第四話 やっと、言えた
偽装彼女を始めて、二ヶ月が経とうとしていた。
例の先輩は、とっくにサークルを辞めていた。
玲から聞いたのは一週間前のことだ。「先輩、辞めた」と、いつもの短い一言で。そのあとに「もうすぐ終わりにできる」と続いて、私は「そっか、よかった」と返した。
よかった、と思った。
でも正直に言うと、「よかった」だけじゃなかった。
その夜、なかなか眠れなかった。
何かが終わろうとしている。そういう感覚だけが、胸の中でずっと居座っていた。
そして今日、玲から「話がある」というメッセージが届いた。
場所は、キャンパスの端にある小さなカフェだった。授業終わりの夕方で、店内はほどほどに静かだった。
私が入ると、玲はもう窓際の席に座っていた。
今日はいつもより少しだけ表情が固い気がした。コーヒーに手をつけずに、ただじっと窓の外を見ていた。
「お待たせ」
「うん」
向かいに座る。玲がこちらを向いた。
なんか、いつもと違う。
うまく言えないけど、ちゃんと伝わってくるものがあった。今日は何かが起きる、という感じ。
「注文しなくていいの?」
「あとでいい」
「そっか」
玲は少し間を置いてから、口を開いた。
「先輩のこと、もう大丈夫だと思う」
来た。
わかってたけど、いざ言葉で聞くと、胸のあたりがぎゅっとなった。
「そっか」
「サークルも辞めて、学部も違う。もう接触してくることはないと思う」
「うん」
「だから」
玲は一度だけ、小さく息を吸った。
「ありがとう。助かった。もう大丈夫だから、終わりにしよう」
終わりにしよう。
その言葉が、思ったより重くて、私はしばらく何も言えなかった。
玲は窓の方に視線を戻した。外はもう薄暗くなっていて、街灯がぽつぽつとついている。
終わりにしよう、か。
わかってた。最初から、そういう話だった。偽装で、二ヶ月で、ちゃんと終わりがある話だった。
私はそれを全部知っていた。
知っていたのに。
「……それで終わりって」
声が出た。
自分でも、出るとは思っていなかった。
玲がこちらを向いた。
「それで終わりって、やだ」
言ってしまった。
頭が真っ白になった。なんで言ったんだろう。でも出てしまったものは戻らない。玲が私を見ている。真剣な顔で、じっと。
「……陽菜」
「ごめん、忘れて。なんか変なこと言った」
「変じゃない」
「いや変だよ、偽装なんだから終わるのは当たり前で」
「陽菜」
玲が静かに遮った。
それだけで、口が止まった。
玲は少しだけ、口の端を上げた。
声には出さない。目の端だけが細くなる。でも確かに笑っていた。
「やっと言った」
低い声で、静かにそう言った。
「……え?」
「ずっと待ってた」
意味がわからなかった。
私は玲の顔を見た。いつも掴みどころのない、クールな顔。でも今は何かが違う。何かが滲んでいる。
「待ってた、って、何を」
「陽菜がそれを言うのを」
「なんで待って……」
「好きだから」
静かに、でもはっきり言った。
カフェの中のBGMが遠くなった気がした。
周りの声も、食器の音も、全部遠ざかって、玲の声だけが頭に残っていた。
「……え」
「最初から。ずっと」
玲は窓の外に視線を移した。外を見ながら、続けた。
「偽装彼女を頼んだのは、本当に先輩がしつこかったから。それは本当のこと。でも、陽菜に頼んだのは、それだけじゃなかった」
私は何も言えなかった。
「近くにいる理由が欲しかった。手を繋ぐ理由が。一緒に歩く理由が。陽菜の隣にいていい理由が、ちゃんとほしかった」
玲の横顔が、街灯の光でぼんやりと照らされていた。
「作戦だった。陽菜を本気にさせるための」
作戦。
その言葉を飲み込むのに、少し時間がかかった。
二ヶ月間。手を繋いで歩いて、写真を撮って、ケーキを食べさせてもらって。全部、玲が仕組んでいたことだったのか。
「……ずるい」
思ったことが、また口から出た。
玲がこちらを向いた。
「ずるいよ、そんなの。作戦とか言って、私が本気になったら」
「知ってた」
「知ってたって、」
「陽菜が本気になってるの、気づいてた」
言い返せなかった。
そりゃそうだ。わかりやすかっただろう。手を繋ぐたびにぎこちなくなって、写真撮るたびに顔が赤くなって。あんなに丸わかりな態度を取っていたんだから。
「じゃあなんでもっと早く言わなかったの」
「陽菜から言ってほしかった」
「なんで」
「自分の気持ちをちゃんと言える人になってほしかったから」
玲はまっすぐ私を見た。
「陽菜は押しに弱いから。私が言えば、流されて頷く可能性がある。それは嫌だった」
私はしばらく黙っていた。
確かに、と思った。玲が「好きだから付き合って」と言ったら、たぶん断れなかった。押しに弱いのは本当のことだから。
でも、それは。
「……じゃあ、今は?」
玲が少しだけ目を細めた。
「今の陽菜は、流されてるの?」
私は自分の胸の中を確認した。
二ヶ月間。毎日のように隣にいて、毎日のように意識して、眠れなかった夜があって、帰り道にずっと考えて。
流されて、じゃなかった。
ちゃんと、自分の中で積み上がっていた。
「流されてない」
声がかすかに震えたけど、ちゃんと言えた。
「玲のことが好き。これは、自分でそう思ってる」
玲は少し間を置いてから、静かに言った。
「よかった」
「……よかった、じゃないよ。こっちはずっとわけわかんなかったんだから」
「ごめん」
「ほんとに反省してる?」
「してる」
「そう見えないんだけど」
「してる」
玲が少しだけ笑った。今度は声に出して、わずかに。
その顔を見たら、さっきまでの複雑な気持ちが少しだけ薄れた。
ずるいな、と思った。笑うと全部許せてしまう気がする。
「……作戦、成功だったね」
私は苦笑しながら言った。
「陽菜が言ってくれたから」
「私が言わなかったら、どうするつもりだったの」
玲は少し考えてから言った。
「もう少し待って、それでも言わないなら、こっちから言うつもりだった」
「結局言うんじゃん」
「期限は決めてた」
「何ヶ月?」
「三ヶ月」
「あと一ヶ月あったじゃない」
「陽菜が早かった」
なんか悔しいような照れくさいような気持ちになって、私は窓の外を向いた。
外はすっかり暗くなっていた。街灯と窓の灯りがあちこちに見えて、夜の街が静かに動いている。
「玲」
「なに」
「その、さ。作戦はもう終わりでいいから」
「うん」
「ちゃんと、普通に。好きって言って」
玲が少し黙った。
私は正面を向いたまま、少しだけ耳が熱くなるのを感じながら待った。
玲の椅子が、わずかに動く音がした。
「陽菜」
「なに」
「好き」
低くて静かな声だった。
飾りも何もない、まっすぐな言葉だった。
私は玲の顔を見た。
玲は少しだけ頬が赤かった。こいつが赤くなるところを、初めて見た気がする。
「……私も、好き」
言ったら、少し泣きそうになって、でも泣くのは違うと思って、ぎゅっとこらえた。
玲が静かに手を差し出してきた。
テーブルの上に、広げて。
私はその手を、ゆっくりと握った。
ひんやりしてない。
最初からあたたかかった。
「……玲ってさ」
「なに」
「手、冷たくなくなったよね。最初の頃と違う」
「緊張してたから」
「え、最初の頃、緊張してたの?」
「してた」
なんだよ、と思った。
あんなに自然な顔して手を繋いでたくせに、緊張していたのか。
「陽菜だって、ひどいぎこちなさだった」
「それは言わないで」
「かわいかった」
「絶対言わないで」
玲がまた笑った。今度は少しだけ声が出る笑い方だった。
私もつられて笑った。
繋いだ手は、もう偽装じゃなかった。
お互い、それをちゃんとわかっていた。




