第59話:支配を名乗る者の末路
影は、ぎこちなく立ち上がった。
背骨が不自然に反り返り、筋肉が外側へ盛り上がる。
指は裂け、爪とも刃ともつかぬ黒い突起へと変わっていた。
呼吸のたび、喉奥から獣じみた音が漏れる。
次の瞬間――
その口が歪んだ笑みを形作った。
「……はは……ははははは……!」
高笑い。
だがそれは、かつての嘲笑ではない。
生き延びたという事実だけにすがる、壊れた歓喜だった。
「見ろ……! 見ろ、カイン……!」
「これが……私の進化した私だ……!」
床が砕ける。
ゼクス――いや、怪物は一歩で距離を詰めた。
風が爆ぜ、衝撃が走る。
――ドンッ!
拳が、正面から叩き込まれる。
カインは剣で受けるが、衝撃に押し流され壁際まで弾き飛ばされた。
「……ぐっ!」
床に刻まれる深い溝。
剣越しでも分かる。力の桁が違う。
怪物は止まらない。
次の一撃、二撃、三撃。
腕が振るわれるたび、空気が裂け石壁が砕け散る。
「どうした……!」
「さっきまでの余裕は……どこへ行った……!」
咆哮とともに振り下ろされた爪が、剣を弾き肩をかすめる。
カインの鎧が裂け血が走る。
圧倒的な力にカインは防戦一方に追い込まれ、間合いを奪われ続ける。
怪物の喉奥が、赤く灼けた。
次の瞬間――
ゼクスの口から、炎が吐き出される。
「――ッ!」
轟音とともに熱風が爆ぜ、通路を埋め尽くす。
回避は間に合わない。
カインは咄嗟に剣を構えるが、衝撃そのものが質量を伴って襲いかかった。
――ドンッ!!
爆炎に叩き飛ばされ、身体が宙を舞う。
壁に激突し、床を転がり、ついに動きを止める。
「……ぐはっ……!」
視界が白く弾け、肺から空気が押し出された。
剣を握る指が、わずかに震える。
その姿を見下ろしゼクスは、狂ったように笑い出した。
「はは……はははははははは!!」
笑い声は、もはや人のものではない。
歪み、裂け、歓喜と怨嗟が混じり合った咆哮。
「仲間だと……? 笑わせるな……!」
巨大な影が、よろめくカインに向かって一歩踏み出す。
「そもそもだ……!」
「貴族である私と……お前らとでは生まれながらに違う!!」
ゼクスの眼が、爛々と光る。
「私は支配する側の人間だ!」
「踏みつけ、使い潰し、奪う側だ……!」
爪が床を削り、火花が散る。
「それを仲間だの、守るだの……そんな甘い幻想に浸っているから」
口元が、残忍に歪んだ。
「恋人のセリスも。騎士団の仲間も」
一語一語、突き刺すように吐き捨てる。
「王に、あっさり奪われるんだ」
高笑いが、地下に反響する。
「ははははは……!」
「いいか、カイン……!世界は最初から不公平なんだよ!」
「奪われる側が、奪う側に勝てるはずがない……!」
嘲笑が降り注ぐ中、
倒れ伏したままのカインは、ゆっくりと息を吸った。
痛みはある。
だが、怒りはない。
代わりに、その瞳に宿ったのは――
揺るがぬ静けさ。
剣を再び地に突き立てる。
「……終わったか」
低く、確かな声。
ゼクスの笑いが一瞬だけ止まった。
「奪う者を名乗るには、お前は随分と小さい」
ゼクスの巨体が、ぴたりと止まった。
「……小さい、だと?」
低く唸るような声。
怒りと困惑が混じり合い、歪んだ顔がさらに醜くねじれる。
カインは、剣を支えにしてゆっくりと立ち上がった。
全身に痛みが走る。呼吸のたび、胸が軋む。
それでも、その背は崩れない。
「支配する側だと言ったな」
血の滴る鎧のまま、カインは一歩前に出る。
「奪うのが強さだと」
「踏みにじるのが、生まれの証だと」
剣先が、静かにゼクスを指した。
「――違う」
その声は、怒鳴り声ではない。
だが、地下全体に確かに響いた。
「お前は支配してなどいない」
「恐れて、縋って、奪うふりをしていただけだ」
ゼクスの口元が歪む。
「……黙れ……!」
再び、喉奥が赤く輝き炎を吐こうとする。
「遅い」
カインの足が踏み込まれた。
爆ぜるような音とともに距離が消える。
剣閃が、炎の発生点である喉元を正確に薙ぐ。
「――がっ!?」
炎は噴き出す前に掻き消え、代わりに黒い血が空中に散った。
ゼクスがよろめく。
その隙は、一瞬。だが十分だった。
「セリスの名を口にするな」
次の一撃が、膝を裂く。
「騎士団を語るな」
横薙ぎが、脇腹を裂く。
「仲間を踏みにじったお前に――」
最後の一歩。
剣が心臓の位置で止まる。
「奪われた痛みを、嘲笑う資格はない」
ゼクスは膝をつき、荒い息を吐く。
怪物の体が、軋むように震え始めていた。
「……は……はは……」
それでも、笑おうとする。
「結局……力だ……力が……すべて……」
カインは、首を振った。
「違う」
剣を、深く構え直す。
「力は、守るために使うものだ」
「奪うために振るった瞬間、それはもう弱さだ」
怪物の身体に、亀裂が走る。
薬による無理な進化が、限界を迎え始めていた。
「……ば……かな……」
ゼクスの声が、崩れる。
「私は……支配者……」
「違うな。お前は、逃げ続けた人間だ」
剣が、静かに振り下ろされる。
轟音はない。
派手な光もない。
ただ、断罪だけがそこにあった。
怪物の身体がゆっくりと崩れ落ちる。
地下に残るのは焦げた空気と、血の匂い。
カインは剣を下ろし、深く息を吐いた。
「……終わった」
その背後で、遠く戦場の爆音が次第に静まっていく。




