第42話:フィリアの遺言
不意に何かが胸を刺すような悪寒が走った。
「……嫌な気配だ」
カインは高台の岩陰から、戦場を見下ろしていた。そこには、見覚えのある二人の女性騎士フィリアとミリアムの姿があった。互いに警戒しつつも、どこか落ち着いた雰囲気で周囲を確認している。
その瞬間だった。
「……っ!!」
ミリアムの背後に、仮面をつけた男の影が現れる。
そして鈍く輝く刃が、音もなくミリアムの背に突き立てられた。
「ミリアムッ!!」
カインの叫びが響いたときには、フィリアの体も崩れ落ちていた。
カインは全力で駆け降りる。足場の悪い岩肌も、茂みも、すべてを蹴散らして。
「くそっ、間に合わなかったか……!」
駆け寄ったときには仮面の密偵たちの姿は、もうすでに影も形もなかった。
ただ、地面に横たわるフィリアが、かすかに、ほんのわずかに動いていた。
「……カ、イン……?」
「フィリア!一体何が起こった!?」
背後から駆けつけた仲間が癒しの術を発動するが、傷は深い。フィリアの呼吸は不安定で、今にも消えてしまいそうだった。
「ミリアムが……連れていかれた……」
「いい、もういい……喋らなくていい……!」
カインはその手を強く握る。怒りで胸が張り裂けそうだった。
「どうして彼女たちが襲われたのか……その理由を知りたい。まずは治療を急いでくれ」
彼の声に応えるように、フィリアのまぶたがかすかに震えた。
それが、希望の火がまだ消えていない証だった。
治癒の光がかすかに灯る中、フィリアの呼吸が少しだけ整い、薄く目を開けた。
「……カイン……?」
「無理に喋るな。でも……聞かせてくれ。なぜ……お前たちは襲われた。なぜ、ミリアムだけが連れて行かれたんだ」
カインの声は静かだったが、怒りと苦しみが押し殺されていた。
フィリアは少し唇を噛んでから、かすかに首を振る。
「わからない……私たちに届いた任務は、あなた達の討伐……」
「それじゃ納得できない。あんな刺客を送り込むような理由がどこにある」
「私たちも……警戒はしてた。でも、まさか……王直属の者が、味方のふりをして背後を……」
血の混じった息を吐きながら、フィリアは苦悶の表情を浮かべる。
「ミリアムだけを……『使い道がある』って……連れていった。私には処分という言葉を……あいつは、そう言った……」
カインの目が鋭くなる。
「使い道?それが何を意味するのか……お前は知らないのか」
「……知らない。だけど……王は最近、何かを探していた。選ばれた者とか、神の導きとか……そんな噂だけは、耳にした」
「神……?」
「本当かどうかも、わからない。でも……ミリアムは、ずっと昔から特別だった。誰よりも真っ直ぐで……誰よりも強かった。だから……目をつけられたのかもしれない」
フィリアは涙を流しながら、カインを見上げた。
治癒の光が彼女の体を包んでも、出血の量はあまりに多かった。
薄く開いたフィリアの瞳に、カインの姿がぼんやりと映る。
「……カイン……」
「無理に喋らなくていい。今は安静に――」
「……いいの……わかってるの……もう、長くは……ないって」
彼女は、微かに笑った。どこか穏やかにさえ見えるその表情に、カインは言葉を失う。
「……お願いが、あるの」
フィリアの手が、かすかにカインの腕を握った。
「……頼める義理なんて……ないのは、わかってる。でも……ミリアムを……助けてあげてほしいの」
「……!」
「彼女は……ずっと、あなたを想ってた。たとえ離れても、誤解されても……ずっと、あなたの背中を見てた」
カインの眉が震える。
「ミリアムは、強い子。でも……優しすぎるの。彼女はずっと苦しんでいた」
フィリアの声は、掠れていた。だが、確かに祈るような力がこもっていた。
「お願い、カイン……あの王は彼女に何をするかわからない……」
「……わかった。約束する。俺が、必ずミリアムを取り戻す」
その言葉を聞いた瞬間、フィリアの瞳に、涙がひとすじ、流れた。
「……ありがとう……それだけ……聞ければ……」
言葉が途切れ、フィリアの体から力が抜けていく。
「フィリア?おい、まだ死ぬな!」
カインが呼びかける。だがその声に応える力は、彼女にはもう残っていなかった。
ただその表情は、微かに安堵に満ちていた。
まるで、大切なものを託せたことに救われたかのように。
背後からアリアの足音が近づいてくる。
彼女は立ち止まり、フィリアの亡骸に一瞥をくれた後、静かに口を開いた。
「……彼女のことも、あなたは憎んでたんじゃないの?」
カインの指が、かすかに震える。
「……そうだ」
しばらくの沈黙のあと、低く、噛みしめるような声が返ってくる。
「俺が追放されたとき、彼女は何も言わなかった。誰よりも近くにいたはずなのに、何一つ……」
握っていた手が、強くなる。
「それが裏切りだと思った。俺を見捨てたと、そう思っていた」
アリアは視線を逸らさず、まっすぐに問う。
「彼女が何を守ろうとしたのか、あなたには伝わってるはず……それでも、憎しみは消えない?」
「……ああ。だが、もう彼女や騎士団に向ける感情じゃない……すべての元凶は、王エルヴァンだ」
低く、噛み殺すような声。
「命を奪わせたのも……仲間を引き裂いたのも……希望を弄んだのも、あの男だ」
握りしめた拳が血を滲ませる。
視線は地面を睨みつけ、そして徐々に上がっていく。
その瞳に宿ったのは、決して消えぬ怒りと、静かな決意。
「エルヴァンだけは……生かしておけない。どれほど狡猾でも、どれほど権力を持とうとも……必ず俺の手で断ち切る」
アリアは黙ってその言葉を聞いていた。
カインの放つ氣は、まるで灼熱の刃のように鋭く、冷たい夜気を切り裂いていた。
「……それが、フィリアの命に報いる唯一の道だ。王としての責任を……奴自身の血で払わせる」
そしてカインは立ち上がる。
その背に、かつての誇りを取り戻した騎士の影が、再び宿っていた。




