心配ですね。すみません、デリケートな話に踏み込んでしまったみたいで」
「謝罪する必要はないが、しかしこれでは何の集まりだったのか分からなくなってきたな」
「そうですね、父を偲んでくれるはずだったのに……でも、ですね」
「ん? 何だい?」
「実は私も最近まで精神の調子が悪くて、その……娘さんの気持ちが少しだけ分かる、というか親近感のようなものを感じまして。良かったらアドバイスをさせていただけたらと」
「ふん、アドバイスとは?」
「鬱々とした時には夜空を見上げると良いですよ。天体観測です。ここ数年の天体異常で星が消えたり増えたりしているのはご存じかと思いますが、新しく現れた星々は大きくて強く輝くため、宝石のように綺麗なんです。私はそんな星々の輝きを眺めて心を慰めてここまで生きてこられたので、少なからず効果があると思いますよ」
「それは素敵な提案だね。今度伝えてみるよ。聞いてくれるかどうかは分からんがね」
「でももし伝える機会がありましたら、西区の高台公園を薦めてもらえますか? あそこの展望台は夜空を一望できる絶好のポイントなんです。あぁそうだ、良ければ私がご案内することもできますよ。興味があるようでしたらご連絡ください。いつでも行けますので」
「お気遣いありがとう。だがこの場は君のお父さんを偲ぶためにある。私の家庭の話はよさないか」
さすがに勢いが過ぎたか。「そうですね。失礼しました」と俺は謝罪し、誤魔化すようにワインを口にした。チーズのような濃厚な風味が鼻を突き抜け、酸味と渋み、幾重にも重なりあっているかのようなコクやら甘味やら木材っぽい味が口の中で混沌を描いている。正直美味しくないな、と思いながら「気品ある味ですね」と嘘を述べて社長に顔を向けた。
そこで、「あれ?」と違和感を覚える。口元だけ笑みを浮かべる社長は、先ほどまでの優しい雰囲気は消えていた。圧迫力、とでもいうのか。じっと見据えてくる眼差しは、俺の心の内を透かして見ようとしているかのようだ。
「まあでも、分かるよ。話題を変えたい、その気持ち。偲ぼうと思っても、あんなやつだったからなぁ。苦労ばかり思い出してそんな気にはなれんだろう」
「えっ」
「仕事を押しつけられて、気に入らなければ暴力の嵐。辛かっただろうなぁ。大事な青春を無償の奉仕に使わされたんだから、解放された今は清々しいんじゃないのかい?」
「……ご存じ、だったんですか」
「ああ。だというのにお父さん想いを装って、二代でうちに勤めたいなんて言うもんだから驚いてしまったよ」
社長は話しながらボトルを一本空けてしまい、ワインセラーから更に三本取り出した。
次々に開封していくと、デキャンターとかいう水がめで揺らすこともせずボトルに口をつけて勢い良くあおる。あっという間に一本開け、次の一本へ。三分もかかっていないだろう。開封したばかりの三本の赤ワインは社長の体内へと消えてしまった。
赤ワインは社長にとって命の象徴。それがボトル三本分、いや最初の一本を合わせて四本だ。それを考えると、東道社長の存在感がたった一人とは思えないほど大きくなったように感じられる。
「なあ、君はお父さんがどうして殺されたのか知ってるのかい?」
「いえ……警察からは組織的な犯罪だろうと聞かされましたが、それ以上のことは何も」
「お父さんは何か言ってなかったかい? 誰かに命を狙われているとか」
「そういうことはまったく……」
不安、と言い表せばいいのだろうか。社長の質問に何だか心がざわついて、俺は生唾を飲み込みながら嘘を吐いた。
「察することは? 色々と仕事を押しつけられていたようだから、あの仕事が関係してるんじゃないかな、とか思わなかった?」
「それも全然……どうして、そんなことを訊くんですか?」
「死に方が死に方だけに、警察は当然ながら勤めていた私の会社を現在進行形で調査をしている。何か関係がないかとね。これ以上疑われないためにも立ち回りを考えねばならないし、そろそろメディアどもが騒ぎ立てる頃合いだ。スマートな解答を用意しておかないとならない。そのために情報が必要なんだよ」
「それは……確かにそうでしょうね」
「ところで、君のお父さんにはドライバーなんかもやってもらっていたんだけど、信用のならない男だったから自宅を見せたことがないんだ。なのに君はなぜ『父が私の家に憧れていた』などと嘘を吐いたんだい?」
心臓が跳ね飛び、体が硬直する。
社長は今や笑みをすっかり消し、じっと俺を見つめている。
数分前まで和やかな会合だったはずなのに、まるで尋問でも受けているかのような緊張感のある空気に変わっていた。目の前の社長は、体から放つオーラとでもいうのか、目に見えない何かをがらりと変え別人のようだ。
着信音が鳴り響いている。
俺のではない。社長のものだ。しかし社長は俺に視線を向けたまま微動だにしない。
頬を汗が流れ落ち、掻痒感が気持ち悪いが、凍りついて拭うこともできなかった。
「あの、お電話、鳴っているようですが……」
恐る恐る問いかけるが、社長は動かない。
一度着信が切れ、間髪いれずにかけ直されたことでようやくスマホをジーンズのポケットから取り出した。
それでもその目は、俺を捉えたまま。
無言のまま通話状態にし、耳に近づける。
十秒にも満たない時間だった。社長は通話を切り、スマホをしまうと立ち上がった。
「すまない、少し席を外す。ここでゆっくりとくつろいでいてくれ」
歩き始めてもなお俺に目を向けていたが、背を向けるにいたってようやく視線を外し、エントランスへと出て行った。こん、こん、という螺旋階段を上る音が聞こえ、次第に遠くなって聞こえなくなる。
ほとんど止まっていた呼吸を再開すると、途端に体中から汗が噴き出した。騙したことがバレたこともそうだが、俺を見据えていた時の顔……『冷酷』という表現がぴったりだ。死んだ誰かを偲んだり、俺のような一介の子どもに優しく対応したりするような人物では決してないと理解できる顔つきだった。
社長は、どうして俺をここに連れて来た?
何が目的で俺の嘘に騙されたふりをし、良い人を演じていた? 社長が立ち上がる時に気づいたのだが、左手の薬指に指輪をしておらず、つけた形跡もないのはなぜだ?
社長の黒い噂、天使の「万が一」という言葉が頭の中で木霊している。
こっそりと逃げ出すべきじゃないだろうか、と頭の中のもう一人の俺が提案してくるが、いや待て、と思い直す。
社長の家で一人きりになったこの状況……娘監禁の噂を確かめるチャンスだ。肌が粟立ち恐怖が心に満ちていても行動するべきだろう。
足音を立てないようこっそりと室内を物色する。キッチン、室内庭園、エントランス……特になにもなし。階段の奥へ進み、扉を抜けてガレージに踏み込む。
埃っぽく、オイルの臭いがする室内。乗って来た高級車が静かに停まっており、運転手の姿もない。ごちゃごちゃと車の整備に使うような道具や、家財が置かれていて、音を立てずに探るには骨が折れそうだ。
頼む、幸運よ、来てくれ! と俺は願った。
もし俺の探し人がいるなら合図をしてくれ、と都合の良い願いを心の中で唱えた。
すると、ガンッ、という音が地面より響いてきた。はっとして振り返り、壁際に置かれていたソファをずらしてみる。
地面にハッチがあり、その下から物音が響いてきていた。
心臓がどっどっと鳴るのをそのままに、俺は急いでハッチを開く。覗き込むと階段があり、隠された地下へと続いていた。
「……いるの⁉ いい加減出し……! お父さ……呼んで……お願い……から……!」
はっ、はっ、と息が細切れになる。
階段を一段一段、慎重に下りて行き、叩かれる鉄扉に手を当て、顔を近づけた。
「紗奈! そこにいるのは、紗奈なのか?」
見るも無残な姿になってしまった最愛の人。二度と言葉を交わすことができない人。その人が今目の前にいるんじゃないかという期待が、頭を半ば白く染め上げている。
待った。返答を。静かだ。
だが、驚くような、息を飲むような気配は感じていた。
「その、声……もしかして……アル、君……?」
目の前で光が弾けた。
激情に歯を剥き出し、大声を出せないから拳を握り締めることでどうにか堪える。それでも喉から言葉にならない感情が溢れ出した。
「そうだ……そうだ……! アルだよ、紗奈……! 会いに来たんだ……!」
「うそ……生まれ変わった私のことを探しようがない……なのに、何で……」
「事情は後だ! でも、この話は覚えてるだろ⁉ アルっていう名前は、母親がランプの魔人が出て来るあのアニメの主人公が好きでつけられたんだって……!」
「あぁ……知ってる、知ってるよ! 可愛いお母さんだねって、私、笑っちゃって……」
「そうだ、ああそうだ……! 俺も覚えてる! 俺も覚えてるよ、紗奈……!」
間違いない。俺のアルという名前の由来は哲也にも話したことがなく、唯一紗奈にしか打ち明けていない秘密だ。確かに紗奈という人格が扉を隔ててそこにいる。紗奈も前世の記憶を引き継いで生まれ変わった可能性を考えてはいたが、それが真実だと分かると奇跡だとしか思えなかった。
アル君、と紗奈が俺の名を呼んだ。心は気が狂うほどの喜びで踊り狂った。
俺はもっと彼女と言葉を交わしたくて、「ああ! 俺だよ、紗奈! 今出してやるからな!」と扉に口を近づけて話しかけた。
「すぐに逃げて! 父は普通じゃないの! 桐野っていう人の命が狙われてるって警察に伝えて!」
一瞬、その名前が誰なのか理解できなかった。紗奈を前にして俺は瑞樹有に戻ってしまっていた。
困惑して、考えて、それが今世の俺の名前だと気づいた瞬間だった。
視界がブレて、突如暗転。急速に意識が、遠退いて、いき――




