第一話 西暦二〇二四年 六月八日 ①
第一話 西暦二〇二四年 六月八日
「――でね、お父さんったら『絶対訴えてやる』とか『紗奈はまだ大学生だぞ!』みたいなことを何度も繰り返して、でも初孫は嬉しいみたいで『名前は決まってるのか』って急に冷静になるの。感情が行ったり来たりで顔色が紫色に……アル君? 聞いてる?」
鉛に沈むかのような虚ろな意識の中、目覚めを促す穏やかで暖かい声が響いた。
ぼやけた焦点を合わせると、コンソメスープが目の前に置かれている。スライスした玉ねぎの下に花びらを追いかける子猫のイラストが見えた。顔を上げると向かいの席に紗奈の姿がある。その焦げ茶色の瞳で俺の顔を覗き込み、セミロングの髪がスープに入りそうになって慌てて背筋を伸ばしていた。
「そろそろ美容室に行かないと。アル君のご両親に挨拶行くの、もう二週間後だもんね」
「二週間、後……挨拶……?」
「もしかして忘れてた? もぉ、そっちは実家だから気楽だろうけど、こっちは気に入られるかどうかの勝負なんだよ? 未来の旦那さんとして支えて欲しいんだけど」
旦那……ああ、そうだったと俺は空虚な内から記憶を拾い上げた。
大学四年生に上がったばかりの身でありながら恋人を妊娠させてしまったという事実は、何とも言えない感情を呼び起こす。不良品を混入させた避妊具メーカーに問題があったとはいえ、相手の人生を狂わせたという罪悪感と、愛の証明が形になったというこの上ない喜びが混ざり合い、何だか心がざわめいて身悶えしたくなる。
ああ、この感覚、久しぶりだ。……久しぶり? なぜだろう、彼女から妊娠を告げられてからずっとその感覚に苛まれていたはずなのに、どうして懐かしく感じるのだろうか。
「ねえ、アル君。まさかだけど私の両親に会いに行くの来週だってのは忘れてないよね?」
「え……そう、だっけ。というか、今日って何日だ?」
「しっかりしてよぉ。妊娠の責任が自分のせいじゃないって分かって気が抜けちゃった?」
「そういうわけではないけど……悪い、なんかぼうっとしてて……でも、どうであれ妊娠させてしまったことは変わらない。ちゃんと責任は感じてる」
「それ、『させてしまった』はやめよ。そういう言い方したらお腹の子が望まれてないみたいじゃん。だからお父さんにも絶対訴訟はやめてって言っといた。いいよね? このお腹の子は神様からの贈り物ってことで」
「もちろん。ずいぶんとみっともなく動揺しちゃったけど……あれだ。その……俺も家事とか子育てとか、一緒に頑張るつもりだ。良い家庭を作りたいって思ってる」
「語彙力! 良い家庭って! 『幸せな家庭』でいいじゃん!」
「まあそうなんだけど、正直幸せにしてやるって言い切れる自信がないんだ。大学四年になっても未だに友人といえるのは紗奈と哲也だけの甲斐性なしだからな……生まれてくる子どもと上手くやっていけるかどうか」
「自分の子どもに人見知りしてるの? 大丈夫だよ、アル君が世話した双子の妹ちゃんたちと弟君には懐かれてるじゃない。それと同じ。きっと愛される父親になれるよ」
「そうだといいんだけどな」
「子どもの頃は幼馴染が旦那になるなんて思わなかったのに、なんか今は当然のように感じる。あの千文字以上の痛々しいラブレターも、ダイヤが取れた欠陥品の婚約指輪も、私の人生にぴたっとハマった感じがあるの」
「掘り返すな、そんな黒歴史……なんもかんも哲也のせいなんだ。女性は古風が好みだからって手紙書かされて、知り合いが安くしてくれるっていうから利用してみればあの指輪だ。でも指輪が欠陥品になったのは、ある意味では紗奈のせいでもあるんだからな。ちゃんと修理して渡すつもりだったのに、すぐ出せ、すぐ見せろって言うから……」
「だってプロポーズと指輪はセットでしょ。アル君が用意してないわけないと思ったから、そりゃおねだりするよ。ところでダイヤの指輪はいつ戻ってくるの?」
「さあ、哲也が責任もって何とかするって言ってたんだけど、ずっと連絡がない。まったく、あいつに頼ったのが間違いだった。こういう詰めの甘さに我ながらうんざりする……」
「いいんだよ。アル君はそれでいいの。不器用でも真っ直ぐで一生懸命な姿勢が私は好き」
「ああ、うん……それでも間の抜けた部分はどうにかしたいところだ。子どもに恥ずかしい姿は見せられないし、その……『幸せな家庭』ってやつを築くためにも、さ」
紗奈は微笑み、「うん……うん」と噛みしめるように小さく頷いた。
「作ろうね。幸せな家庭を」
「ああ、一緒に作っていこう」
「さ、スープ飲んじゃって。そろそろバイトの時間でしょ? 食器は私が片づけるから置きっ放しでいいよ」
壁の時計を見ると急がなくてはいけない時間だった。俺は「そうだな、早く食べないと」と言ってスプーンを手に取った。
それをオニオンスープに入れる寸前、ふと想像する。我が子もこのスープを気に入るだろうか、と。もしかしたら味噌汁の方が好みってこともありえる。
俺が食事当番の時は和食にしようかな。俺は思いつきの先に幸福な家庭をイメージしながら、スプーンをスープに浸す。
カチン、と乾いた音が鳴った。
「…………え?」
器の中は空っぽで、埃が積もっていた。気づけば部屋は暗闇に沈んでいる。正面に紗奈の姿はなく、そこには静寂が座っていた。
一体何が起こった? と驚いた俺は立ち上がろうとした。だが、体が全く動かない。体のどこかに穴でも開いていて、エネルギーが抜けてしまったかのように力が入らなかった。呼吸すらままならず、紗奈に助けを求めるが家の中に誰の気配も感じなかった。
混乱の中で動けずにいたところ、バタバタと慌ただしい足音が聞こえてくる。玄関から誰かが入って来たらしい。
「アル! お前、いつからそうしてた!? 頭に埃積もってんじゃねえか!」
物心ついた頃より聞いてきた親友の哲也の声だ。埃を纏って駆け寄って来た哲也は俺の頭を叩くように払った。エネルギーの枯渇した俺の体はその力に抵抗することができず、椅子から零れ落ちて床に倒れ込んでしまう。
「くそ、あぁ、くそっ、俺のせいで……! もう知らん、もうどうなってもいい! 殺すなら俺にしろよクソども!」
哲也は俺の腕を取って体を持ち上げてきた。殺すならって何の話だ? と俺は問いかけようとしたが、「ぁ、ぅ……」という乾き切った言葉にならない音が漏れただけだった。
アパートの前に停められていた車の助手席に俺を座らせると、哲也はすぐに回り込んで運転席に乗り込んだ。甲高いスリップ音を鳴らして急発進させる。顔を傾けると、目を濡らし、汗だくになっている哲也の顔が見えた。
「てつ、や……お前、痩せたな……」
どうにか声を絞り出す。哲也は「無理してしゃべるな! 意識保つことに専念しろ!」と悲鳴じみた声を上げた。
「なんだ、何が、あった……? 何でそんな必死に、お前……」
ハンドルが回転し、車は勢い良く方向転換して大通りへと出る。その強い慣性が脳を刺激したのか、記憶が蘇ってきた。
今走っているこの通り……紗奈の両親へと挨拶に向かう途中だった。レンタカーで走行中、挨拶の練習を二人でしている最中、「アル君、あれ」と紗奈が不意に前方を指さした。
左手奥の高台に停まっていたトラックの荷台が壊れ、鉄骨が落ちてくるのが見えた。慌ててブレーキを踏み込むが、後ろを走っていたトラックに押され、鉄骨の雨の中に押し込まれてしまった。
砕かれるフロントガラス。車内に吹き荒れる破壊の嵐。
気づけば俺は奇跡的に鉄骨の隙間に挟まっており、呆然としていた。
俺は恐る恐る助手席を見た。
そこには鉄骨が山になって積もっている。助手席など跡形もない。だが鉄骨の隙間から紗奈の腕が見えた。何度も繋いだその手は動かず、薬指に嵌めた指輪は血に染まっていた。鉄骨は、俺の愛する人と、あったはずの未来も押し潰してしまっていた。
「あぁ、そうだ……紗奈もお腹の子も死んだんだったな……」
遺体を修復する専門業者でも、人の形に戻すことができないほどに紗奈の遺体は凄惨だったそうだ。俺は紗奈の母親に「お願い、見ないであげて……」と言われて死に顔すら見せてもらえなかったが、粉々になった遺骨を見たのは事実としてあるから、紗奈がお腹の子もろとも死んでしまったのは確かだった。
その事実を思い出した途端、俺の体の中にあった微量の何かが消えてなくなった。視界がぼやけ、意識は陽光の中に溶けていく。
「アル? ……おい、アル! しっかりしろ! 病院もうすぐだから!」
哲也が泣き叫んでいた。俺と紗奈と哲也は幼馴染で家族も同然だった。二人もいなくなったら、さぞ辛いだろう。俺は謝罪を口にした。ごめんな、俺も行くよ、と。もうこの世に未練はない、と。力を振り絞って伝えた。
「アル! 頼む、死なないでくれ! お前には言わなくちゃならないことがあるんだ! あぁ、もう、どうして…俺があの時…………の名前を出さなきゃ、紗奈は死なな…………! お前がこんな弱ってるのも、たぶん俺が飲ませた、あの薬が……で! 俺だ、俺のせいで二人は死…………! 脅さ…………!」
音が遠退き静謐が俺の中を満たしていく。視界はどんどん白んでいき、肉体を包んでいた虚脱感は浮遊感へと変わっていって、空気となったかのように流される感覚に陥った。
はたして俺はどこへ向かうのか。まあ何だっていい。楽になれればどうなろうが構わない。早くこの意識を消してくれ、喪失感を消し去ってくれ。俺はそう願い続けた。
だが、一向に自我が消えることはなかった。それどころか流される感覚が上方向へと変化したかと思うと、急激に目が冴えてきた。それはジェットコースターのように激しい勢いとなり、俺は歯を食いしばる。一体何が起こってる? 俺はどうなってしまったんだ?
苦しさのあまり悲鳴を上げそうになった寸前、どすんと尻をしたたかに打ちつけられた。
「うっ……な、なんだ? えっ?」
反射的に目を開く。そこは、真っ白な壁に囲われた殺風景な一室だった。俺は石から削り出されたかのような固い椅子の中に納まっており、ひじかけに両腕をのせた状態でいた。
先ほどまで死の中にいたはずだ。死んでいく感覚があった。なのに肉体がここにある。絶好調といった感じで体が軽い。
周りにあるのは椅子と丸いテーブルのみ。病院の診察室かと思ったが、それにしては物がなさすぎる。振り返ると扉があり、ひとまず人を探すため外に出てみた。
青い空と、空を映し出す湖が地平線の彼方まで広がっていた。
勢いで水の中に足を踏み入れると水面が揺らめき、辺りに浮いている白い花が俺から逃げるように流されていく。小ぶりな菊だ。菊は真っ青な空から無数に降ってきていて、くるくると回りながら着水する波紋を作った。
現実味のない光景に俺は唖然としてしまう。どこだここは? これが死者の世界なのか?
慌ただしく思考しながら周りを眺めていると、水平線に黒い点のようなものが現れた。
その点は徐々に大きくなり、やがて人の形になった。誰かがこちらへ向かって来ている。
そいつはスーツを着た若い男だった。片手にカバンを提げ、髪型は気取ったツーブロックで、百七十五センチの俺より少し背が高い。新卒、といったような雰囲気の男だった。
彼は真っ直ぐ俺の前まで来て立ち止まる。にこにこと微笑みながら口を開き、かと思ったら何かを思案するように顔を傾けていた。
あの、と俺が声をかけた瞬間、彼は思いついたかのような表情を浮かべて、
「どうよ、俺のスーツ姿! 神様に作ってもらった特注品だぜ! 似合ってるだろう?」
などと実に快活な声で話しかけてきた。
その軽薄そうな態度に圧倒され、俺は「は、はあ」と答えるので精いっぱいだった。




