第三話 演技が、崩れる夜
偽装彼女を始めて、三週間が経った。
気づいたら、私たちの「カップル」はキャンパス内でわりと定着していた。
廊下を歩けば「あ、神崎さんのカノジョだ」という視線が来る。食堂で隣に座れば誰も不思議に思わない。玲がゼミの子に「朝倉と付き合って半年」と言って回ったのが効いているのか、最近は「いつから?」という質問すら来なくなった。
偽装としては大成功だと思う。
問題は、私の心臓の方だった。
なんか、落ち着かない。
玲が隣にいるだけで意識する。手が触れると心拍数が上がる。あの笑った顔を思い出すと、集中できない。
これ、どういう状態なんだろう。
友達として心配しているだけ? それにしては過剰な気がする。幼馴染として特別に思っているだけ? それも違う気がする。
でも、じゃあ何なのかと聞かれると、まだちゃんと答えが出なかった。
そんなことを考えていた、ある土曜日の午後。
玲からメッセージが届いた。
『今日、時間ある?』
特に予定はない。
『あるけど、どした?』
『先輩がいるかもしれない場所に行く用事ができた。一緒に来てほしい』
なるほど。偽装彼女としてのお仕事だ。
『いいよ、どこ?』
待ち合わせ場所は、駅近くのショッピングモールだった。
行ってみると、玲はもうエントランスの前に立っていた。
今日は大学でよく見る白いブラウスじゃなくて、淡いベージュのニットを着ていた。それだけで少し雰囲気が違う。なんか、普段より柔らかい感じがした。
「待った?」
「三分」
「ごめん」
「いい」
この会話も、もう定型文みたいになってきた。
モールに入ると、平日と違って人が多かった。家族連れやカップルが多くて、なんか二人で歩いていると自然とそういう空気に引っ張られる気がした。
「先輩、ここに来るの?」
「近くに住んでるって聞いたから、可能性がある」
「なるほど」
玲は少し周囲を見回してから、静かに私の腕を取った。腕を組む形になる。
「……玲」
「自然に」
「わ、わかってる」
腕を組んで歩くのは、手を繋ぐのとまた少し違う感覚だった。距離が近くて、玲の体温が伝わってくる。ニット越しでも、あたたかい。
ぐるっと一階を回りながら、玲の目的の雑貨屋に入った。インテリア系のお店で、玲は棚を眺めながら
いくつかの小物を手に取った。
「部屋に飾るの?」
「うん、棚に置くものが欲しくて」
「玲って、部屋の飾りにこだわるんだね」
「陽菜はこだわらないの?」
「あんまり。参考書が積んであるのが普通の状態になってる」
「片付けて」
「いや片付けてるけど、また積まれるんだよ……」
玲が棚の小物と私を交互に見比べながら、静かに言った。
「これ、どう思う?」
差し出してきたのは、小さなガラスの置き物だった。透明で、中に小さな花が封入されている。
「きれいだね」
「陽菜がそういうの好きかなと思って」
「え、私に?」
「いや、参考にしてる」
私の好みを参考に部屋を飾る、ということなのだろうか。なんかちょっと変な感じがした。
「私の趣味、合わないんじゃない?」
「合う」
玲はあっさりそう言って、その置き物をかごに入れた。
見ていて、なんか、むず痒くなった。
会計を終えてモールを出ると、先輩には結局会わなかった。
「今日は来てなかったかな」
「そうかもしれない。でも、来てた可能性はあった」
「それはそうだけど」
夕方になって、少し空気が冷えてきた。
「何か食べて帰る?」
玲が聞いてきた。
「え、いいの?」
「せっかく来てもらったから」
偽装彼女へのお礼、ということか。なんか律儀だな、と思いながら、私はうなずいた。
モールの中のカフェに入った。窓際の二人席で向かい合って座る。外は少しずつ暗くなってきていて、街の灯りがぽつぽつとつき始めていた。
飲み物とケーキを注文してから、玲が静かに言った。
「最近、疲れてない?」
「え?」
「偽装。負担になってないかなと思って」
玲がそういうことを直接聞いてくるのは珍しかった。
「疲れてないよ。楽しいくらい」
「そう」
「玲の方こそ、大丈夫なの? 先輩の件とか」
「今は落ち着いてる。陽菜のおかげで」
低い声で、さらっと言う。
またそういう言い方をする。褒め慣れているのか、それとも本当に思ったことをそのまま言うのか。玲のことはずっと知っているつもりなのに、たまに読めない。
ケーキが運ばれてきた。チョコレートケーキを頼んだら、玲はチーズケーキだった。
「一口もらっていい?」
「どうぞ」
玲がフォークを差し出してきた。
「え、食べさせてくれるの?」
「いつもそうするんじゃないの、カップルって」
「偽装だけど」
「練習」
練習って何の。
でも玲がそのまま待っているから、私は少しだけ身を乗り出してフォークを口に入れた。
チーズケーキだった。おいしかった。
「おいしい」
「よかった」
玲は少し満足そうな顔をした。
私はなんか変な感じになって、自分のケーキに集中することにした。
窓の外がすっかり暗くなった頃、玲が言った。
「陽菜、聞いていい?」
「なに」
「偽装だって、わかっててくれてるよね」
急な質問だった。
私は少し間を置いてから、答えた。
「わかってるよ。なんで急に」
「最近、陽菜がどこか遠くを見てるなと思うことがあったから」
どこか遠くを見てる。
私のことを、そんなふうに見ていたんだ。
「そんなことないよ」
「そう」
「玲の方こそ、最近なんか、変じゃない?」
「どこが」
「手を繋ぐとき、最初より迷わなくなった気がする。腕を組むのも自然になってきてるし」
「それはそういうものじゃないの。慣れ」
「慣れか」
「うん」
玲はコーヒーを一口飲んで、窓の外を見た。
「陽菜は慣れてないの?」
逆に聞いてくるな。
「……慣れてるよ」
慣れてないけど、慣れてると言った。
なんで嘘をついたんだろう、と思った。
外に出ると、夜風が冷たかった。
並んで駅に向かって歩く。人通りが少なくなった道で、玲がまた隣に来た。
「さっきの質問、ごめん」
「なんで謝るの」
「変なこと聞いたから」
「変じゃないよ」
私は少し考えてから、続けた。
「ちゃんとわかってる。これは偽装で、玲が困ってるから手伝ってる。それだけ」
玲は少しだけ立ち止まった。
私も合わせて立ち止まる。
「それだけ、か」
玲が呟いた。
「え?」
「なんでもない」
玲はまた歩き始めた。
私もついて歩きながら、今の言葉が気になった。
「それだけ、か」って、どういう意味だろう。
追いかけて聞こうとしたとき、玲が先に言った。
「駅、着いた」
改札前で立ち止まる。
いつもの別れ際だ。でも今日は何か違う感じがして、私は玲を引き止めた。
「玲」
「なに」
「……さっきの、なんでもないって言ったやつ、本当になんでもないの?」
玲はしばらく私を見ていた。
街灯の明かりの中で、玲の顔がいつもより少しだけはっきり見えた。
クールで、きれいで、でもたまに何かを隠しているような。
「なんでもない」
もう一度、そう言った。
「……そっか」
私はうなずいた。
うなずきながら、なんか、全然納得していなかった。
「また来週」
「うん、また来週」
玲が改札に消えていく。
私はしばらくその場に立っていた。
今日一日を振り返る。腕を組んで歩いて、ケーキを食べさせてもらって、夜の街を並んで歩いて。
全部、偽装のためだった。
全部、ちゃんと理由があった。
なのに帰り道、電車の中でずっと考えてしまった。
玲が「それだけ、か」と呟いたときの声のトーン。
あれは、どういう意味だったんだろう。
寂しそうに聞こえたのは、気のせいだろうか。
それとも、私がそう聞こえてほしかっただけだろうか。
どちらかわからないまま、電車は駅を越えていった。
窓に映る自分の顔が、なんか情けなくて、私は少しだけ笑った。
幼馴染の偽装彼女をやっていたら、いつの間にか本気で意識している。
そういうことなのかもしれない。
認めたくないけど、もうそれしかない気がしていた。




