救済の箱
離宮が騎士たちの手でピカピカに磨き上げられてから数日。あまりの清潔感と静寂、そして「敬意」に満ちた空気に、私の精神は枯渇寸前。耐えがたいホワイトな環境に終止符を打つべく、私は自ら「地獄」を召喚する装置を設置することに決めた。
そう、離宮の門の隙間に、一点の汚れもない真っ白な箱を。
『募集:ノノシリーナを罵る言葉。この汚れ者に相応しい、最低最悪なレッテルを求む』
翌朝、期待に胸を膨らませて箱を開ければ、そこには投げ込まれたばかりの憎悪の断片。指先に伝わる紙のざらつきすら愛おしい。私は震える手でそれを広げ、うっとりとその文面をなぞる。
──
【筆跡の荒いメモ】
「この変態女! 王家の恥さらし! さっさとこの国から消え失せろ!」
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「……ああ、素敵。ストレートな殺意! 『消え失せろ』だなんて、私の存在そのものを根底から否定してくださるなんて……ッ!」
歓喜に身を悶えさせ、即座に返信を認める。筆先が踊る。
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【返信:美しいカリグラフィー】
「ご指摘、誠に恐縮です。おっしゃる通り、私は歩く恥辱そのもの。貴方や、皆様の美しい瞳を汚さぬよう、泥にまみれて息を潜めております。どうか、今後も私を見かける事がありましたら、石を投げるか唾を吐きかけていただけますか? その一粒一粒が、私の罪を浄化する……いえ、最高のスパイスになるのです」
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ところが、数日が経過した頃。箱の中身は、私の予想を遥かに超える奇妙な変質を遂げ始める。憎悪の礫の中に、重たい「生」の湿り気が混じりだした。そう、それは、いつもの甘美な罵倒レターが消え失せた日だった。
「あら……? これは何かしら?」
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【油染みのついた紙切れ】
「今日、親方に理不尽に怒鳴られました。俺が悪いんじゃないのに、全部俺のせいにされて……。もう、何もかも嫌だ。死にたい」
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「……なんですって? 私を罵る代わりに、ご自分の不幸を押し付けてくるというの? 私をゴミ箱、あるいは精神の掃き溜めとして扱うなんて……。なんて、なんて残酷で素晴らしい方なのかしら!!」
見知らぬ誰かの重たい「愚痴」を、全身で受け止める快感。誰かの不幸を一方的に背負わされる――これぞ、無価値な私に相応しい罰。
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【返信:自虐的な追伸付き】
「まあ、なんて理不尽な親方でしょう! ですが、そんな怒号を一身に浴びるあなたは、まるで私のように『踏まれて輝く雑草』の素質がありますわ。私のような無能な女に八つ当たりをしていると思って、どうぞこの紙に更なる呪詛を書き連ねてください。私は、あなたの不幸を食べて生きる家畜ですから」
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さらに翌日。投函される悩みは、より深く、より切実な泥沼へ。
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【涙の跡がある便箋】
「夫が浮気しています。問い詰める勇気もなくて、毎日家で一人で泣いています。ノノシリーナ様、私はどうすればいいですか?」
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「……ああっ、家庭崩壊の重圧まで私に!? 泥沼のような人間関係の、その最底辺に私を立たせるなんて……! ゾクゾクするわ!」
丁寧に、かつ「いかに自分がそれ以上に惨めか」を交えて返信を綴る。
──
【返信:どこか励ましに聞こえる自虐】
「不実な夫。裏切りの日々。素晴らしいわ。ですが、あなたはまだ『泣ける』だけマシです。私など、婚約者に公衆の面前で婚約破棄され、捨てられた際、快感で顔がにやけてしまい、全方位から引かれた挙句に、ここにゴミのように閉じ込められているのです。私のこの『救いようのない異常性』に比べれば、あなたの悩みはなんと人間らしく、美しいのでしょう。さあ、私をその夫だと思って、罵詈雑言をぶつけて! 私はあなたのためのサンドバッグであり、雑草です」
──
……気が付けば、離宮の門前には早朝から長蛇の列。誰も私を罵りに来ない。皆、縋るような目で「目安箱」に手紙を落としていく異様な光景。
「ちょっと! 誰か私に『死ね』って書いて! なぜ『姑との仲が改善しました、感謝します』なんて手紙が入っているの!? やめて! 私を聖母のように扱わないでぇーー!!」
私の絶叫は、いつしか王都随一の「慈愛に満ちたお悩み相談所」の看板として、市民の間に定着してしまったのだ。
その頃……。
「……おい、ゼノス。この行列は、一体何だ」
執務室の窓から見える「離宮へと続く大通り」を指さす。そこには、老若男女が列をなし、静かに順番を待つという、異様な静謐が広がっているではないか。
「……報告します。ノノシリーナ様の設置した『罵り箱』が、いつの間にか『救済の箱』として神格化されました。現在、王都の自殺率は激減。精神疾患を訴える市民も大幅に減少し、治安が劇的に改善しております」
ゼノスが、もはや感情の死んだ声で書類をめくる。
「さらに、彼女の返信を書き写した『ノノシリーナの金言集(自虐入り)』が闇市で高騰。彼女に悩みを聞いてもらうための『優先投函券』が、公債と同レベルの信頼度で取引されています。王国の幸福指数は、建国以来最高数値を記録……」
「……ふざけるなッ!!」
私は机を叩きつけた。あいつを追放し、惨めな生活を送らせるはずだった。それがどうだ。なぜあいつが国を救っている? なぜ、あいつの一言で国民が救済されているのだ!
窓の外を見れば、返信を受け取ったばかりの市民が、「ノノシリーナ様……あんなに酷い目に遭っているのに、私なんかのために自分を下げて励ましてくださるなんて……。なんて尊い方なんだ……!」と涙を流して離宮を拝んでいる。
「……もう、ダメだ。あいつはもう、ただの変態でも狂女でもない。……民衆の心を掌握した、無冠の女王だ……」
私は椅子に崩れ落ちる。嫌がらせをするたびに、ノノシリーナは輝き、国は潤い、私の権威だけが削られていく。このままでは、近いうちに「ギルバート王子を廃して、ノノシリーナ様を女王に!」という嘆願書が、あのお悩み相談箱の中に放り込まれるのではないか。引いては民意までも。
ん?
「ゼノス、それはなんだ? 別の調査書か?」
ゼノスの内ポケットから何か書類のような物が見えていた。
「いえ……これは、その……」
隠そうとするゼノスを怪しむ。
「寄越せ」
「…………はい」
ゼノスが羊皮紙を差し出し、目を通す。
──
匿名希望。
私の愛する女性が、あなたと同じ性癖かもしれないと、気付いてしまったのです。私は彼女を傷つけたくありませんが、彼女が望むのなら、少し悦びを与えたいとも思っています。どうか、その筋のプロである貴女の助言をお願い致します。
──
「ゼノス、これはお前の字だな。彼女とは、レナリアの事か? 薄々そんな感じはしていたが……」
「陛下、これは……ただの調査の一環です……」
苦しい言い訳を流し、ゼノスにノノシリーナへの投書用紙を返す。
「好きにしろ」
ゼノスが いつになくかしこまった様子で受け取る。しかし同時に、私の耳に、遠く離宮の方から、「……違うの! 感謝しないで! 私をもっと蔑んでぇーーー!!」という、かつての婚約者の、狂気の絶叫が風に乗って聞こえてきた。
胃が痛くなってきた……。




