再会の日
「……馬車を止めろ。ここからは、一人で歩く」
離宮へと続く一本道の入り口で、私は御者に命じた。
纏うのは、あの忌々しい「純愛作戦」の時と同じ、薄汚れた茶色のマント。王子としての矜持など、もはやどこにも残っていない。ミーナの振りまくパステルカラーの毒気に当てられ、私の精神はすでに限界だった。今、この喉が渇望しているのは、ただひたすらに「剥き出しの悪意」をぶつけ合える、あの泥濘のような空間だけなのだ。
だが、離宮の正門が視界に入った瞬間、私は立ち尽くした。
静寂に包まれているはずの幽閉先は、今やノノシリーナを「聖母」と仰ぎ、救いを求める市民たちの異様な熱狂で埋め尽くされている。私は群衆に紛れ、格子状の柵越しに中を覗き込んだ。
そこで目にしたのは、心臓が凍り付くような、おぞましい光景だった。
(……っ、聖十字騎士旅団長……!?)
白銀の甲冑を陽光に反射させ、善人の仮面を被った男が、仰々しくを手続きをしている。
巷では「慈悲深い聖騎士」で通っているが、その実態は知っている。あいつは、女性をいたぶり殺すことに悦びを見出す、救いようのない身体的サディストだ。あの外道が、獲物を見つけた吸血鬼のような目をギラつかせ、離宮を睨みつけている。
(……ダメだ! あんな男に、ノノシリーナを渡してなるものか!)
あいつの手にかかれば、ノノシリーナは物理的にバラバラにされ、本当に殺されてしまう。変態的思考の持ち主とはいえ、私の、私だけの「ノノシリーナ」だった彼女を、あんな殺戮者に汚させるわけにはいかない。
幸い、旅団長は入館の手続きやら何やらで、警備と押し問答を続けているようだ。
私はその隙を突き、限られた者しか知らない、蔦に覆われた裏口へと回った。
警備の配置、巡回ルート、隠し通路の鍵――。すべては、この私がかつて設計し、脳内に刻み込んだもの。
影に潜み、冷たい石壁に身を寄せ、息を殺す。かつて自分が作り上げた「檻」の中を、今や侵入者として進む皮肉。彼女を閉じ込めるために張り巡らせたこの堅牢な防壁が、皮肉にも今は彼女を「本物の怪物」から守るための唯一の盾となっていた。
ようやく辿り着いた、彼女の私室の前。
心臓の鼓動が、耳の奥で早鐘のように、うるさいほどに鳴り響く。
私は、震える指先でドアの隙間を作り、音を立てずに中を覗き込んだ。
豪華な調度品に囲まれた部屋の真ん中で、ノノシリーナは、あのボロボロの麻袋のような服を纏い、たった一人で椅子に座っていた。
テーブルに向かい、何かを真剣な表情で綴っている。窓から差し込む斜光が、彼女の横顔を淡く照らし出していた。
……その、吸い込まれるような静謐な横顔に、私は不覚にも目を奪われた。かつて縁談の時、初めて出会った時と同じ胸の高鳴りだった。
あの時の私は、ノノシリーナの事を過小評価しすぎていた。
ただ生き残るためだけに、この荒れ果てた小国から必死にこちらへ貢いできたのものだとばかり思っていた。 だがノノシリーナは、初めから自分の心が壊れないよう、自分自身を変えずに、ただ……ただ正直に生きてきただけだったのかもしれない。
本性は、傲慢で、下劣で、救いようのない変態王女のはずなのに。その凛とした佇まいは、王宮にいたどの者達よりも、そして今、こうして立ちすくんでいる私よりも王族らしい。狂おしいほどに美しく、気高かった。
――ギッ。
見惚れていた拍子に、私の頭がドアの装飾にもたれかかってしまった。
静寂を切り裂くような、重苦しい金属音が廊下に響き渡る。
ノノシリーナがゆっくりとこちらを向き、花が綻ぶような、それでいて悍ましいほどに恍惚とした笑みを浮かべていた。
「……あら、ギルバート王子。ついに私を直接罵り、辱め、いたぶり、虐めに来たのね♪」
一瞬だった。たった一瞬で、私の変装を見抜き、以前と全く変わらない態度で私を歓迎する。
その瞬間、私の心の中に残っていた最後の城壁が、音を立てて崩れ落ちていくのがわかった。
彼女は、何一つ変わっていない。
最初は国中から蔑まれ、私に幽閉され、変態扱いを受けてもなお、ノノシリーナは「自分」という存在を何一つ恥じていなかった。ただ純粋に、歪んだ自分を愛し、受け入れ、悠々とこの地獄を統治している。
それに引き換え、自分はどうだ。
己の保身のために彼女を追いやり、偽りの聖女を隣に置き、空虚な「正しさ」に押し潰されそうになりながら、ここへ逃げ込んできた。
罪悪感が、濁流となって私の胸を掻きむしる。
彼女のように、ただありのままの自分を受け入れて、生きてきたことなど、一度としてなかった。
「……ああ、ノノシリーナ……」
おぼつかない足取りで、私は部屋の中へと踏み出した。
ノノシリーナは椅子から立ち上がり、両手を大きく広げ、仁王立ちで私を待ち構えている。
「さあ、ギルバート王子! 私を思う存分罵り、虐め倒して! あなたのその冷たい言葉で、私を粉々に粉砕してちょうだい!!」
突き放すはずだった。軽蔑するはずだった。
なのに、私はふらふらと、彼女が放つ抗いがたい引力に吸い込まれるように、歩み寄ることしかできなかった。
罵倒の言葉など、もう一文字も出てこない。
私は、自分を完成させるための唯一の「彼女」を求めて、ノノシリーナの元へ向かって歩き続けた。




