第五話 西暦二二〇八年 八月十三日 ②
「――はぁ……こんなとこにいたのか。誰かが動かしてたらミンチになってたとこだよ?」
暗闇に沈んだ視界に光が差し込み、俺は目を細めて手をかざす。伊都会長がすぐ傍に立っていて、掘削機のタイヤにもたれかかって座っている俺を見下ろしていた。
「気づいてる? もう日を跨いで、今はもう午前二時だよ。一体いつからここにいたの?」
「いつから? さあ……ここにいることに、今俺も気づいた……」
「人伝に聞いたんだけど、誰かを探してたんだって? その……見つからなかったの?」
「ああ……すでに存在しない人だからな。俺は……幻を追い続けてここまで来てしまった」
「それは……悲しいね。私も似たような境遇だから、少しだけ気持ちが理解できるよ」
「……似た境遇? 伊都会長も人を探していたのか?」
訊ねると、ライトの光の中で伊都会長は答えずに微笑んだ。
「あのね、十弥。みんなで話し合って、やっぱり生き残るのは不可能だって結論を出したんだ。それで、最後だからってお祭り騒ぎしようってことになったんだよ。屋台をずらりと並べて、みんなで浴衣を着て、花火も絶え間なく打ち上げ続けてる。どんちゃん騒ぎした後、みんなで『終日の出』を拝むの」
「つい……なんだって?」
「終わりの日の出で『終日の出』。初日の出をもじった造語だよ。案外語呂がいいでしょ?」
「……そうか。存分に楽しんでくれ。俺はここで眠るよ」
「そう言わずにさ、一緒に花火を見よう。3D花火っていうのをもうすぐ打ち上げるんだってさ。一人じゃ寂しいから君も来てよ」
「構わないでくれ……俺はここでいい。ここがいい。この真っ暗闇が俺の人生なんだ……俺は俺に相応しい場所で死ぬことにするよ……俺の分まで楽しんでくれ」
突き放すように言うと、「お願いだから」と伊都会長は震える声で言った。
視線を上げて彼女の顔を見ると、酷く寂しそうな笑みを浮かべていた。
「本当に、本当の最後なんだよ。だからお願い。最後は、傍に居て欲しい」
そうか、と俺は納得した。きっと彼女が今回の人生での恋人ポジションなのだろう。
まただ。彼女から『十弥』という人間を奪い、想いを踏みにじった。罪悪感が込み上げてくるが……でもよく考えると、まだ彼女と縁を切ったわけではない。このまま最期を迎えるまで『彼女の十弥』を演じることができたのなら、彼女の心は救われるかもしれない。
……せめて。
……せめて、この人生だけでも演じ切って誰かを幸せにするべきじゃないだろうか。本当に、本当の最後なのだから、多くの人を傷つける人生を選んだことのケジメをつけるべきではないだろうか。
「分かった……一緒に行くよ。案内してくれるか?」
立ち上がり訊ねると、伊都会長は声を震わせたことなどなかったように「もちろん。さっ、行こう! お祭りなんていつぶりだろう!」と溌剌な声をトンネルに響かせた。
外に出ると、もうすっかり慣れてしまったが夜とは思えない大きな星々が地上を照らし出していた。しかしそれに負けじと、コロニーのある方から屋台の明かりと花火の輝きが空を照らし返していた。
『カルミア会』のコロニーに戻ってくると懐かしい焼きそばの匂いがした。一体何十年前の祭りだと言いたくなるくらい古臭い屋台が並んでいて、綿菓子もフランクフルトも売っており、養殖していたコロニーの食料源である川魚を金魚釣りみたいにビニールプールに泳がせている。急いで作ったのだろう、動物を象ったお面屋は全部段ボール製で、それでも多くの人が頭にその粗末なお面をつけていた。
「十弥は何か食べたいものはないの? 当然だけどお金は取られないから食べ放題だよ」
「……いや、腹が空いてないから。この旨そうな匂いを嗅げただけで満足だ」
「そっか。じゃ、私もいいかな。十弥を探す途中でたらふく食べたし」
もう午前二時を過ぎているという話だった。大人たちはまだしも子どもたちは眠そうにしており、抱えられて眠っている子もいる。それでも結構な数の子どもたちが初めて経験するであろう祭りに興奮し、走り回って騒いでいる。
その子どもたちの中に、見覚えのある三人の幻が見えた。遥か昔の記憶……俺と哲也と紗奈の姿だ。あの幸福だった日々。当たり前だった日常。俺は焼きそば、哲也はイカ焼き、紗奈はよくばって綿菓子を三本持って走っていた。
そんな過去が人影の中に垣間見える。瑞樹有である『俺』が壊れかけているのを感じていた。世界がどうなろうと、例え生き延びることができたとしても、もう魂がもたなかったのだろう。そんな気がする。
「子どもたちが楽しそうで何よりだね。まあ、これから何が起こるのか分かってないんだろうけど……でも、人生最後の日に笑い合えたのは良いことじゃないかな」
「ああ、そうだな。トンネルでくたばるよりはずっといい」
「ね? 来てよかったでしょ? ほら、あそこ見て。隕石が掠めて吹っ飛ばされた四階の教室。あそこならきっと花火が良く見えると思うの」
俺たちは屋台から離れ、生活拠点である学校へ帰ってきた。
みんな祭りへと出払っていて校舎は無人だった。静かな廊下に二人で足音を鳴らし、破壊されて野ざらし状態の四階の教室に踏み入った。
転がっていた机を立て、汚れを手で払って俺たちは腰を下ろす。空にずっと打ち上げ続けられている花火はAIを搭載したマイクロドローンを利用したもので、空で弾けると長いあいだ光華が空に残り、動き回って馬やら鳥やら白馬の王子とお姫様に変化したりする。しかもそれらは地上へと下りてきて人間の周りを駆け巡ったりすることもできる最先端技術である。一体誰がどこで手に入れたのやら。一発で何千万円とかかるはずだから、軽く一億円は消えたはず。最期に相応しい贅沢、と言えるかもしれない。
「ね、十弥は誰を探してたの?」
自分の周りに集まってきたドローンが何匹ものウサギに姿を変えて飛び跳ねてるのを眺めながら、静かに訊ねてきた。
「聞いてどうするんだ」
「友だち? 家族? それとも……恋人?」
「……好きに想像してくれ」
「えー? 誤魔化されると余計気になるなぁ」
「……伊都会長。さっき俺と似た境遇だって言ってただろ? 会長も誰かを探していたのか?」
訊ね返すと、伊都会長はぴたっと止まり、「うーん、まあ」と曖昧な返事をして俺から視線を逸らした。
「そうだと言うのは、正しい表現じゃない気もする」
「何だそれ。相手は?」
「太陽の魂を持つ人」
「は?」
「私の太陽とでも言える人。端的に言えば恋人だね。婚約をしてたこともある」
「恋人? 伊都会長、恋人を探してるのか?」
「随分と大仰に驚くね。何かおかしかった?」
いや、と否定するが、てっきり毎度現れる俺の相手役だと思っていただけに、彼女の言葉には驚かされた。でもそれならそれでいいか、と俺は肩の力を抜く。彼女の恋人となるフリも演技もしなくていいなら、俺も穏やかに花火を眺めていられる。
「実はね、その相手は見つけてあるんだ」
「そうなのか? ならそいつをここに呼んで一緒に花火見れば良かったのに」
「そうもいかないんだ。彼はね、記憶喪失なんだよ」
「記憶喪失……そんな人、コロニーいたか?」
伊都会長はその問いに応えず、足を持ち上げて机の上で膝を抱えた。
「私と恋人同士だったことも、結婚するはずだったことも、全部忘れちゃっててね。気づくとどこかに行っちゃうんだ。私の人生はそんな彼を追い続ける人生だったよ」
「それは……苦しかっただろうな。大切な人を忘れるだなんて、酷いやつだ」
「仕方ないよ。記憶喪失は回避できない自然の摂理のせいだから」
「そいつともう一度関係を結ぶことはできなかったのか?」
「できたよ。私の想いは変わらないから。初めましてから始めて、友だちになって、そして恋人になった。でもね、彼は私の手から離れて、また記憶を失っちゃったんだ」
「相当重い障害を負ってるんだな……」
「まあ……そんなとこ。だからね、私は何度も追いかけて、何度も知り合ったんだ。何度だって好きだって気持ちを伝えて、何度も恋人になった。何度も、何度もね……」
「そうか……それは……キツい人生だったな」
「うん……辛かったし、引き裂かれるみたいに苦しかったよ。でもね、何度記憶を失っても、彼は彼のままだった。不思議なほどに彼は彼のままだったんだよ。だから諦めようにもできなくって、どうしても追いかけちゃうんだ」
「……想いは簡単に捨て去れない。それは、どうすることもできないんだよな……」
「それに、どうしてもあったはずの可能性が頭をちらつくの。結婚して、子どもを産んで、家庭を築いたかもしれない可能性が……だから、私は諦め悪く追い続けたんだ。何度も恋をしたんだ。でも、でもね――」
伊都会長は膝の中に顔を埋めて肩を震わせ、嗚咽を漏らした。
「どうしても、どう頑張っても、彼は私の手からすり抜けていっちゃう! 掴んだと思ったのに幻みたいに消えていなくなっちゃう! 分かってるんだ! それが自分のせいだって! 東道に殺されたのも、爆発から助けられなかったのも、テロに巻き込まれたのも、何もかも私のせいなの!
私が諦め悪く、何度も何度も生き返って、追いかけたから死んじゃうんだ! 記憶を引き継ぐデメリットがアル君を殺し続ける! それが分かっていても私は私という人格を捨てきれなかった! どうしても……どうしても取り戻したくて……だってまだ愛してるんだもの! 消そうとしたって、この想いは決して消すことができなかった! もう彼はいないと分かっていても、魂はずっと同じ太陽の色なんだもの! だから諦められない! だから殺し続けた! なんで、こんなに愛してるのに……こんなことになっちゃったんだろう……幸せな未来があったはずなのに……どうして、どうして……!」
彼女の叫ぶような声は、空へと飛んでいった。ドローン花火が彩る美しい空に向かって飛んで行った。
それに反応したかのようにドローンはその色を変え、形を変える。
カルミアの花だった。俺たちの会の名前となった花だ。それが空だけでなく俺たちの周りを浮いていたドローンも全て色鮮やかなカルミアに変じた。
花言葉は……花言葉は、『大きな希望』――
俺の頭の中を、新井田楓、津野田珊瑚、志藤四葉、その後に出会ってきた何人もの女性の顔が駆け抜けた。
「……………………紗奈…………なのか?」
そっと呼びかけると、伊都会長は何の反応も示さなかった。
だが、少し経つと膝の間から顔を上げ、まん丸に開いた目を向けて視線を絡ませてきた。
そして、
「アル……君……?」
俺がずっと探し続け、もう失ってしまったと思われた声が、言葉が、俺の中に響き渡った。
「うそ……聞き間違い、じゃないよね? 今、紗奈って……」
「ああ、口にした。紗奈って。もしかして会長は……花瀬紗奈なのか?」
「何で……だって私、生まれ変わって小学生に上がる頃には必ず会いに行ったんだよ!? そして……そして何度も『アル君』って話しかけて、でも応えは返ってこなくて……その後もずっとずっと、ずっとずぅっとアル君にだけ分かることを話したりして、でもやっぱりアル君じゃなくて、いつも絶望してたのに……」
「ランクだ! 紗奈はたぶん『B』、いや最高の『A』ランクか? とにかく紗奈は特別の中の特別で、生まれてすぐに記憶を取り戻せる権利があったんだ! でも俺は最低ランクで、記憶が蘇るまで時間がかかったんだよ! 今世の俺なんて昼間に思い出したばかりで……!」
「アル君……アル君……! 私たち、ずっと一緒だったの……?」
「俺たち、ずっとすれ違い続けてたんだ! 俺たちは、ずっと一緒に――」
その時、俺たちの視界を鋭い光が横切った。光は地上に落ちて世界全部を照らし出し、凄まじい衝撃波と土煙をもたらした。
はっとして空を見上げると、薄っすらと朝日が差し込んでおり、たくさんの流星が地上へと向かって降ってきていた。
ついに始まったのだ。このタイミングで。最後の日へ、俺たちは行きついてしまったのだ。
「逃げよう! 生きるんだ!」
頷いた紗奈の手を取り、カルミアの花畑を形作っていたドローンを蹴散らして、俺たちは学校を飛び出した。
お祭り会場から大勢が叫び声を上げて駆けてくる。何の罪もないその人たちを隕石は無情にも襲う。近くに幾つもの隕石が落下して、吹き飛んできた瓦礫や土砂に何人もが飲み込まれた。
「山向こうだ! 山を壁にして身を守れ!」と誘導するモモ爺さんの横を駆け抜け、親のいない子どもたちを抱えて背負い走る栗田を遠くに見ながら俺たちは必死に走った。
隕石の落下で道は閉ざされ、頂上に灯台のある小高い丘の道に人の流れができていた。みんなパニックに陥っており、足の遅い人を押しのけ、髪をつかんで引きずり倒し、妻と子を守ろうとしている仁太を崖から突き落とした。
首から着地した仁太は動かなくなり、その下敷きになった瑠香は血を吐き出した。
だが瑠香は俺たちに気づくと血を吐きながら赤ん坊を差し出してくる。
「づれで行っで! おねがい!」
俺は空いている手で泣き叫ぶ木葉を受け取り、踏みにじられる仁太と瑠香を置いて必死に未来へと走った。
結婚するはずだった二人。子どもが生まれていたかもしれない過去。
奇しくも『あったかもしれない』形で俺たちは命を燃やしていた。紗奈の手は暖かくて、彼女の荒い息遣いは生の息吹そのものだった。赤ん坊は想像していたよりずっと重くて、世界から全ての不幸を消し去るんじゃないかと思うほどに暖かかった。
生きたい。掴みたい。あったはずの可能性を――この奇跡を決して手放すものか。
俺はそのように決意するが、現実はあまりにも残酷だった。
丘の頂上、展望台に辿り着いた途端、隕石が頭上を駆け抜け展望台とその先の大地を吹き飛ばし、地獄の炎を生み出した。爆風で俺たちは倒され、かろうじて助かった者は立ち上がって決して逃れることのできない巨大な光の塊を目にしてしまう。
ここが終点。誰もが足を止めた。
あれが自分たちの運命なのか、とそこにいる全員で『終日の出』と隕石を見上げた。
「どうしよう、アル君! もうポイントがないの! アル君を探すためにいっぱい使っちゃったせいで、もう花瀬紗奈として生まれ変われないの……! せっかく出会えたのに、せっかく見つけられたのに、これで終わりなの……!」
紗奈は木葉を抱きしめながら叫んだ。涙を溢れさせて、悔しそうに顔を歪めていた。
「紗奈っ! 頼む、俺に願ってくれ! 『私を探しに来て』って! そうしたら俺はどこまでも行ける! その一言だけで救われるんだ! お願いだから、追いかけ続けさせてくれ!」
紗奈は嗚咽をもらし、何度も何度も言葉を飲み込みながらも、最後は顔をくしゃくしゃにして口を開いた。
「お願い、私を探して! ずっと待ってるから! ずっとずっとアル君を待ってるから! だから、お願い……私を迎えに来て!」
「ああ、約束だ! 必ず守る! 必ず紗奈を見つけるよ! 必ずだ、絶対に、何があろうとも、紗奈の下へ向かうよ!」
紗奈は頷き、「約束だよ!」と小指を出してきた。
俺も小指を出し、泣いている木葉の頭の上で結んだ。
それと同じくして巨大な隕石は地表に到達し、俺たちは真っ白な炎に包まれた。
体が一つ一つ紐解かれるように崩れていく。それでも必死に紗奈へと手を伸ばした。
お願いね、と涙とともに消えゆく紗奈の口が動いた。
ああ、絶対だ、と俺は声にならない声を上げた。
そうして木葉も周りの人たちも美しい風景も全て消え去り、俺は真っ白な部屋で目覚める。
目の前にはツーブロックヘアの天使が微笑んでおり、「ようやくだな」と語りかけてきた。
「ああ……本当に、ようやくだ。ようやく辿り着くことができた……」
「聞くまでもないことだと思うけど、一応訊いておく。迷いはないな? これから何の手がかりもなく、生き残った人類から記憶を失った一人を探さなくちゃならない。苦難の道のりだ。それでもなお『瑞樹有』として生まれ変わり続けていくんだな?」
「ああ、もちろんだ。約束だからな、必ず見つけるって。その約束がある限り、俺は決して挫けない。何にも負けない。どんな困難も、どんな死も乗り越えられる」
「よかった、それを聞きたかったんだよ。じゃなきゃ神様とバチバチにやりあった甲斐がないからな」
「やりあった? そういえば最近この部屋でしか顔を合わせてなかったけど、一体何をしてたんだ?」
「いい加減、二人を救わせろ。その権限を寄越せって抗議してたのさ。そんで、ようやく得られた。あんたにだけは輪廻のルールの全ての開示と最大限の干渉を許す、ってね。ただし、天使っていう無敵状態のままなのはあまりにもズルいから、受肉して一度人間として生まれて来いってさ。つーことで、これからは双子の兄弟としてあんたと一緒に産まれることになるから。どうぞよろしく」
「兄弟? あ、あぁ、そう……」
「すげえ微妙な反応だな。嫌だった?」
「いや戸惑ってるだけだ。嫌だなんて思うどころか、ここまで尽くしてくれることに感謝している。本当にありがとう」
「感謝は全ての願いが叶った後にしろよ。そんじゃそろそろ現世に行くとしますか」
「あぁちょっと待ってくれ、天使。少し聞きたいことがあるんだが……あの子、木葉はどうなったんだ? あの子は仁太と瑠香の下に帰ることが――」
そこまで言って思い出すことがあった。
「木葉はまだしゃべることもできない年齢だったからな……神様の下へ帰ったのか」
「ああ、うん。それはそうなんだけど、実はその話には続きがあるんだ。今までは話す権限がなかったから教えられなかったんだけど」
「そうなのか。それで、続きっていうのは?」
「生まれることができなかった子、自我が芽生えるまで生きられなかった子どもはな、神様の下へ帰り、『もし生きていたら、こうなっていただろう』という人格を与えられて、二十歳前後の姿を与えられる。それからその子は天使となって自分の親の輪廻の手伝いをするんだ。それが終わったらあんたと同じようにプランを利用して、特別な生を得る。プランの設定によっては改めて両親の下に生まれることもできるのさ」
「そうか、じゃあ今頃木葉は両親に会えて、しかも言葉を交わすことができたのか」
親子であることを知ることなく生まれ変わってしまう仁太と瑠香は苦しむのだろうが、それでも両親と言葉を交わせた木葉にとっては救いになっただろう。俺は目を閉じ天井に顔を上げ、それだけでも救いだ、と大きく息を吐いた。
大きく息を吐いて、吐き切って……それから目を開く。
ゆっくりと視線を下ろしていくと、とても穏やかな表情をした天使が座っていた。
白い部屋の天井と壁が展開し、視界一杯に広がる湖が起き上がって俺たちを飲み込んだ。
俺の体からぽろぽろと記憶の欠片が湧き出す。
そして、天使の体からも記憶の光が湧き出してきた。
「死んだなんて、そんな……アル君との子どもがお腹にいたのに、あぁああぁああっ‼」
「いやだ、いやだぁぁ! 死にたくない、消えたくないよぉ‼」
「何で? どうしてアル君も子どもなの……?」
「アル君? アル君! アル君……! 何で返事してくれないの、アル君……」
「苦しい……何でこんなことに……たくさんの未来があったはずなのに……」
「ねえ、返事してよ……アル君……私だよ、紗奈だよ……アル君……」
「胸が苦しい……諦めたいのに、諦められない……だって愛してるんだもの……想いは消えてないんだもの……」
「……こ、こんにちは、一緒におままごとしてもいいかな? 私、近くに引っ越してきたばかりで、ともだちがいないんだ」
「浩二君……キスしてもいい? これが……私の気持ちだよ」
「何でなの⁉ 取り戻せたと思ったのに、なんで……またアル君が死んで……!」
「どうも……私、津野田珊瑚。私も今回から東研のメンバーだから。その……よろしくね」
「なんでなの……‼ どうしてアル君がこんなにも苦しむの!? 何で毎回死んじゃうの! まさか……記憶保持オプションのデメリットのせい……?」
「また……またアル君が死んじゃった……なんであの日、東道の本社に行っちゃったの……何であんな無残な姿で死ななくちゃならなかったの……」
「分かってる! 私が諦めなきゃアル君はずっと苦しまなくちゃならない! でも……でもどうしたらいいの! どうしたら愛を消し去れるの!? どうしたら消してしまってもいいと思えるの!? ねぇ……何で誰かを想うことが、こんなに罪なの……?」
天使の記憶は紗奈の姿ばかりが映し出されていた。紗奈がぼろぼろになっていく過程、その姿。痛々しい笑顔を浮かべて、記憶を失っている俺に何度も何度も出会ってきた過去だった。
その中に一際大きく光る、真っ白な記憶の欠片があった。
その記憶には誰も映っておらず、ただ天使の声だけが響いていた。
「神様よぉ……おい、聞いてんのかよ、神様よぉ! どこまで弄べば気が済むんだ!? どうして俺の親父とお袋がここまで苦しまなくちゃならねえんだ! なぜ教えちゃならない!? すぐ傍にいるんだよって! 権限がないからか? あぁ!? そういうことなのか!? ならよぉ――」
その記憶の欠片の中に人差し指が突き出された。
そこに居る見えない何者かに、指の主ははっきりと言い切った。
「俺は『永劫プラン』を提言するとともに選択する! 俺ぁ、あんたに未来永劫遣えてやるよ! だから、一度でいいから二人を救う権限を俺に寄越せ!」
天使はその記憶を慌てた様子で掴んでカバンに突っ込み、周りに浮かんでいる記憶の欠片に忙しなく手を伸ばした。
「おいおい呆けてんじゃねえよ! 自分の記憶ぐらい集めろって! じゃないと全部消えて――ん? なんだよ、泣いてんのか?」
「だって……だって、お前にはたくさんの可能性があったんだ! たくさん楽しいことがあったはずで、たくさんの幸せがあったはずで、美味いものをいっぱい食べることができたし、恋をする尊さを知ることができたはずだったんだ! なのに、すまない……俺に力がないせいで、守ってやれなかった! すまない、本当にすまない……!」
「謝罪なんかすんじゃねえよ。逆に言やぁよぉ、『確かにそこには可能性があった』んだぜ? あんたたちは俺の幸せを願ってくれた。可能性を生み出してくれた。俺はそれだけで十分だよ」
ああそうだ、と天使が思い出したように手を叩く。
それから、その顔を笑顔に染め上げた。
それはかつて、俺と紗奈がともに願ったもの――
愛する我が子の満面の笑顔だった。
「これからは天使じゃなくて、『奏』って呼んでくれ。良い名前だろ? 気に入ってんだ」




