第二話 西暦二〇四四年 七月二十四日 ①
第二話 西暦二〇四四年 七月二十四日
桐野浩二。二十歳。大学二年生。物心ついた頃より母はおらず、父親の男手一つで育てられた。ただし、子ではなく奴隷のように扱われていた。身の回りの世話をさせられ、自尊心を慰めるためだけに暴力を振るわれる。これが今世の俺のプロフィールと生活環境だ。
家庭内暴力にネグレクト。その挙句、父が抱えていた何らかの問題に巻き込まれて殺されるところだった。更に言うと親戚から縁を切られているらしく、この歳で天涯孤独になってしまった。これのどこが『幸運プラン』なんだと天使に問い詰めたところ、「そうじゃない。考え方が違うよ」と彼は安易な答えを出した生徒を叱るかのように言った。
「紗奈さんを見つけるって目的を考えると、住処と少しばかりの貯金があるのはありがたい話だ。それにあのクソカス……失礼、君のお父さんによる暴力を受ける日々は終わった。これが幸運以外のなんだって言うんだ?」
「まあ、前向きに考えればそうなんだろうが」
前世の記憶を思い出したことで、父親の暴力への苦悩はすっかり他人事になってしまっていた。軽蔑はあれど怒りも憎しみも存在せず、むしろ哀れに思っている。あんな惨い殺され方……思い出すたびに肌が粟立つ。
だが、あくまでも俺の目的は紗奈の笑顔をもう一度だけ見ることだ。それができるのならば家も金もいらないし、何なら惨殺されたって構わない。だというのに未だ俺は紗奈の居所の手がかりを一切見つけられていなかった。
本当に『幸運プラン』には効き目があるんだろうな? と訊ねてみるが、「全くの別人として生まれ変わったのに、二度と会えないと決まったわけじゃない。これがラッキー以外の何だって言うんだよ」と天使はいい加減に返してきた。
***
殺された父親の諸々の処理や、生活基盤を整えるのに一か月。ようやく目的に向かって動き出せるようになった。警察からあまり出歩かない方がいいと忠告を受けていたが、知ったことではない。
紗奈捜索の第一歩として、俺はまず在籍する大学に顔を出してみた。天使が言うには、人は死ぬのと同時に生まれ変わりを果たすという。死後の世界は時が止まっているのだとか。だから生まれ変わった紗奈は俺と同い年のはずなので、学び舎を捜索するのが第一手として妥当だろうと考えた。
これもまた幸運の一つなのだろうか。俺は桐野浩二に生まれ変わっても北新帳大学という、前世で紗奈と哲也とともに通っていた大学の生徒だった。俺が死んでから二十年という月日が経っているため、増築や『未来技術学科』という新しい学科が増えていたことなど馴染みのないものも多かったが、学食併設の広々としたカフェテラスの雰囲気は変わらずそのままだった。
紗奈を探し当てられるかどうかは『幸運プラン』の効力次第。この効力によって、何らかの形で紗奈の生まれ変わりだと判断できる材料を得られるかもしれない、という話だ。そういうわけで多くの人を観察できる隅の席へと向かったのだが、これが良くなかった。
「――そんで田辺のやつ、お前の親父がまた何か酷いことしたんじゃないかって思い込んで、お前んちに乗り込もうとしてたんだよ。僕が止めなかったらどうなっていたことか」
「でも浩二がいつもボロボロなのみんなも知ってんじゃんか! ほっとけるかよ!」
「でもまさか逆にお父さんが殺されてたとはねぇ。犯人の目的は何なん? やっぱ強盗目的?」
「あぁもぉ志保! デリカシー! ホントごめんね、浩二。私がそのニュースを広めちゃったせいでこの騒ぎなのよ。あんまり触れてやるなって言っといたのに……でも、実際んところどうなの? あんたの父親のことだから復讐の線もあるよね? 犯人の姿は見た?」
かつて紗奈と哲也とともに過ごしたその席は、桐野浩二と仲間たちの場所になっていた。
確か……あぁそうだ。男子二人が高田と田辺で、女子二人がシホと柳瀬だったはず。いやどうだったか……前世の記憶が戻ったせいで今世での記憶が一部上書きされたかのように思い出しづらくなっている。とりあえず男子はAとB、女子がCとDとしておこう。
「盛り上がってるとこ悪いんだけど、俺はずっと親戚の家に行ってたんだ。現場にいなかったから、詳しい事情は俺にもわからない」
コメントを求める記者のような彼ら、拍子抜けとばかりに息を吐いた。その野次馬根性はそれこそデリカシーを欠いたものだが、浩二だった頃の俺は家庭環境が悲惨だっただけに、彼らの無邪気さに救われるものもあった。
しかし紗奈捜索に集中したい今、こう思うのは本当に失礼な話だが、彼らは厄介な存在だった。学校にいる間、彼らは俺を巻き込んでツルもうとするだろう。一人になろうとする気配を見せれば、そうはさせるかと背後から飛びかかって来て引きずり回してくるはず。
そして、だ。あともう一人。ここにいない友人がもう一人いる。この一人が、俺に冷や汗をかかせる存在だった。
「でも本当に不安ではあったよね。楓ちゃんが浩二の父親がやべえやつだって言うから、マジで殺されたのあるんじゃね? って話になって――お、噂をすればじゃん」
Cの眼差しが横へと逸れた。そちらから手を振って向かって来るのは、新居田楓という女子。彼女はAの影に隠れた俺を覗き込み、認識するや否や破顔した。
やはり彼女のことも頭から抜け落ちてしまっていたのだが、顔を見たらもう名前を忘れることはない。彼女は幼馴染であり家族同然の存在だった。そして前世の記憶を失っている間に恋人になってしまった女性である。
「浩二! 良かった、学校来れたんだね! ずっと返信がなかったから心配してたんだよ」
「あ、あぁ、悪い……スマホのバッテリーが切れてたんだ。親戚の家に充電器を持って行くの忘れちゃって」
親戚? と彼女が首を傾げるのを見て「しまった」と俺は動揺した。彼女は幼馴染。俺の家庭環境には詳しい。親戚など存在しないことも知っているはずだ。
この話題を掘り下げられるかと心配だったが、「そう、だったんだ。事件に巻き込まれたんじゃないかと不安だったけど、元気そうで良かった」とむしろ彼女の方が慌てた様子で話を終わらせた。それから当然のように俺の隣に座ると、「ねえみんな」と俺の気まずさを察したかのように話題を変えてくれた。
「こうして久しぶりに全員集まったことだし、花火大会行かない? ほら、ね? 去年は揃わなくて行けなかったし、今年こそはだよ」
「いいね! 俺もそれ考えてたんだよ!」
「あっ、そうだ、浩二も今年からは完全フリーじゃん。クソ親父が死んだんだから、パシらされる心配もなくなったもんね」
「だから志保さぁ、そういうセンシティブなこと軽々しく触れるなっての!」
どうでも良いことだが、去年は父親に花火に行くと伝えたところ「誰が俺の飯用意するんだ!」と半殺しにされたことを思い出した。
このことを知っている楓は「ええっと、とにかく全員参加でいいよね? はい決定! 何時にどこで集合しようか?」とわざとらしく声を響かせた。殺された父親の話題から話を逸らそうとしてくれているのが分かる。彼女と妙な一体感を覚えてしまい、浮気をしてしまったかのようなバツの悪さを覚えた。
でも今はそんなことを気にしている時ではない。全員の意識が楓に向いているうちに、と俺は周囲に視線を巡らせる。何か紗奈の下へ繋がるヒントはないだろうか。
「花火って言えばよぉ、今日隣町の河川敷で祭りがあんだけど、『未来技術学科』が関わってるんだってな。で、あそこって東道との産学連携でできた学科じゃん? もしやと思って調べたら、ばっちし協賛欄に東道の名前あんの。しかも一番上に」
「重力操作技術を使った花火の実験するんだよ。あの派手好き目立ちたがり屋で有名な社長のことだから、大掛かりな祭りになるのかもね。あーあ、それにしても『未来技術学科』かぁ。二年早くできてくれてたら、絶対僕はそっち入ってたよ。重力操作技術の開発とか最高に面白そうじゃん。人生やり直したいなぁ」
「あたしは来年『未来技術学科』に転科するつもりだけど? あんたも親に相談したら?」
「えっ、わたし少し前に『卒業したら美容師の学校』に行くって聞いたけど? あれはどうなったの?」
「これからは東道の時代っしょ。何たって熱核融合炉完成の第一人者じゃん? 教科書に載るレベルの偉業じゃんよ。もし『東道パーフィニティ』に就職できれば勝ち組確定なんだから、髪切ってる場合じゃないよ」
「うーん、僕もそうするかなぁ。仕方ない、親に頭下げるか」
「ねーねー、みんなでちょっと講堂覗きにいかない? 何かの、撮影? か何かで社長の東道久道来てるんだってぇ。少しでもアピれたら社員になる夢に近づけるかも!」
「ああ、高校生へのPR映像撮ってんだってね。友だちが賑やかしのバイトで撮影に参加してんだけど、終わったらすぐ帰っちゃうんだって。それに、インタビューには応じないって旨を事前に言われたらしいよ」
「えーなんでよ。まさか、あの噂のせい?」
「おぅ、なんだなんだ、噂って?」
「なんかねぇ、東道社長ってあたしらと同じ年頃の娘がいるんだけど、急に姿をくらましたんだって。『父親は危険人物』だとか『父親に殺される』とか言い回ってたらしくて、社長が体裁を気にして家に監禁してんじゃないかって話。あと『私には前世の記憶がある』なんて妄想垂れ流す電波ちゃんだったとか」
ほとんど音として捉えていた彼ら彼女らの声が、唐突に意味を持って俺の耳に飛び込んで来た。「『前世の記憶』?」と俺が思わず繰り返すと、「あれ、興味あり?」とCが驚き混じりの笑みを浮かべてみせた。
「何かねぇ、社長の娘の友人って名乗る人がSNSでそういうこと呟いてたんだって。お父さんに嫌われてるらしくて、もしかしたら殺されるかも……なんてことを私に打ち明けてました。あの子の身が危ないかも、みたいな内容だったはずだよ」
「その友人って子、本当に社長の娘の友人だったのか?」
「どうだろねぇ。その人のSNSのアカウント、突然消されちゃってコンタクト取れなくなったんだってさぁ。東道側から圧力がかけられたんじゃないかって言う人もいるけど、ただの目立ちたがり屋だったんじゃないかとあたしは思うけどね」
他の全員も「十中八九そうだろな」と言わんばかりに笑っている。俺も同調するように何とか口角を上げた。
「悪い、トイレに行ってくる。これで俺の昼飯買っといてくれないか」
俺は千円札を置き立ち上がる。「現金とか久々に見た!」と騒ぐ友人たちを尻目に俺は歩き始めた。楓が何か言いたげな表情で腰を浮かせたことに気づいていたが、今は無視だ。
彼らの話を聞いて俺はあることに気づいた。紗奈も記憶を保持して生まれ変わった可能性があるということをだ。特に善行を積んだ記憶がない俺が特別扱いなのだから、まごうことなく善人だった紗奈が俺と同じサービスを受けられないというのは不自然というものだ。
生まれ変わり、紗奈捜索に乗り出したタイミングで『前世の記憶がある女』の話題が降ってきて、直後その女の親と接触する機会に恵まれるなど偶然にしては出来過ぎている。『幸運プラン』の効力としか思えない。どうにかして東道久道とかいう男に接近し、『前世の記憶のある女』の真偽を確かめるべきだ。
半ば走るように廊下を抜け、講堂や会議室のある交流会館という建物を目指す。おそらくPR映像の撮影はそこで行われているはず。
交流会館へ着くと、二つあるうちのマイク音声が響いてくる方の講堂へ向かう。扉をこっそりと開けて体を滑り込ませる。カメラがいくつも並んでおり、照らし出された中年の男の演説を撮影していた。
「――みなさんは『インパクトファイブ』という言葉をご存じでしょうか? これは地上の太陽と呼ばれる熱核融合炉が実用化された際に世間で流行した言葉で、『二酸化炭素を出さない』、『廃棄物の低レベル放射性』、『廃棄物のリサイクリング』、『原理的な暴走の否定』、『燃料は海水から採取可能で無尽蔵』という要素を表しています。企業が最新の商品を五つのアピールポイントでプレゼンされるのを聞いたことがあると思いますが、その売り文句になぞらえているわけです。
しかし、ここにある世界で最も有名であり、『インパクトファイブ』という流行語を生み出した『小石』、ニュートラリーノ結晶体は実のところ五つでは収まらない大いなる可能性を秘めています。
結晶体が持つ『自身を中心に重力場を発生させる』性質が生み出した、重力操作技術。熱核融合発電の課題であったプラズマの安定化、重力反転による海底資源の回収、地上での宇宙環境再現技術など、科学の発展に大きく貢献しました。現在では製造業から清掃業など、様々な業界から注目されており、新たな活用方法を日々研究され、優れた技術の誕生が待ち望まれています。当大学では世界初、ニュートラリーノ結晶体の利用法を研究する専門的な学科を用意しており、直接触れながら新技術の研究に携わることが――」
ステージの上に立つ四、五十代ぐらいの男は、黒いハイネックシャツにジーンズというカジュアルな格好だった。身振り手振りを交えながら、カメラやその周りにいるガヤ要員の生徒たちに言葉を振りまく様は『世界一有名なリンゴ』の生みの親と被る。
誰かに指摘されなかったのかと不思議に思うのだが……それはさておき、似合わない縁なし丸メガネをかけたあの男とどうやって接触するべきか。一介の生徒が突然話しかけて
「娘さんのことを聞かせてください」と訊ねたところで相手にされるはずもない。
困り果てていたところ、「おい」と囁くような声が向けられた。
「バイトの子か? 遅刻だな。ノイズが入るからじっとしておいてくれ。当然、バイト代は出ないものと思って……待て、お前は……」
喪服のような真っ黒なスーツに身を包んだ男が近づいてきたと思ったら、俺の顔を見つめて固まってしまった。
何だ? 何を驚いてる? と俺は眉をひそめていたのだが、彼が誰であるか分かると俺も同じように驚いてしまった。
「哲也! お前、痩せたなぁ……」
頬骨がくっきりと浮き出てしまっており、眉間や落ちくぼんだ目の周りに苦労を表すかのような細かい皺が刻まれているが、間違いなく彼は俺の幼馴染で親友の高槻哲也だ。
生まれ変わったことを理解しているつもりだったが、老け込んだ哲也の顔を見てようやく二十年の時を渡ったことを実感した。あぁそうか、俺は一度死んだんだな、と冷たくて空虚な感覚に呆けてしまうのだが、哲也の驚愕顔が不審に変わり、恐怖が滲んだのを見て失態を犯したことに気づいた。そうだ、今俺たちは赤の他人で、哲也にしてみれば今の俺は見知らぬ大学生でしかない。
まずい、生まれ変わりを知られたらペナルティを下されると天使が言っていたはずだ。俺は冷や汗を掻き、必死に誤魔化しの言葉を探すが、焦りでなかなか出てこない。
「こっちだ……ついて来い……」
俺が解答を出す前に哲也はそう言い、俺の腕を取って引っ張ってきた。
半ば引きずられるように連れて行かれたのは、講堂を出てすぐ隣の会議室だった。そこへ俺を押し込むと、哲也はドアを乱暴に閉じて部屋の奥へと歩いて行く。俺と向き合う位置に椅子を置いて座り、下からねめつけるように俺の目を見据えてきた。
「哲也、と君は呼んだな? こうして言葉を交わすのは初めてのはずだが、どうして私の名前を知ってる?」
「そ、それは……」
「しかも、私の親友の死に際の言葉を口にした。どこで知った? 私しか知らないはずなのに……君は……まさかあいつの……」
あと一言で核心に触れられてしまう。自分の間抜けさへの怒りや、ペナルティとは一体どういうものなのかという不安で思考はぐちゃぐちゃだった。
しかし、哲也は辺りを見回したり考え込むように目を閉じてみたりするだけで、続きを口にしない。そして一度長く深い溜息を吐くと感情を排した無気力な顔を向けてきた。
「すまない、今のは忘れてくれ。君が昔亡くなった親友に似ていて、動揺してしまった」
「はあ……その、そんなに俺とその親友って方、似てますか?」
「その仏頂面や真っ直ぐな眼差しがな。子どもの世話をしたことは?」
「あると言えば……そうですね、あります」
それももう昔のことになってしまったんだよな、と俺は心の中でぼんやり思った。
「話に上げた私の親友は、そそっかしい両親に代わって双子の妹たちと次男の世話をよくしていた。そのせいで高校に上がる頃には今のお前みたいに気苦労が顔に滲み出ていた。お前が纏うその堅苦しい雰囲気は、そういったところから来るのかもな」
自覚はなかったが、なるほど、他所から見ていた哲也の方が俺の人格形成の過程をよく観察できていたのかもしれない。『高い高い』で地面に落とされて泣きじゃくった記憶や、両親が弟妹たちを抱き上げたときにすっ飛ばしやしないか見守っていた過去が脳裏に浮かんでくる。もちろん前世の家族の話だ。
「改めて、こんなところに連れ込んで妙なことを訊いたりしてすまなかったな。君も私を誰かと見間違えたのか?」
「え? あっ、はい、そうです。瓜二つと言ってもいいぐらい友人と似ていまして」
「それでいて名前も同じ、と? ……まあ、そういう偶然もなくはないだろう。それにしても、半年ほど見ない間に君は随分と雰囲気が変わったな」
「えっ、俺たち初対面ですよね? さっきも言葉を交わしたのは初めてだって、あなたが」
「俺は東道社長の……まあ小間使いのような立場でな。言葉を交わすのは初めてではあるが、君のお父さんにこき使われていた君とは何度もすれ違っているんだよ」
「ええと……東道社長というのはまさか、東道パーフィニティの社長のことですか?」
「それ以外誰がいる? 君の父も俺と同じ役職で、よく任された仕事を君に押しつけていただろう。書類をどこぞに運んだり、買い出しに行かされたり」
それを聞いて桐野浩二としての記憶がわっと思い出された。そうだ、死んだ父は東道の社員だと自慢げによく話していた。
「それで、だ。君がここへ来た理由は、まあ予想はつく。父のことで話があるんだろう?」
「父? ……いえ、まったく違いますが?」
「違う? ならどうして社長の前にノコノコと出て来た。父親と社長のトラブルの件以外で何の用がある?」
「トラブル……? 俺は……そう、就活の一環というか何というか、東道パーフィニティに入社するための近道を社長から直々に聞けないかな、と思って足を運んだんですが」
「なるほどう、そういう……残念だが社長は忙しい。撮影が終わったらすぐに社に戻らないといけない。諦めて帰宅するんだな」
「そこを何とかなりませんか?」
「悪いがこれ以上話をしている時間がない。撮影が終わる頃だ。社長に見つかる前に裏口から出ろ。奇妙に思うだろうが、何も訊かず黙って言う通りにしてくれ」
哲也の眼差しが鋭くなり、声は真剣味を帯びた。出口側に回り込んで俺の腕を掴んできた彼の手に強い意志を感じる。
哲也の手は骨ばっていてヒビ割れており、使い古した雑巾のようにくすんでいた。これまでの過酷な生活を物語っているように思える。この二十年、お前に何があった? 幸福じゃなかったのか? 俺たちの死に苦しんだのか? 擦り切れそうな姿に胸が締め付けられ、俺は口から疑問を溢れ返しそうになった。
だが、その時だった。会議室の扉が開けられ、撮影に臨んでいたはずの丸メガネの男……東道社長が現れた。
「何をしている、哲也。いや、それよりもだ。撮影中に桐野の息子の姿を見た気がしたんだが、お前知らな――」
社長は哲也の肩から部屋を覗き込み、すぐに俺を見つけた。
「ほら、やっぱりだ! 浩二君だよね? お父さんのことは本当に残念だ。親族とは縁が切れていると聞いてたから、君のことを心配してたんだよ。あぁ、いきなりすまない。私は君のお父さんが務めていた会社の社長である東道久道だ。二本の道……言い換えて『日本の道』を背負うからこそ日本のトップであり続けられる、というキャッチフレーズ、聞いたことあるだろう?」
まったく覚えがないし、「正気か?」と口を滑らせそうになるが、ぐっと堪えて「もちろんです」と答えた。危うく帰されるタイミングで向こうからやってきて、言葉を交わせるどころか友好的に接してもらえるなんて、まさに『幸運』だ。
「生前、父がお世話になりました。父はあなたの会社で働けることを誇りに思っていたようで、いつも自慢していましたよ」
「まさか、ねぇ。お父さんがあんなことになるなんて。君の話をよく聞かされていたから、勝手に親近感を抱いていたんだよ。この学校で撮影をすると決まった時は話でもできたらと思っていたんだが、本当に会えるなんてなぁ。引き留めてくれてありがとうな、哲也」
社長はちらりと哲也に視線を送る。哲也はわずかに足を引き、返事もせず頭を下げた。
「あの、俺、あぁいえ私は、父から『東道』がいかに偉大であるか聞いていましたので、えーっと、そう。後を継ぐ、ではないですが、親子二代で勤めることが夢だったんです。それでこの度こちらへいらっしゃると聞いて、図々しいことを承知でアドバイスをいただけないかと思い、こうして足を運んだんです」
慣れない敬語で嘘をこれでもかと紡ぎ出す。即興で作った割にはまとまっていると思うが、さすがに唐突過ぎただろうか。
そんな俺の不安を他所に、「ああそうなの! そうなの!」と社長は垂れている頬肉を震わせて嬉しそうに微笑んでいた。
「では君の父を偲ぶ会でも開こうか。お父さんとは長い付き合いでね、語りたい思い出がいっぱいある。会社についても、その時にしてあげよう。しかしこんな会議室では無粋というものだ。場所を移そう。希望はあるかい?」
「希望? そ、それなら、社長のご自宅は可能でしょうか? 父が生前、社長の豪邸に憧れていたようだったので、せめて墓前にどれだけ立派だったか伝えられたらと思うのですが」
「私の自宅……ね。よし、構わないよ。今日は夜に自由な時間を作っていたからちょうど良い。そうだな、十七時ぐらいに迎えを寄越そう。私は歓迎する準備をしているよ」
前世の記憶のある女の話題、社長の来訪、社長が父親と関係があったことなど、自分に都合が良いことばかり舞い込んできている。だからこそ叶うという確信をもって自宅を提案したのだが、望んだ通りの返答を聞いて身が震えた。どうやら『幸運プラン』の効力は想像していたよりも強力らしい。
この流れに乗って行けば、すぐにでも紗奈に辿り着ける予感があった。それは望むことでほっとする思いにもなる……が、素直に喜ぶことはできなかった。
頭を下げたままの哲也は口を引き結び、眉間に皺を寄せ、社長の足元を睨みつけていた。拳は震えるほどに強く握り締められている。
どうして哲也は、社長は忙しいと嘘を吐いたのだろうか。口を引き結んで黙り込む親友は、真実を語るかどうか以前に、もう二度と声を発さないんじゃないかと思わせた。




