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最終話 本物の、はじまり

 翌朝、目が覚めたとき、最初に思ったのは「あれは夢じゃないよな」ということだった。


 天井を見ながら昨日のことを順番に思い出す。カフェ、玲の告白、繋いだ手、好きって言ったこと。全部ちゃんと覚えていた。夢じゃない。現実だ。


 そう確認してから、一人で布団の中で転がった。


 恥ずかしい。


 終わりにしようって言われて「やだ」って言ってしまったやつ、私だ。玲に「やっと言った」って笑われたやつ、私だ。作戦にまんまとはまって、二ヶ月間ひとりでずっともやもやしていたやつ、全部私だ。


 顔を枕に押し付けたまま、しばらくそのままでいた。


 でも、なんか、嬉しかった。


 ちゃんと嬉しかった。


 起き上がってスマホを見ると、玲からメッセージが来ていた。


『おはよう』


 短い。いつも通り短い。でも今日は少し違う意味がある気がして、私はしばらくその二文字を見つめた。


『おはよう』


 送り返してから、また布団に倒れ込んだ。


 付き合い始めた翌朝の「おはよう」って、こんなに重さが違うものなのか。


 恋愛経験が少ないから知らなかった。


 大学に着くと、玲はいつもの場所で待っていた。


 桜並木の端。最初に「偽装彼女になってほしい」と言われた、あの広場だ。


「おはよう」

「おはよう」


 顔を合わせた瞬間、お互いに少しだけ間があった。


 なんか、変な感じだ。二ヶ月間ほぼ毎日会っていたのに、今日だけ空気が違う。玲も少し、いつもより表情が読めない。


「……緊張してる?」


 私が聞いたら、玲は少し視線を外した。


「少し」

「玲が緊張するんだ」

「陽菜は?」

「かなり」


 玲が少しだけ笑った。それで少し緊張が解けた。


「行こう」

「うん」


 並んで歩き始めると、玲がさっと手を伸ばしてきた。


 指を絡めて、ちゃんと握る。


 偽装じゃない。理由も言い訳もない。ただ繋ぎたいから繋ぐ、それだけの手だ。


 それだけのことなのに、なんか胸が詰まった。


「玲」

「なに」

「これ、偽装じゃないやつだよね」

「そう」

「よかった」


 玲が少しだけ手に力を込めた。


 それだけで、全部伝わった気がした。


 昼休みになると、山田さんが猛スピードで走ってきた。


「朝倉さん! 聞いたんだけど!!」


 声がでかい。今日も変わらない。


「何を」

「神崎さんと、本当に付き合ったって! どういうこと!? 偽装って言ってなかった!?」


 あ、バレた。


 玲が隣でさらっと言った。


「本物になった」

「いつ!?」

「昨日」

「早!!」


 山田さんが私と玲を交互に見て、それから手を叩いた。


「でも、なんかわかる気がするんだよね。二人、最初から普通に本物っぽかったもん」

「偽装だったんだけど」

「え~でも手の繋ぎ方とかさ、そういう雰囲気じゃなかったよ?」


 私は玲の顔を見た。玲は窓の外を向いていた。耳が少し赤い。


 へえ。


 耳が赤くなるんだ、玲って。


「なんで笑ってるの」


 玲が気づいて聞いてきた。


「笑ってない」

「笑ってた」

「笑ってない」


 山田さんが「もう完全にカップルじゃん」と呟いて、遠い目をしていた。


 その日の授業が終わった後、私と玲は大学の近くを散歩した。


 特に目的があったわけじゃない。ただ、もう少し一緒にいたかった。それだけだ。


 駅の方とは逆方向に歩いていくと、小さな公園があった。ベンチが並んでいて、桜の木が何本かある。花はもう散ってしまっていたけど、新緑がきれいだった。


 ベンチに並んで座った。


 玲が静かに空を見ていた。私もつられて見上げると、夕方の空がオレンジと青の境目になっていた。


「玲」

「なに」

「最初から好きだったって言ってたけど、いつから?」


 玲は少し間を置いた。


「高校のとき」

「そんな前から」

「文化祭の準備してたとき、陽菜が段ボール箱を一人で運ぼうとして転んだ」

「覚えてる、それ。恥ずかしかった」

「そのとき、なんか、そういう顔が好きだなと思った」

「転んだ顔が?」

「必死な顔が。かわいいと思った」


 転んだ顔をかわいいと思われていたのか、と思って、微妙な気持ちになった。でも同時に、玲がそんな昔から気づいていたことが、なんかじわっとした。


「なんで言わなかったの、そのとき」

「言えなかった。幼馴染だったから、壊したくなかった」

「それで偽装作戦を考えたの」

「まあ、そう」

「時間かかりすぎでしょ」

「うん」


 玲はあっさり認めた。


「……でも、よかった」

「え?」

「時間かかったけど、ちゃんと陽菜が自分で言ってくれたから」


 夕日が玲の横顔に当たっていた。


 きれいだな、と思った。


 きれいだと思ったことは昔からあったけど、今日のそれは少し質が違う気がした。自分にとって特別な人の顔を見ている、という感覚。


「陽菜」

「なに」

「今、どんな顔してる?」

「え、」

「赤い」

「見なくていい」

「かわいい」

「だから見なくていいって」


 玲がくすっと笑った。声が出る笑い方だ。最近、こういう笑い方が増えた気がする。


「ねえ、玲ってさ」

「なに」

「私が知らなかっただけで、実はずっといろいろ考えてたんだね」

「そう」

「全然わからなかった」

「わかられると困る」

「なんで」

「恥ずかしいから」


 玲が少しだけ顔を伏せた。


 あの神崎玲が「恥ずかしい」と言っている。二ヶ月前には想像もしなかった光景だ。


「玲って、恥ずかしがるんだ」

「陽菜の前では」

「私の前だけ?」

「陽菜が好きだから」


 さらっと言い切った。


 こいつは好きとか、かわいいとか、そういう言葉を本当に迷わず言う。照れながら言うくせに、ちゃんと言う。


 私はその言葉を受け取るたびに毎回心臓が跳ねるから、もう少し心の準備をさせてほしい。


「……陽菜」

「なに」

「手」


 玲が横にそっと手を開いた。


 私はその手を握った。


 もう迷わずに。


 あたたかい手だった。最初からずっと。


「玲、昔から手あたたかかったよね」

「うん」

「最初ひんやりしてるって思ったんだけど、すぐあたたかくなった」

「緊張してたから最初だけ冷たかった」

「二ヶ月間、ずっと緊張してたの?」

「最初だけ。あとは陽菜に慣れた」

「慣れたんだ」

「慣れたくなかったけど」


 慣れたくなかった、か。


「なんで」

「ドキドキしてたかったから」


 恥ずかしいことを、本当にさらっと言う。


 私はしばらく返事ができなかった。


 夕日がどんどん沈んでいく。オレンジが濃くなって、空の端から紫が滲んできた。


「ねえ玲」

「なに」

「これからもドキドキさせてあげる」


 言ってから、自分で言ったことが恥ずかしくなった。なんだその台詞。


 でも玲が少し固まったのが気配でわかって、私は少しだけ得意な気持ちになった。


「……陽菜」

「なに」

「今のは、ずるい」

「玲だっていつもずるいから」

「そうだけど」

「おあいこ」


 玲が少しだけ笑って、私の肩に頭をもたせかけてきた。


 静かだった。


 風が吹いて、木の葉が揺れた。


 公園に私たちしかいなくて、遠くに街の音が聞こえるだけで、それ以外は何もなかった。


 偽装じゃない。作戦でも、演技でも、理由をつけた何かでもない。


 ただ、好きな人の隣にいる。


 そういう、普通のことだった。


「玲」

「なに」

「幸せだな」


 玲は少し間を置いてから、ぽつりと言った。


「私も」


 その一言が、二文字だけが、なんか全部を表していた。


 空は完全に夕暮れになっていた。


 私たちはしばらく、そのまま並んで座っていた。どちらも立ち上がろうとしなかった。


 もう少しだけ、この時間が続いてほしかった。


 嘘から始まって、気づいたら本物になっていた恋の話。


 終わりは、はじまりだった。

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