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第一話 西暦二〇二四年 六月八日 ②

 決して人付き合いが悪いわけではなかったが、俺が心を許しているのは紗奈と哲也の二人だけだった。二人を介して知り合った何人かと話したり遊びに行ったこともあったが、紗奈と哲也以外で下ろしたてのスーツを自慢してくる関係性の人間はいない。目の前の男は間違いなく初対面のはずだった。

 俺は上半身を捻って背後を見た。別の誰かがいるのかと思ったが、殺風景な四角い部屋があるだけ。正面に向き直り、「それ、俺に言ってるんですか?」と訊ねると、「他に誰がいるんだよ」とスーツ姿の男は笑った。


「あれ、俺何か変なこと言った? 下ろしたてのスーツのお披露目って、こんな感じでうきうきと見せるもんだって勉強したんだけど」


「は? それはまあ、間違いではないとは思いますけど。というか、その……ここは一体……? 今、神様がどうとかって言いましたけど、それはどういう意味で?」


「敬語は結構だ。フランクにタメ口でいいぜ。はい、どうぞ!」


「え? あーっと……どういう意味なんだ?」


「そうそう、その調子! んで、どういう意味も何も、このスーツは初仕事に合わせて神様が仕立ててくれたってことだ。イカすだろう? ネクタイのバーベラを刺繍がこだわりポイントで――」


「ま、待ってくれ、いまいち話が飲み込めない。あんた哲也の知り合いか? あいつのイタズラに協力している、とか?」


「その質問、意味ある? 即死した人たちと違い、あんたはじっくり死を実感しながらくたばったはずだ。なら、これがイタズラなんかじゃないってのは分かるはずだろう」


 男の眼差しはとても真っ直ぐだった。遊びで物を言っているわけではないらしい。


「じゃあ、本当に……死後の世界なのか?」


「その通り。そう思ってもらって問題はない」


「あんた、何なんだ? 人に見えるけど、もしかして違うのか?」


「俺は『天使』だ。正式名称ではないけど、神様に遣わされてるっていう意味で、大昔の誰かがそう呼び始めたんだってさ」


 てんし……と、俺は無意識に口にしていた。目の前の男の愉快げな表情は生意気に感じられて、サークル活動にも飽きてやっと就活を始めた、といったような雰囲気だ。宗教画に描かれている純白の翼を生やした赤ん坊姿と違い、神秘的でもなければ可愛げもない。


「分かるよ、うん。俺も初めて見た時は結構イカした顔立ちしてんじゃんって思ったもんね。だから見惚れるのは仕方のないことだけど、後にしてくれる? 天使として死んだあんたを導く仕事をしなくちゃならんのよ」


 半ば押し込まれるように部屋へと戻され、椅子の前に立たされた。男はテーブルの向こう側へと回り込み、そこにあった椅子に座る。

 さてさて、と呟いた天使は膝に置いたカバンからノートパソコンを取り出し、テーブルに置いた。彼はカタカタとキーを叩き、スクロールするためだろう、モニタを指でなぞっている。どうやらタッチパネル式らしい。天使とノートパソコン――その不釣り合いな組み合わせや、死後の世界にも科学技術が届いていることに困惑しながら俺は椅子に座った。


「オーケー、手続きの開始といこうか。では改めまして、今回『瑞樹有』様の生まれ変わりの案内を務める天使だ。どうぞよろしく」


「あ、ああ、よろしく……いや待て、生まれ変わりって言ったか?」


「ははっ、挨拶より先にツッコめよ! 情報通りクソ真面目なんだな、あんた!」


 天使はノートパソコンの画面と俺を見比べながら、からからと笑った。何だ、俺の何が書かれているんだ? と画面を覗き込もうとするが、天使が手を突き出し止めてきた。


「ダメダメ、死者のデータは見せられないんだよ。もし見せたらペナルティとして破裂するらしい。天使の俺がな」


「は、はあ……?」


「『死者のデータ』ってのは、その人の人間性、その成り立ち、何を成し遂げたのかが書かれた人生史だ。死者に関するすべての情報が書かれている。必然的に縁を結んだ第三者の情報まで書かれているから、プライバシー保護の観点から見せられんのよ。でもまあ、そんなに気になるならちょっとだけ教えてやろうか。あんた、『真っ直ぐな性格で温厚らしいが、あんまり感情を表に出さないせいで周りを怖がらせていた』らしいな」


「え、怖がらせていた? そう、だったのか」


「あんたの名前の『ある』は、母親が青白いランプの魔人が登場する某アニメの主人公のことが好きで付けられたんだって?」


「そのデータは誰が作ったんだ? 名前の由来は紗奈にしか話したことがないはずだぞ」


「今話題に出たその花瀬紗奈さん。幼馴染で小学生の頃から想いを寄せていたが、告白したのは高校二年生の夏、と。決断するまで随分と時間がかかったんだな。そんで、大学四年生になったその春、ゴムに細かな亀裂が入っていたせいで妊娠させ、大学卒業と同時に結婚することが決まっていたが……」


 天使は一瞬言葉を切り、モニタから俺へと視線を移した。


「恋人は死亡。あんたはその事実に耐えられず摂食障害を患い、三か月後に衰弱死した」


 それを聞いて、少しだけ驚きがあった。紗奈が死んだ後の記憶が曖昧で、先ほど哲也が来てくれた時、どうして俺はこんなにも弱っていたのかと不思議だったのだが……そうか、俺は三か月も紗奈とお腹の子を忘れ呆けていたのか。罪深さに気が重くなる。


「死んでも苦しみからは解放されないものなのか? 全てを忘れられるか、紗奈とまた会えるのかと思ってたんだが……それともここは地獄で、罰を受けている最中なのか?」


「いいや、ここは天国でも地獄でもない。例えるならキャリアショップみたいなものだな」


「は? キャリアショップ?」


「そう、スマートフォンとかいう携帯機器の通信契約を結ぶ、ああいった店のことな。よしよし、じゃあ本題に入ろう。いいか、実は人間ってのは輪廻を繰り返してる。死んだら記憶を真っ新に消され、新しい人間として生まれ変わるのさ。人間の魂は循環してるんだ」


 そこまで言って、天使はパンと手を叩いた。


「しかし! 『善行ポイント』とでも言うべき『徳』というものを積んだ人間にはプラン利用権が与えられる! そしてあんたはめでたくその対象となった! ポイントが一定数貯まったあんたは、今回から様々な特典を付与して生まれ変われるようになったんだ!」


「はあ、特典……?」


「生まれ変わりは性別や家族構成、生まれる場所も全部ランダムに決められる。だが『性別固定プラン』を利用すれば好きな性別で生まれ変われるし、『才能設定プラン』を選べば自身で設定した才能が必ず芽生える。次の人生をコントロールできるってことだな」


「コントロール……才能……なんだかゲームの設定みたいで現実味が感じられないんだが……まさか、俺が生きていた時に関わった人たちも『プラン』を利用してたって言うのか?」


「説明した通り、人生をカスタマイズできるのは『徳』を一定数積み上げた者だけが利用できる特別なシステムだ。全員が全員じゃない。あんたは特例なんだ、もっと喜べよ」


「喜ぶ? それは……無理だ。その話が本当だとしても、俺にとって何の価値もない」


「なんでさ?」


「紗奈と『かなで』が、死んでしまったからだ。次の人生をカスタマイズできようが、自分の意思で人生をコントロールできようが、それに何の意味も見いだせない……」


 言葉にしてみて、改めて喪失感に襲われた。現世は失った世界でしかないのだ。生まれ変わって幸福とされる人生を歩んでも、愛した人を失った事実はどこまでも追いかけてくる。そんな世界に生まれ変わって何の意味があるんだ、と俺は吐き捨てた。

 すると、「かなで?」と天使は訊いてきた。


「死んだ俺の子の名前だ」


「おや? データにはない情報だな」


「まだ誰にも伝えてなかったからじゃないか? 親である自覚をもってもらうためってことで俺に名前を考えさせてくれたんだが……伝えようと思ってたその日に、紗奈も子も亡くなったからな……」


「ふーん、なるほど。この名前にどんな意味を込めたんだ?」


「意味? それは……自覚はないが、俺はよくぶっきらぼうだって言われる。感情を表に出すのが苦手なんだ。それで怒っていると勘違いされることもしばしばで、だから子どもには誰からも愛されるよう、いつも笑い声を奏でていて欲しいと願いを込めた」


 天使は「へえ」と漏らし、頷いた。


「ネーミングセンスはなかなかなもんだね。愛嬌のある良い名前だ。すごく良い。きっと本人も気に入ったことだろうよ」


 その言葉は俺の中に開いた空洞の内側を見事なまでに搔きむしった。その現実はやってこなかったし、これからも来ることはない。全ては鉄骨の下、死によって消え去った。もういい。話を終わらせよう。この空虚感にこれ以上耐えられそうにない。さっさと生まれ変わりとやらを果たして、この心を消し去ってもらおう。紗奈たちと同じように俺も消えてしまうのだ。

 そう決意した時、「同じように?」と自分が考えたことに引っかかるものを感じた。


「なあ、死んだ人間はみんなここに来るんだよな? そして、生まれ変わるんだろう? じゃあもしかして……二人はすでに生まれ変わって現世で生きてるのか?」


 身を乗り出して訊ねる。天使は「かなで、かなで」と呟きながらノートパソコンのキーを叩いてデータの更新をしていたみたいだが、手を止めて少し気まずそうな表情を浮かべた。


「んー、残念ながら奏君は生まれることができなかったので、輪廻のシステムから弾かれちゃったんだ。人格も意思も何もあったものじゃないから、生まれ変わらせようとしてもできないんだよ」


「なら、あの子は一体どこへ?」


「神様の下だ。魂はあくまでも神様の物なんだよ。まあ、考えようによっちゃあ、あるべき場所に戻ったとも言えるかもね」


 そうか、と呟くので精一杯だった。次の人生で幸福を掴んだかもしれないという願いは虚しくも砕かれた。絶望感が体を支配し、心は粉々になってしまいそうだった。

 だが壊れてしまう寸前、「でもね」と天使は口角を吊り上げて言った。


「あんたの奥さんになる人だった花瀬紗奈は、すでに生まれ変わっているよ」


「えっ……本当か? 現世で生きてるのか?」


「その通り。さて、その話を踏まえて考えて欲しい。本当に『通常プラン』でいいの? 前の人生は満足だったか? やり残したことは? 何の後悔もなかったのか?」


「後悔? ……あるさ、あるに決まってる! 俺は妻になってくれるはずだった人とお腹の子を守ってやれなかった! これが後悔以外の何だって言うんだ!」


「じゃあもう一つ。次の人生に託す希望は? 望みはないのかい?」


「望み……それは……生まれ変わった紗奈が、今度こそ幸福な人生を送っているのか確認したい。紗奈があんな残酷な終わり方をするなんてあってはならないんだ。もしまた不幸に襲われるなら、今度こそ守ってあげたい。幸福な人生へと送り出してやりたい。紗奈の魂は救われたと確信できなきゃ、死んでも死にきれない……」


「ほらな。ちゃんと願いがあるじゃんか。なのに『通常プラン』を選ぶなんて勿体ない。あんたには選択権があるんだ、使わない手はないだろう」


 天使は手を組んで微笑むと、「そんなあなたにはこのプランがオススメ!」と言った。


「『幸運プラン』! これは文字通り幸運が舞い込みやすくなるプランだ! 生まれ変わって花瀬紗奈に会いたいと願っても、顔も形も居住地も変わっているから探すのは非常に困難。でも運気が高ければ都合良く手がかりが手に入るかもしれない。花瀬紗奈に会いたければこのプランを選ぶべきだ!」


「ならそれで――ああいや、待て。生まれ変わる時に記憶は消えてしまうんだよな? ならそんな特典、何の意味もなくないか?」


「うんうん、そうだよね。別人になっちまうってんなら、プラン云々の話は文字通り他人事でしかないよね。そう思う人のために存在するのが、『記憶保持オプション』だ」


「記憶保持……まさかそれ――」


「ご想像の通りだ。今のあんたの記憶を丸々次の人生に引き継げるものだよ。ただ、このオプションはリスクもある。記憶を引き継げるっていうのは、真っ新になって生まれ変わった人たちと比べてアドバンテージを得ることになるだろ? 生きた分だけ知識や技術があるわけだからさ。そのバランスを取るため、人生の難易度が大幅に跳ね上がるんだ」


「難易度? どういうことだ?」


「不幸が舞い込んできやすくなる。しかも強烈なやつがね。前世の記憶を利用して回避することもできるけど、とにかくそういったデメリットもついて回る。あとそうだ、記憶を引き継いでいること、というか生まれ変わりが行われていることを現世の人に知られちゃならない。もし気づかれたら、その時点で幸運プランの効力は失われ、オプションのデメリットだけが付きまとう不幸な人生になっちまう。『記憶保持オプション』はそういうリスクがあるんだが、それでも付与するかい?」


「今度こそ紗奈を幸福にできれば何だっていいんだ。どれだけの不幸が襲ってきようが、残酷に死のうが、何だって構わない!」


「よぉし、決まりだな! 案内はこれで終わり! じゃあ望み通り『幸運プラン、記憶保持オプション付き』で決定な!」


 揚々と声を張り上げた天使はパソコンのキーを叩き始める。それは新入社員が熱心に仕事をしているかのような光景だった。

 彼の言葉にそそのかされてつい願望を口にしてしまったが、はたして彼の言葉は事実なのだろうか。死んだというのに肉体の感覚があり、紗奈と子を想うと胸が締めつけられるし、紗奈と会えるかもしれないという期待は眩暈として表れていた。

 本当に、これから俺は生まれ変わるのか? ただの夢だったりしないのか?

 そんな不安に襲われていると、天使はタンッと小気味良くキーを叩いた。


「これから起こることに怖い思いをするだろうけど、すでに死んでるあんたはここで死ぬことはない。だから焦らず慌てず、身を任せろ。天使の俺がサポートしてやるからさ」


 彼がにやりと笑った瞬間、建物全体が揺れ、ゴゴゴゴと鈍い音が響いて来た。

 壁と天井が紙のサイコロのように開き、部屋を囲んでいた周囲の湖の中へと倒れて沈んでいく。驚いた俺は立ち上がって周囲を見回した。すると遥か彼方の異常に気づいた。

 水平線が徐々に高くなっていっている。まるで湖には『端』があり、誰かが淵を底から持ち上げているかのように湖面が競り上がって、最後は卵型に閉じてしまった。

 するとどうなるか――湖を湖たらしめる大量の水が全方位より襲いかかって来た。

 悲鳴を上げる間もなかった。俺は竜巻に巻き上げられたかのように錐もみになって回転し、真っ暗闇の中に沈んでしまう。

 頭は半ばブラックアウトしており、恐怖と焦りで意識が消えてしまいそうだった。

 それを繋ぎ止めたのは蛍のような淡い光だ。俺の体から滲み出てきて、暗黒の中で流星のように尾を引いて輝いていた。

 その光の中に俺の過去が映し出されている。

 小学生のとある夏の日の光景。紗奈と哲也とともに夏祭りに遊びに行った日、俺は浴衣姿の紗奈の可愛らしさに見惚れてしまった。この日、物心つく前より一緒だった紗奈が恋をする対象なのだと初めて気づいた。

 そんな俺に、紗奈は顔を赤らめて言った。


「どう? にあうでしょ? わたし、自分でおもってたよりも美人さんだったり?」


 中学生のある日、外出中の両親に代わって双子の妹と生まれてきたばかりの次男の三人の面倒を見ていた。協力してくれた紗奈はベッドで眠る次男を眺め、「可愛いねぇ」と微笑んでいて、俺はそんな彼女の姿を見ていつまでもこの時間が続けばいいのにと思った。

 そんな俺に、紗奈は頬を染めて言った。


「なんか、こういうのいいよね。何が? って訊かれると答えるのが難しいんだけど……私の幸せの形はコレだなって感じがする」


 高校二年生の秋、紗奈のことが好きだという同級生に告白の協力を求められた。俺は酷く動揺して、幾つか紗奈の好物を教えたものの、「ごめん、協力は無理だ」と断った。その同級生は何かを察したように俺から離れていき、俺の知らない間に告白してフられてしまった。もし協力していたら違った結果になっていたかもしれないと考えた時、酷い罪悪感に駆られた。

 それを見抜いたかのように、紗奈は言った。


「アル君はさ、いっつも妹ちゃんたちと弟君のお世話してるせいで、他の人のことを優先することが癖になっちゃってるんだよ。だから、ね? もうちょっとだけ正直になってみて。それができたら自分の決断に苦しんだりすることはなくなるはずだから」


 俺から零れ落ちていく『過去』から紗奈の声が聞こえる。もう二度と耳にすることはなかったはずの声。その記憶は俺から離れて、どこかへ飛んで行ってしまいそうになる。

 待て、消えないでくれ! そう願い、掴み取ろうとしたところ、「はいはい、それは俺の仕事ね」と天使が記憶である光を掴み取った。するとカバンの中にそれを突っ込み、俺の体から零れ落ちる記憶を次々に回収していく。


「本来この記憶たちはどこかへ飛んで行って消えてしまうんだが、『記憶保持オプション』を利用する場合はこの通り天使の俺が保管しておく。安心してくれ、決して消させたりしない。全部を次の人生に持って行ってやる」


 落下先に白く燃え上がる星のようなものが見えてきた。近づくにつれどんどんと大きくなっていき、視界の全てを埋めつくした。


「準備はいいか? 生まれ変わりの始まりだ。数年後にまた会おうぜ」


 白く燃え上がる太陽のようなものに飲み込まれた途端、天使の姿がどこかへと消えてしまう。体は動かせない。意識が拡張されて引き延ばされる感覚にだんだんと耐えられなくなり、俺は訳もわからなくなって叫んでいた。

 だが、ごん、という鈍い音と痛みが頭に響いた途端、それは唐突に終わった。


「いっ……つぅ……!」


 頬が灼熱の痛みを発し、「はっ、はっ」と俺は荒く息を吐いていた。暗闇の中、俺はどこかの天井を見上げて脱水症状の犬のように口を開いて空気を貪っていた。アルコールとタバコ、生ごみの臭いが混じった臭いに思わず吐きそうになる。

 何だここは、と体を起こそうとしたところ、頬だけでなく鳩尾や太ももからも稲妻のような痛みが発し、脳天へと突き上げてくる。たまらず口から悲鳴が漏れた。


「声出すんじゃねえよ馬鹿……! どこで誰が聞いてるか分かんねえんだぞ!? おら、早く立て! さっさと荷物まとめんだよ……!」


 涙で歪んだ視界に、痩せこけて目が落ちくぼんでいる男の顔が現れた。そいつは俺の胸倉を掴み、腐敗物を詰め込んでいるかのような胃の臭いを俺に吐きつけてきた。

 気づけば俺は「分かったから、父さん……言うこと聞くから、暴力はもうやめてくれ……」と怯えた声を出していた。何万と繰り返したかのように、その言葉が口によく馴染む。しかし俺の父親は薬物中毒者のような顔つきはしていない。暴力とは無縁の人だった。


「大学なんてなぁ、行かなくていいんだよ。これから大金が手に入んだからな。まあ、代わりに日本を出なくちゃならねえけど、一生遊んで暮らせるんだから構いやしねえよな?」


「な、にを言ってるんだ……?」


「あ? だから金が手に入るって言ってんだよ。お前にゃあ想像もできねえような莫大な金だ。日本に残せばあいつらが何するか分かったもんじゃねえから、情けで連れてってやるんだから感謝しろよ」


 不意に頭の奥から「夜逃げ」の単語が出てくる。そうだ、この男は大金を得る手段を手に入れた代わりに追われる身になったらしい。だから日本にいられなくなり、大学生の俺を連れて海外逃亡を図ろうとしているのだ。

 しかし、この情報の出所はどこだ? 俺はどうしてそんなことを知っている?

 ぐるぐると疑問を頭の中で掻き混ぜていると、不意に『父さん』は玄関を振り返った。


「……あぁ……お前……庭に出て物置に隠れてろ……早く……行け、早く行け……!」


 顔を近づけ小声ながらも怒鳴るように言った彼は、襟を掴んで俺をベランダへと引きずった。鍵をかけていなかった窓を開き、夕闇に沈む裏庭に俺を放り投げた。

 彼は窓を閉めカーテンで遮るのだが、その寸前、表情に焦燥が浮かんでいるのが見えた。

 それが意味するところを考えていると、玄関から周りこんでくる足音が耳に届く。気配を消そうとしているかのような静かな足音だ。

 俺はすぐ目の前の物置のドアに手をかけたが、錆びていた音が鳴りそうだった。しばし逡巡した後、物置を侵食するかのような野草の絨毯の中に身を伏せることにする。と、同時に複数の来訪者が裏庭に乗り込んで来た。


 ……あっという間の出来事だった。

 まず玄関側から複数人で突入したのだろう。室内でどたどたと足音が鳴った。それとほぼ同時に、裏庭に回ってきた黒い目出し帽を被り黒いライダースーツを着たそいつらは窓を割って中へと突入――

 魂を揺さぶる激しい打撃音が聞こえてきた。何度も、何度も。次第に粘ついた水音のようなものが混ざりだす。

 二十秒ぐらいだろうか。不意に音が止み、室内の奥、戸口が開閉する音が聞こえてきた。続いて車が発進する音が耳に届く。どうやら襲撃者は目的を終えて去っていったようだ。

 それから十分は固まっていただろうか。俺はようやく立ち上がり、割られたベランダの窓から室内に上がった。

 電気を点けると、『父さん』がタバコの焦げ跡だらけのカーペットの上に倒れていた。体は不自然な形に曲がっており、顔は判別できないほど血に塗れている。首には縛られた跡があり、襲撃者の殺意の高さを証明していた。

 その有様に胃が引きつる。俺は平屋の中に足を響かせ、トイレへと向かった。が、間に合わず横の洗面台に胃の中身を吐き出した。

 何だこれ……俺は今何を見てるんだ?

 そのように呟き、顔を上げる。

 鏡には、パニックで顔を引きつらせた見知らぬ男が映っていた。

 手を上げると鏡の中の男も手を上げる。赤黒い右頬を撫でると、彼も傷んだ頬を撫でた。


「二十年だよ、二十年。ようやくだな」


 鏡には俺しか映っていない。だが、背後から声が聞こえてきた。

 振り返ると、ツーブロックヘアの男――天使が腕を組んでこちらを見つめていた。


「これが、生まれ変わりなのか? 俺は、蘇ったのか?」


「その通り。今世では桐野浩二という名前を与えられたが、意識も記憶も瑞樹有のままだ。あんたの魂は何も変わっちゃいない」


「これは、あまりにも刺激が強い……というか、過酷過ぎないか? いきなり父親らしい男が殺されたんだが」


「言ったろう。『記憶保持オプション』は強烈な不幸を招くって。前世の記憶を持ち越すってのは、つまりこういう反動を呼び寄せるってことなんだよ。でも……」


 天使は言葉を切り、ニヤリと笑った。


「瑞樹有は現世に存在している。花瀬紗奈が生まれ変わった、この世界に」


 俺は何度か瞬きし、彼の言葉を心の中で繰り返した。

 それから洗面台に向き直り、頭を蛇口下にねじ込んで、シャツや床をびしょ濡れにするのも構わず水を浴び、顔を上げた。


「そうか……紗奈が生まれ変わった世界に、俺もいるんだな……」


 鏡の中でそう呟いた男の目には、昏い執念の炎が灯っていた。


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