エピローグ
エピローグ 西暦三〇二四年 六月八日
昔、いつだったかも思い出せないほど遥か昔に、私はこんなことを言われたことがある。
「この発展と滅亡の時代が生まれたのは、彼が指輪を用意したからだ。だけど始まりは君なんだよ。君という存在がいなかったら、彼は平凡な人生を送っていた。生涯ともに生きたいと思わせた君という存在がいなかったら、あの指輪は存在しえなかった。君こそが始まりで、一番特別な存在だったんだよ。だから、そんな君のために『想い』を残してあげる。君が望むのなら『想い』だけは残してあげるよ」
少女に言われたのだったか……いや、男性の声のようでもあるし老人のしわがれた声だったような気がする。とにかく私は久々に夢の中でその言葉を聞いて目が覚めた。
いつも暗闇に沈んでいる住処のテントの中が煌々と輝いている。天井から下げている電球が点灯していて、「電気が来てる……?」と私は驚きを口にした。
所持しているものの中で一番上等な、しかし擦り切れてしまいそうなほど薄くてぼやけた白色のワンピースに着替えて外に出てみた。
そこはカルミアクレーターと呼ばれる大コロニーの最下層。かつて世界を襲った隕石が降ってきた場所の一つ。広場となっている底には数日前に建てられた黒い塔のような機械がそびえており、最下層民が取り囲んでいた。
「これが熱核融合炉の力か。驚いたなぁ、まさか最下層がこんなに明るくなるなんて」
「ねえ、この機械つけっぱなしでいいの? すぐに電気なくなっちゃうんじゃない?」
「いや、そうはならないらしい。話によると水さえ与えておけば半永久的に動き続けるんだそうだ。しかもその作業もメンテナンスも全部テツヤがやってくれるそうだ」
「え、テツヤってTETSUYA工業? 何それ、何の得があってそんなことしてくれるの?」
「おーい、高橋さん! ほんとに俺ら金取られねえんかぁ? TETSUYAに就職できたあんたなら内情知ってんじゃろ?」
そのように呼びかけられたのは、新品なのが分かるほど角張ったスーツ姿のお爺さん。お爺さんは頬を赤らめ鼻高々に声を張り上げた。
「もちろんだとも、なんたってこれは最新機器だ! スイソなるものを、あー、なんかしてエネルギーを生み出すんだが、そのスイソは、えー、水分をなんか、こう、あれやこれやして手に入るから実質無限だ! ん? 無限って何が無限だっけ……」
「高橋さん……しっかりしろよ、あんたTETSUYAの社員として俺たちを導いてくお役目もらってきたんだろう?」
「とにかく安心せい! TETSUYAの大社長様は全人類を救う聖人だ! すでに百以上のコロニーにこの機械を建て、大都会へと変えてきた! 我々みたいな最下層民を面倒みてくれると約束し、このパンフレットを渡してくださった! ほら、受け取れ受け取れ! 明るい未来が待ってるぞ!」
高橋のお爺さんは湿ったダンボールから見たことのない艶やかな紙束を取り出し、配り始めた。「ほれ、松里ちゃんも! 給与の額みたら目ン玉飛び出るぞ!」と私にも差し出してくる。
受け取った紙は薄過ぎず厚過ぎず、手で摘まんでも皺ができない不思議な硬さだった。二枚折りになっていて、表紙には……どうやって撮影したのだろう? 男の人が手の平を上に向けていて、その手の上に炎が宙に浮かぶような形で映っている。『TETSUYA』の文字と『絶望の過去を乗り越え、希望の未来へ――』という不思議な書体の文章が書かれていた。
開いて見てみると、どうやら求人広告らしい。沢山の人材を求めていることと、多岐に渡る職種が記されていた。見たこともない給与額が書かれており、しかも応募条件は不問とされている。最下層民も応募して良いということだ。私たちを奴隷として働かせるか、解体して臓器を抜き取るための罠でないとしたなら、確かにTETSUYAの社長が聖人として崇められるのも納得できる。
私はパンフレットを眺めながら、沸き立つ広場を後にした。
上層へと続く坂道を登っていき、大クレーターの半分ほどまでくるとTETSUYA工業の人たちが道の舗装工事をしていた。横を通り過ぎるとなだらかなアスファルトとかいう物質の道へと変わる。その階層は私たち最下層民とは一線を画す立派な服を着た者たちで溢れており、私に気づいた人たちは私の姿を見てすぐに目を逸らした。上層民もかつては私たちと同じ境遇で、幸運によって上がって来れた者たちだから、何となく私のような最下層民に対して罪悪感めいたものを抱くのだろう。まあ、いつものことだ。
そんな中、私との関係を大切にしてくれる物好きもいる。
「松里ちゃん、こんにちは。何だか具合悪そうね。また深夜まで内職してたのかい?」
「いえ、高架橋工事が止まったせいで今は何もやることないので、よく眠ってますよ」
「そうかい? それにしては疲れ果てたって顔してるけど……あ、そうだ! これ食べなさい! 八百屋が言うには今日採れたばっかりの新鮮なりんごだって!」
「いいんですか? 高かったでしょうに」
「うちの旦那がTETSUYAに就職できて、今は結構余裕あるのよ。だから気にしないで、受け取って」
私は真っ赤でずしりと重いリンゴを押しつけられ、仕方なく笑顔を浮かべた。それじゃあ、と別れを告げて通り過ぎると、しばらくして最下層でともに生きている男の子が荷台を引いて歩いてくる。「ノコ君、あげる」とりんごを差し出すと、彼は目をひん剝いて言った。
「えぇ、いいの⁉ こんな美味しそうなリンゴ、見たことないよ!」
「私はもう食べてお腹いっぱいだから、君にあげる」
ノコ君は私の顔色を見て少し躊躇っていたようだが、食欲に負けたようだ。「ありがとう松里おねえちゃん!」と言って受け取り、すごい勢いで食べ始めた。
その姿は微笑ましかったが、私の表情筋は微動だにしなかった。そうする気力が出なかったのだ。それでも私は坂を上り、ついにはクレーターの頂上、地球本来の地表へと上り切った。
私が向かったのは、他所のコロニーや地表都市を繋ぐはずだった作りかけの高架橋。私たちの巨大コロニーの上に橋を渡して流通の滞りを改善しようとした東道パーフィニティが作ったもので、しかし陽の光を遮ることにコロニーの住民が抗議をしたことで工事が中止された。その後、唐突に東道パーフィニティがTETSUYA工業に吸収され、跡形もなくなった。そのせいで工事に参加していた私は無職となった。
クレーターの淵からちょっとだけ飛び出した高架橋は町を一望でき、地平線を眺めることもできる絶景ポイントだ。私は工事が止まってから度々ここを訪れ、世界と人々の営みを眺めながら考え事をしていた。
『想い』……あの言葉の意味は何なのだろう。美味しい物を食べたい、高価な物が欲しいという欲? 高橋のお爺さんたちに元気で居て欲しいという気持ち? ノコ君たち親のいない子どもたちの将来を憂うこと?
いや、そうではない、と私はいつも同じ結論に至る。
私は、ずっとずっと前から誰かを待っているのだ。
でもそれが一体誰なのか、私は思い出せない。
顔も名前も忘れてしまって、探しに行くことさえできない。
だからこうして見晴らしの良い場所で過ごしているのかもしれない。もし誰かが私を探していたとしたら、この見晴らしの良い場所なら見つけやすいだろう、と。
その時、風が吹いて私の手の中からパンフレットを奪っていった。あっ、と私は手を伸ばすが、パンフレットは自由な鳥のように羽ばたいて消えていなくなった。
視線の先の茫洋たる空を眺めて、ふと思う。「もう、いいかな」、と。
TETSUYAに就職して、高給を得て、それがなんだというのか。
誰かを待ち続けて生きることに、何の意味があるというのか。
大分前から考えていた。自分の生を閉じることを。それは今日なのかもしれない。全人類の心を魅了する、最も美しい色である群青の空の下。全ての痛みを受け止めんとばかりに浮かぶ雲を眺めながら、永遠の安らぎへ羽ばたくのだ。
ああ、それがいい。
こんな穏やかな日こそ、結末を迎えるに相応しい。
私は目を閉じ、存分に空気を吸い込んだ。自分の心を吐き出すように息を吐いた。
最後の深呼吸はとても心地良く、決意を確かなものに変えてくれた。
私は目を開け、もう一度空を眺め、それから高架橋の先端に視線を向ける。
全て終わらせるため、これ以上苦しくなる前に、この平穏な心模様を世界に刻み込むように、一歩を踏み出した。
そして、私は――
「千年……っ!」
突然左横から声が聞こえて私は飛び上がってしまった。
足腰に力を入れて倒れかけた体を立て直すと、声のする方に視線を向ける。
そこにはツーブロックヘアの若い男がしゃがみ込んでいた。頭をがりがりと掻いて、何か大変なことを乗り切ったかのような苦悶を浮かべていた。
「確かに二人を幸福にしようと決めたのは俺だ。それは間違いねえ。でも千年って……長過ぎんだろ!? まさかこんなに苦労するとは思わねえじゃん! って、文句言っても仕方ねえんだけどさ! いやでもさすがに叫ばさせてもらうわ!」
それから彼は、「ようやくだぜ、いやっほー!」と空に向かって吠えた。
私は何が何だか分からなくて呆けていたのだが、ツーブロックヘアの男はちゃんと私を認識していたらしい。叫び終わると顔を向けてきて、微笑んでみせた。
それから視線を逸らし、橋先の反対側に向ける。
反射的にそちらを向くと、また別の人が道路の真ん中に立っていた。叫んでいた男性と同じく二十代後半に見える。とても仕立ての良いスーツに身を包み、左目は機械仕掛けで、左の袖からは金属の義手が覗いている。
その男性は何か言いたそうに口を開いて、悩むように口を閉ざした。それから考え込むように難しい顔を斜め上方向に曲げ、しばらくすると再び私に顔を向けてきた。
「東道の言う通り、世界の発展が善行ポイントを増やすために必要なファクターだった。不本意ながらあの男を見習ってポイントを増やし、ランクを上げていたんだ。だからこんなに時間がかかってしまった」
「……ごめんなさい、何の話か分からない」
「そう、だよな。いきなりすまない。ちなみに君は俺のことを知っているかな?」
「ええっと……ああ、そうだ。パンフレットの表紙の。それに拾った新聞でも見たことがある。TETSUYA工業の社長さんよね?」
「その通り。隕石災害を回避できる熱核融合炉を完成させた、あのTETSUYA工業の……瑞樹、有だ」
「TETSUYA工業なのに名前は違うのね」
「会社の名前は親友の名前だ」
「どうしてあなたみたいな人がここに? 確か、西欧の生存圏戦争で埋められた地雷を除去するために日本を離れていたと新聞で見たことがあるけれど」
「少し前の話だな。地雷発見機を開発したから、売り込むために自ら実演しに行ったんだ。結果、地雷を踏んで半身が吹っ飛び、こうして体の一部を機械化することになった」
「私が見たのは古い新聞だったみたいね。それで、売れたの?」
「ああ、売れたよ。義手とか義足とか、肉体の機械化技術がね」
瑞樹有と名乗った社長は左手と左足を軽く動かしてみた。とても作りものとは思えないほどの動きで、素直に驚きだった。
「それで、『どうしてここにいるのか』ということだが」
「ええ」
「探しに来たんだ」
「探す? 誰を?」
「とても大切な人だ。魂を捧げられるほどに愛した人だ」
男性は一度大きく深呼吸し、じっと私の目を見つめると、たくさんの感情を包み込むように溜めに溜めて言葉を発した。
「待たせたね、紗奈。来たよ、約束通りに。君を迎えに来たよ」
私は何が何なのか分からなかった。紗奈? 一体誰のことか分からない。
でも、確かにその言葉に心が揺らいだ。
機械音を鳴らしながら近づいてくる男性。私の目の前に立ち、彼は目を潤ませている。
彼のその微笑みに私は足元がおぼつかなくなるほど動揺し、彼から目を離せなくなった。
「私……私、ずっと誰かを待っているの。でも、あなたとは初対面で……なのに……」
「ああ、俺たちは初対面だ。それは間違っていない。でも……」
「でも、あなたなんじゃないかって気がするの。ずっと待っていた人……『想い』が帰る場所は、あなたのもとなんじゃないかって。だけど、どうやって確かめたらいいんだろう……どうしたら、この気持ちの答えが見つかるんだろう……」
きっと男性も答えを持ち合わせていないのだろう。私たちは向き合って言葉に詰まった。
そんな私たちの間にツーブロックヘアの男が立ち、「簡単なことだろうが」と言って両腕を翼のように広げた。
「そんなもんはさ、こうすりゃ一発っしょ!」
ツーブロックヘアの男は広げた両腕を私たちの背に回し、抱き寄せてきた。
体が、重なり合う。
命の鼓動が、私たちの間で響き合う。
「待たせてごめん、紗奈。でもようやく辿り着いた。今度こそ、一緒に生きよう」
瑞樹有は私の耳元で涙混じりに囁き、ぎゅっと抱きしめてきた。
その時、私は彼の中に見た。太陽のような輝きをした魂を。
それは私がずっと待ち続けていたものに違いなかった。しかもその魂は常に付き纏っていた喪失感を消し去るほどの輝きまでも連れて来てくれた。
私は込み上げてくるままに泣き声を上げた。泣き叫んだ。くしゃくしゃな顔になるのも構わず、生まれてきた赤ん坊のように涙を溢れさせて泣き叫んだ。
その泣き声は吹き抜けた風が空の彼方へと運んでいく。少しだけ温もりのある、夏の到来を報せる風だった。
全てが始まったあの日。
祭囃子が響く中、屋台の明りの下で恋を知ったあの時間。
きっとまた、やってくる。あの夏が。
あの宝石のような輝かしい日々が、やってくる。
また、あの夏が――あの煌めく夏が――




