第二話 近づきすぎる距離
偽装彼女を始めて、一週間が経った。
思っていたより、ずっとうまくいっていた。
玲がSNSに写真を上げた翌日から、学科内での認識はあっという間に広まった。「神崎玲には彼女がいる」という事実は、羽が生えたみたいに伝わっていって、例の先輩からの連絡はぱったりと止まったらしい。玲は「効果があった」と一言だけ言って、それ以上は何も語らなかった。
問題があるとすれば。
玲が、やたらと距離を詰めてくることだった。
「陽菜」
図書館の自習スペースで参考書を広げていたら、隣の椅子が引かれた。
玲だった。
当たり前みたいに座って、当たり前みたいに荷物を置いて、当たり前みたいに私の方に体を傾ける。
「……玲、ここ図書館なんだけど」
「知ってる」
「なんでいるの」
「課題」
玲はそう言って自分の教科書を開いた。
確かに課題なんだろう。でもキャンパスの図書館は広い。席も余っている。わざわざ私の隣に来る必要はないはずなのに、玲はこの一週間、なぜかいつもそこにいた。
昼は隣を歩く。授業の前には連絡が来る。空き時間が被ると自然と合流する。それ自体は以前からそんなに変わらないのかもしれないけど、何かが違う。何かが、少しずつ変わってきている気がする。
その「何か」を言語化できないまま、私はまた参考書に目を落とした。
三十分ほど経ったとき、玲がこちらに顔を向けた。
「見せて」
「何を」
「その問題」
玲は私のノートを指差した。英語の課題で詰まっていたところだ。正直うれしいような、でも悔しいような気持ちで、ノートを少しだけ傾けた。
玲が少し身を乗り出してのぞき込んでくる。距離が近い。いい匂いがした。シャンプーか何かかな、とぼんやりと思いながら、私は無駄に姿勢を正した。
「ここ、接続詞の使い方が違う」
「あ、そっか」
「こっちの方がいい」
玲がシャーペンを持って、私のノートの余白にさらっと正しい文を書いてくれた。字が綺麗だな、と思った。昔から玲の字は綺麗だった。
「ありがとう」
「うん」
玲は何事もなかったように自分の教科書に戻った。
私も参考書に戻ろうとして、できなかった。
玲の書いた字がノートに残っているのを見て、なんだか落ち着かない気持ちになっていた。
おかしいな。こういうの、前もあったはずなのに。
深呼吸して、私は問題の続きを解き始めた。
その日の夕方、一緒に帰ることになった。
キャンパスを出て、駅までの道を並んで歩く。夕方の風は昼より冷たくて、私はコートのボタンを一つ閉め直した。
「寒い?」
玲が聞いてきた。
「ちょっとね」
「そう」
玲は少し歩くペースを緩めて、私の隣に合わせてきた。それだけのことなのに、なんか意識してしまう。
「ねえ、玲」
「なに」
「そのしつこい先輩、最近は本当に来なくなったの?」
「来なくなった。昨日、サークルで顔を合わせたけど普通に無視された」
「それは……よかったのかな」
「よかった」
玲は短く言い切った。
「じゃあ、もうすぐ終わりかな、偽装」
「まだわからない。油断しない方がいい」
「そっか」
そっか、と言いながら、終わりを聞いてほっとすればよかったのに、なんかそうじゃない感情が出てきてしまって、私は少し口を閉じた。
玲が何も言わずに横を歩いている。
信号で止まったとき、玲がすっと手を差し出してきた。
「……手、繋いでいい?」
「え、今、誰も見てないけど」
「見てるかもしれない」
それはそうかもしれないけど。
私は少し迷ってから、その手を取った。ひんやりとした感触。もう慣れてきたつもりだったのに、触れた瞬間に心拍数が上がった。なんで。なんでこうなる。
信号が青になった。
二人で渡りながら、玲が少しだけ指を絡めてきた。
「……玲」
「なに」
「手の繋ぎ方、そこまで細かくしなくていいんじゃないかな……」
「自然に見える方がいい」
「そ、そう」
自然に見えるかどうかはともかく、私の心臓の方は全然自然じゃなかった。
玲の手は最初ひんやりしていたのに、少しずつあたたかくなってきた。体温が移るんだな、とどうでもいいことを考えながら、私は前だけを見て歩いた。
駅についてから、玲が改札前で立ち止まった。
「写真撮っていい?」
「また?」
「たまに上げた方がリアルに見える」
確かに。一枚だけ上げて終わりじゃ不自然かもしれない。
「……わかった」
玲がスマホを出した。私の横に並んで、画面に向かって軽く微笑む。私も笑おうとしたけど、なんかぎこちない気がして、苦笑いみたいになった。
「もう一枚」
「え」
「笑ってて」
「笑ってるよ」
「そういう笑顔じゃない」
そういう笑顔って何。
玲は少し私の方を向いて、低い声で言った。
「さっき図書館で英語教えたとき、そういう顔してた」
そんな顔してたの、私。
なんか恥ずかしくなって、思わず笑ったら、シャッター音がした。
「これがいい」
画面を見せてきた。私が笑っていて、玲が少しだけ私の方を見ている写真だった。
「……玲、これ、カメラこっち向けながら私のこと見てたの?」
「そう」
「それで写真撮れるの」
「練習してた」
「いつ!?」
玲はスマホをしまいながら、さらっと答えた。
「陽菜の顔が一番いいから」
また、さらっと言う。
私は返事をできないまま、少しだけ違う方向を向いた。頬があつい。これは別に、特別な意味はない。幼馴染として、そういうことを言う子なんだろう。たぶん。きっと。
「じゃあ、また明日」
玲が改札に向かって歩き始めた。
「……うん、また明日」
私は玲の後ろ姿を見送ってから、自分の改札に向かった。
電車の中で、さっきの写真のことを思い出した。
玲が私の方を向いている写真。
普通のカップルのツーショットだった。演技として、自然に見えるために撮った写真。それだけのこと。
そう、それだけのこと。
わかってる。
でも、なんで、あの顔が頭から消えないんだろう。
私は吊り革を握りながら、窓の外に流れる景色を見ていた。
翌週。
授業の合間に玲からメッセージが来た。
『今日、学食じゃなくて外で食べない?』
『あの先輩も来るかもしれないから、一緒にいた方がいい』
なるほど、確かに。
『いいよ、どこ?』
『駅前のパスタ屋。十二時半』
指定が早い。もう決めてたんだ、と思いながら私は承諾した。
待ち合わせ場所に行くと、玲はもう来ていた。
建物の壁にもたれて、静かにスマホを見ている。
長い髪が風で少し揺れて、日差しの中で玲はやっぱりきれいだと思った。こいつが幼馴染じゃなかったら、圧倒されて近づけなかったかもしれない。
「待った?」
「五分」
「ごめん」
「いい」
二人で並んでパスタ屋に入った。ランチの時間帯で混んでいたけど、二人席が一つだけ空いていた。向かい合って座る。
注文を終えてから、玲が静かに切り出した。
「今日、ゼミの子に聞かれた」
「何を」
「陽菜と付き合ってどのくらいになるかって」
「え、なんて答えたの」
「半年くらいって言った」
半年。つまり昨年の秋から付き合っていることになっている。
「……設定、細かくなってきてるね」
「辻褄を合わせた方がいい。何か聞かれたとき答えられるように」
「確かに。他に何か決めた方がいいことある?」
玲はしばらく考えてから言った。
「どっちが告白したか」
「どっちが……」
「そういうこと聞く人が多い」
それは確かに。山田さんにも聞かれた。
「じゃあ、玲からってことにしとこう。玲の方が積極的そうって思われてそうだし」
玲は少し間を置いた。
「……それでいい」
「なんか不満そう」
「不満じゃない」
「本当に?」
「本当に」
玲は窓の外に目を向けた。
横顔がきれいだな、とまた思って、私は慌てて視線を戻した。
これはただの偽装だ。二ヶ月で終わる話だ。
なのに最近、玲を見るたびに心拍数が少し上がるのはどういうことなのだろう。
料理が来た。私はフォークを手に取りながら、さりげなく聞いた。
「ねえ、玲って今まで付き合ったことある?」
「ない」
即答だった。
「そうなんだ。意外」
「なんで」
「なんかモテそうだから」
「モテることと付き合うことは別」
それはそうだ。
「陽菜は?」
「ない。全然」
「そう」
玲は少し口元を動かした。声は出さない、目の端だけが少し笑う感じ。
「なんで笑うの」
「笑ってない」
「笑ってたよ絶対」
「笑ってない」
この繰り返しを何度やったかわからない。昔からこうだ。言い張るのが得意なやつ。
でも、その笑った顔がずっと頭に残る。
ランチを食べ終わって、外に出ると玲がまた隣に並んだ。
校舎に戻る途中、人が多い場所に差しかかったとき、玲がさっと私の手を取った。今度は何も言わずに。
もう慣れた動作みたいに。
私は何も言わなかった。
言葉にすると意識してしまうから。
手を繋いで歩きながら、ふと気づいた。
玲の体温が、最初から少し高かった。
ひんやりしてない。
さっきから、ずっと。
それを言おうとして、やめた。
なんか、言いたくない気持ちがあった。
これが何なのかはまだわからない。
でも、一週間前より確実に何かが変わってきているのを、私は感じていた。




