ミーナの献身
「……ねえ、ギルバート様! 見て、このティーカップ! 蝶々が踊っているみたいで、とっても可愛いわ!」
新妃候補、ミーナの声が、砂糖を煮詰めたような甘ったるい粘気を持って鼓膜にまとわりつく。
ノノシリーナを離宮へ放逐した後、私の隣という空白に収まったのは、この「純粋無垢」という名の暴力。
彼女の歩く先々には、幻覚のようなパステルカラーの花びらが舞い、吸い込む空気さえもが甘ったるい香料に汚染されているかのようだ。
「……ああ、そうだね。ミーナ、とても……可愛らしいね」
引き攣った笑みを面に張り付け、私は冷めきった紅茶を喉に流し込む。
朝から晩まで、ミーナとの日常は「お花畑」そのもの。朝食のオムレツにはケチャップで巨大なハートが描かれ、公務の合間に届く手紙には「お空の雲がペガサスに見えました、愛しています」という、知性を微塵も感じさせない幼児退行したような一文が躍る。
「ギルバート様、どうしてそんなに怖いお顔を? ミーナがなにか悪い事でも……。それとも、もしかして、お仕事で悲しいことがあったのかしら。」
「い、いや……なんでもない。ただ……仕事で少し疲れただけだ」
言えない。彼女があまりにもお花畑で、疲労を感じているなんて
「そうだったんですね☆。よしよし、ミーナが癒しの魔法をかけてあげます。キラキラ、ハッピーになぁーれ!」
――ッ!
頭の奥が、鋭利な痛みで割れそうだ。胃も痛い……。
彼女は善意の塊であり、邪気のない光そのもの。私を愛し、慈しみ、完璧に「王妃」としての役割を、彼女なりのメルヘンな解釈で懸命にこなそうとしている。
だが、毒がない。刺激がない。
何より、こちらがどんなに冷徹な態度を取ろうとも、彼女はその全存在をかけて「照れ隠しの愛情」としてポジティブに変換してしまうのだ。
「ミーナ、今は忙しいんだ。少し黙っていてくれないか」
「まあ! ギルバート様ったら、私と二人きりで集中したいのね。なんて情熱的! ミーナ、感動しちゃった!」
……ダメだ。言葉が、概念が通じない。
かつてのノノシリーナも、ある意味で対話の成立しない狂女だった。だが、あいつの場合は、私の放つ悪意を餌にして、より深い泥沼へと私を引きずり込む「毒」と「知性」があった。
私の罵倒に、あいつは傷つくのではなく、歓喜で応えた。その歪なやり取りの中で、私は確かに、自分の中の黒い衝動を完全に解放できていたのではないか。
不意に、脳裏をどす黒い残像がよぎる。
離宮の庭で、冷たい雨に打たれながら「ゴミを見るような目で見て!」と叫んでいた、あの女の汚らわしくも、神々しいほどに恍惚とした笑顔。
『……ふふ。もっと、もっと冷たい言葉を。私という存在を、塵芥のように扱って……!』
――ああっ、懐かしい。
あの時、私は間違いなく、あいつを「軽蔑」していた。全力で、一点の曇りもなく、あいつを「ゴミ」だと思っていた。その負の感情の激しいぶつかり合いこそが、今のこの甘ったるい、真綿で首を絞められるような日常にはない「生」の躍動だったのだ。
「……たまには、誰かに怒鳴り散らしたい」
独り言が、乾いた音を立てて漏れる。
誰かを罵倒し、それに対して「もっと! 最高です!」と全弾受け止められ、共に精神のどん底まで堕ちていく。そんな、不謹慎で、不潔で、最高にスリリングな背徳の時間が、無性に、狂おしいほどに恋しい。
「ギルバート様? 誰に怒鳴るの? もしかして、悪いゴーストさん? 大丈夫、ミーナが一緒にお追い出してあげるわ!」
ミーナの明るい声が、水中に沈んでいくように遠ざかる。
視界が、彼女の着ているパステルカラーのドレスに酔い、ぐにゃりと歪む。
会いたい。
あの救いようのない変態。救いようがないからこそ、私の魂を補完する、あの狂女に。
私は気づいてしまった。
私は、ノノシリーナという猛毒がなければ呼吸もできない体に、いつの間にか作り替えられていたのだ。
この「真っ当な愛」という名の空虚な砂漠で、私は心底乾ききっている。
立ち上がる。
「えっ、ギルバート様? どこへ行かれるのですか? もしかして、お花摘み?」
ミーナが首を傾げ、私の袖を掴もうとする。だが、その白く柔らかな指先すら、今の私には不快な粘着物のように感じられた。
私の心はすでに、あのカビ臭く、それでいて気高い絶望と歓喜に満ちた離宮へと、一直線に駆け出している。
罵りたい。蔑みたい。そして、あの汚らわしい笑顔で、私のすべてを肯定してほしい。
ただ……ただ、それだけだった。
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さ〜て、今夜も入眠前の読書ッ♪ 読書ッ♪
最近、罵り、罵倒の投書が激減してしまい。少し残念な気持ちもある。今や、離宮の門前に置かれた『罵り箱』。
今日もそこには、救いを求める市民たちの切実な願いが積もっていた。だけど、今日は少し違った。回収した束の中に、明らかに異質な「冷気」を纏った一通が混じっていた。
羊皮紙から香るのは、なんとも不思議な香料だった。
う〜ん♪ これは、遠い異国の香りね。
態々そんな遠くから、私を暗殺する為の仕掛けでも寄越してくれたのかしら。胸がドキドキするわ〜♪
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【差出人:匿名(繊細な筆致の高級羊皮紙)】
……お聞きなさい。
私は今日、自分の『世界』を守るために、長年私に仕えてきた、老いた不純物を火かき棒で殴り、その体を底の見えない暗い穴に投げ込んだの。
右手に残る骨の砕ける感触。あのアブラ臭い血の匂い。
彼は私を敬愛していると言いながら、私の『聖域』を土足で荒らそうとした。だから、ゴミと一緒に捨ててあげたの。
ねえ。自分の指を汚してまで手に入れたこの静寂を、貴女ならどう解釈してくださるかしら?
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私は、その手紙を読んだ瞬間、全身に電流が走るような法悦に震えた。
「……ッ!! な、なんて、なんて素晴らしいのかしら!!『老いた不純物を穴に投げ込む』!? つまり、自分を慈しんでくれた存在さえもゴミとして扱う、その徹底した冷酷さ! そして何より……ご自分の手を汚してまで『静寂(孤独)』を求めるそのストイックなまでの変態性……! 私、負けてるわ。私なんてまだ、他人に石を投げてもらおうと待っているだけの受動的なゴミに過ぎないのに、この方は自ら進んで『人でなし』の深淵へダイブしていらっしゃる……!」
私の持つ羽ペンが、狂ったように走り出す。
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新たな匿名希望の、美しき先見者様へ。
……拝読いたしました。ああっ、なんて羨ましい!
『穴に捨てられる』なんて、私にとっては生涯の夢、いえ、至高のゴールですわ! 貴女にゴミとして処理されたその方は、今頃、穴の底で貴女の冷徹な慈愛に包まれ、最高の悦びに浸っているに違いありません。
私のような歩く恥辱に比べれば、貴女のその『手を汚す覚悟』は、もはや聖母のそれと同じ輝きを放っています。
もし、その穴にまだ空きがあるのなら……いつか、この無価値な私を、貴女のその美しい手で、その『聖域』のゴミ溜めへと突き落としていただけませんか? 貴女の骨を砕く感触の一部になれるのなら、私は喜んで、貴女の踏み台になりましょう。
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返事を楽しみしていた私がいたけれど、あれから返事が来ることはなかった。




