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第一話 嘘のはじまりは、突然に

 四月のキャンパスは、なんだかいつもより明るく見える。

 

 桜がまだ散りきっていない並木道。新入生らしい子たちが地図を片手にうろうろしていて、私みたいな二年生は「あー去年の自分みたいだな」と少しだけ懐かしい気持ちになる。


 私、朝倉陽菜は一限の講義を終えて、財布の中身と相談しながら食堂に向かおうとしていた。今朝寝坊したせいで朝ごはんを抜いてしまって、お腹がじわじわと自己主張を始めている。


 さて、今日のランチは何にしようか。


 日替わり定食がいいかな。いや、でも昨日も定食だったし、たまにはうどんでもいいかもしれない。そんなどうでもいいことを考えながら歩いていたとき、


「陽菜」


 背後から声がかかった。


 低くて静かな声。聞き間違えようがない。


 振り返ると、神崎玲が立っていた。


 長い黒髪がさらっと風に揺れて、白いブラウスが春の光に映えている。背が高くてスタイルがよくて、顔も整っていて。正直に言うと、こいつが廊下を歩いているだけで周囲の視線が集まる。どこか遠い世界の人みたいに見えるのに、中身を知っている私からすると「あー玲だ」で終わるのが不思議といえば不思議だ。


「玲、おはよう。授業は?」

「終わった」


 短い。相変わらず短い。


 玲とは幼馴染だ。物心ついたときから隣にいて、小学校から高校まで同じで、なんとなく同じ大学を受けたら二人ともあっさり受かった。今は学部が違うから一緒にいる時間は昔より減ったけど、それでもキャンパスで顔を合わせれば自然と隣を歩く。そういう関係だ。


「ちょっといい?」

「……うん、いいけど」


 玲の声がわずかにトーンを落とした気がして、私は少し身構えた。


 玲はゆっくり周囲を見回してから、私の手首をそっと掴んだ。


「え、どこ行くの」

「人が少ないとこ」


 引っ張られるままついていくと、並木道の端の方にある小さな広場に出た。ベンチが一脚だけ置いてある、わりと静かな場所だ。日当たりが良くて、私はたまにここでひとりで本を読む。


 玲はベンチには座らなかった。私の正面に立って、まっすぐ目を合わせてきた。


 こいつがこういう顔をするときは、本気のときだ。


「陽菜。お願いがある」

「……なに」

「私の彼女のフリ、してくれない?」


 五秒、止まった。


 いや、もっとかもしれない。


「……は?」

「偽装彼女。カップルのふりをしてほしい」


 真剣な顔だった。冗談を言っているときの顔じゃない。そもそも玲が冗談を言っているところをあまり見たことがない。


「なんで突然そんな話に」

「しつこい男がいる」


 一言で全部を言い表すような答えだった。


 玲が同じサークルの先輩に目をつけられているという話は、半年くらい前から耳に入っていた。何度断っても連絡してくるとか、帰り道で待ち伏せしているとか。そういうことが続いているらしいとは聞いていたけど、それがここまで深刻になっていたとは。


「ちゃんと断ってるの?」

「何度も」

「学校の相談室とか、先生には言った?」

「言った。でも、決定的な証拠がないと動けないって」


 玲は少しだけ眉根を寄せた。普段の無表情とは違う、珍しい顔だ。


「だから、彼女がいるって思わせたい。それで諦めてくれれば一番いい」


 なるほど。


 つまり、玲には既に彼女がいる、という既成事実を周囲に広めることで、その男の目をあきらめさせたいわけだ。


「……私じゃなくてもよくない?」

「陽菜がいい」


 間を置かずに返ってきた。


「なんで」

「幼馴染だから自然だし、信用できる。それに」


 玲は一瞬だけ視線を外してから、また私の目を見た。


「頼める相手が陽菜しかいない」


 そう言われると、断れなくなるじゃないか。


 押しに弱いのは自覚してる。特に玲が相手だと余計に。


「……期間はどのくらい?」

「そいつがサークルを辞めるか、諦めるまで。長くて二ヶ月くらいだと思う」

「どういうことをするの、具体的に」

「手を繋ぐ。一緒に歩く。SNSに写真を上げる。周りに認識させる、それくらい」


 言ってることはわかる。難しいことではない。


 でも、手を繋いで歩いて写真を上げて、それって普通に付き合ってるのと何が違うんだろう、と思いかけて、首を振った。違う。目的が違う。


 ちゃんと理由がある。玲が困っている。それで十分だ。


「わかった、やる」


 玲は少しだけ目を細めた。


「ありがとう」


 その顔が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。普段は滅多に見せない表情で、見ていると何か変な感じがして、私は視線を逸らした。


 こうして、私の偽装彼女生活がはじまった。


 同じ日の昼。


 玲は当たり前みたいに私の隣を歩いた。食堂まで一緒に行くだけなのに、二人並んで歩くだけで「あっ神崎さんだ」という視線がちらちらと飛んでくる。玲は目立つから仕方ない。


「……手、繋ぐ?」


 玲が小声で聞いてきた。


「もうやるの?」

「早めに広めた方が効果的」


 それもそうなんだろうけど。


 玲がそっと手を差し出してくる。白くて細い手だ。


 私は少し迷ってから、その手を握った。


 ひんやりしている。


「体温低いね」

「よく言われる」


 手を繋いだまま食堂の入口を通ったとき、同じゼミの山田さんと目が合った。山田さんは私と玲が幼馴染なのを知っている、わりとおしゃべりな子だ。


「えっ、朝倉さん! 神崎さんと手繋いでる!!」


 声がでかい。


 周りの何人かが振り返った。私の耳が一気に熱くなる。


「あっ、えと、これは」

「付き合ってるの?!」


 ど直球だった。


 私が口ごもっていると、隣から静かな声がした。


「そうですよ」


 玲だ。


 山田さんが「えーーーっ!!」と叫んで、食堂の入口がざわっとなった。


「……玲」


 私は小声でツッコんだ。


「いきなりすぎでしょ」

「機会を活かした」

「機会を……」

「陽菜」


 玲が私の手を引いて、少しだけ耳元に顔を近づけた。


「演技してて」


 低い声が耳のすぐそばに届いた。


 心臓が一瞬、変な跳ね方をした。


 なんだそれ。急に言うな。


 私はゆっくり深呼吸してから、山田さんたちの方を向いた。


「……まあ、そういうことで」

「いつからなの!?」「どっちから告白したの!?」「神崎さんってそっちだったの!?」


 質問の波が来る。玲はとっくに私の後ろに引っ込んでいた。人に丸投げするのが得意なやつだ。


 仕方なく、私はそれっぽい話を作りながら答え続けた。結局、食堂のカウンターに並ぶまでの十五分間、ほとんどひとりで喋り続けることになった。


 トレーを持って席についたとき、私は盛大なため息をついた。


「疲れた」

「ごめん」

「謝るなら最初から助けてよ……」

「陽菜の方が人と話すの得意だから」

「そういう問題じゃないんだけど」


 と言いながら、玲が「ごめん」と言ったのは少し珍しかったな、と思って文句が続かなくなった。こいつが素直に謝るのはそんなに頻繁じゃない。


 うどんをすすりながら、私はぼんやりと考えた。

 今日だけでもう十人以上に「付き合ってるの?」と聞かれた。否定しなかったから、今頃SNSで広まっているかもしれない。


 玲の作戦は確かに早くて効果的だと思う。でも、私は。


「……本当に、ちゃんと終わらせるんだよね」


 思ったことが口から出ていた。


 玲は少しだけ食事の手を止めた。


「どういう意味?」

「偽装なんだから、終わったらちゃんと元に戻るよね、って」


 玲はしばらく私を見てから、静かに言った。


「もちろん」


 そのはっきりとした返事が、なんだか少しだけ寂しく聞こえた。


 なんでだろう。


 私は気のせいだと思うことにして、うどんの残りを飲み干した。


 食堂を出ると、風が少しだけ冷たかった。並んで歩きながら、玲がまた私の隣に来た。自然な距離感で。まるで昔からそうだったみたいに。


「写真、撮っていい?」


 玲がスマホを取り出した。


「今日中に上げた方がいいから」

「……わかった」


 玲は私の隣に並んで、少し腕を私の腕に絡ませた。それだけで、また心臓が落ち着きなくなる。


 シャッター音がした。


 画面を確認すると、二人が並んで笑っている写真が映っていた。私はちょっとぎこちないけど、玲はなんか自然に見える。


「……玲、これ慣れてない?」

「何に」

「カップルっぽい写真を撮るの」

「慣れてない」

「そう見えないんだけど」


 玲はスマホをしまいながら、少しだけ口元を動かした。


「陽菜が笑ってると、こっちも自然になる」


 さらっと言うな。


 私は前を向いて歩きながら、自分の頬が少し熱いのに気がついた。


 これは演技のための準備で、偽装で、全部ちゃんと終わりが決まっていることだ。


 そう、わかってる。


 ただ、玲の手がまだあたたかいのを感じながら、私は、何かがじわじわと始まった気がしていた。


 気のせいかもしれない。


 でも、そうじゃないかもしれない。

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