第41話:イリーナの決意
王宮の回廊、静寂の中。
遠見の巫女・イリーナが控室へと下がった後。
残されたのは、王エルヴァンと女王カティア。
二人の間には、厳かな気配と、互いの真意を探るような静かな緊張が漂っていた。
「……やはり本物だったな」
エルヴァンがぽつりと呟く。
その声音には、もはや疑念はなかった。確信と、所有への欲望。
それらが滲み出ていた。
「見事な力でしょう。イリーナは、我が国が誇る唯一無二の巫女。
神の御声を映す鏡とすら、我々は崇めております」
カティアは微笑を崩さず、あくまで穏やかに言葉を返す。
だがその瞳には、凍るような拒絶の色が宿っていた。
エルヴァンはその視線に気づきながら、まるで気にする素振りも見せない。
「欲しい」
彼は静かに、しかし確実に、口にした。
「イリーナを我が王国に招きたい。正式に、だ。彼女の力があれば、世界の選別も加速する。神の軍を編成する上で、彼女の存在は不可欠だ」
カティアのまなざしが鋭くなった。
「残念ですが、それはお応えできません。イリーナは我らの魂のような存在です。
力を持つがゆえに、利用されることを最も恐れて育てられてきました」
「利用などしない。私は導くのだ。神の意志に背かぬよう、正しい道を――」
「正しい道を、ですか?」
カティアの声が、わずかに冷ややかに変わる。
「それは、貴方がそう信じているだけです。
彼女の魂は、ただの道具ではない。王であろうと、所有することはできません」
エルヴァンの笑みがわずかに崩れる。
だがその内側に灯る炎は、むしろ強まったようだった。
「……ならば、説得しよう。彼女自身と。私の言葉で、私の意志で」
「彼女は人の心を見抜く力も持っています。
あなたの王の仮面が通じるかどうか、その判断も彼女自身が下すでしょう」
一瞬の沈黙。
そして、エルヴァンがふっと笑った。
「いいだろう。焦る必要はない。
だが覚えておけ、カティア……」
その声は低く、地の底を這うように重かった。
「私が欲すると決めたものを、最後まで拒みきれた者はいない」
カティアはそれを受けて、ゆっくりと息を吐いた。
「ならばどうかお試しください、エルヴァン陛下。
ただし、このミレイダの神殿においては、民を傷つけることは許されません」
鋼のような静けさが、彼女の声に宿っていた。
ミレイダ聖王国・神殿の奥――《祈りの間》。
薄明かりの中、香の香りが静かに漂う。
女王カティアは帳の奥で佇む巫女に歩み寄り、その名を静かに呼んだ。
「……イリーナ」
「……お疲れでしょう、陛下」
イリーナは振り返り、そっと微笑んだ。
だがその瞳には、先ほどの神意探知の余韻とは別の色があった。
深く、張り詰めた危機感。
カティアは少女の手を取り、誰にも聞かれぬよう囁く。
「……エルヴァンに、何を見ました?」
イリーナは短く目を伏せ、そして小さく首を振った。
「見たのではありません、女王陛下。……感じたのです」
「何を?」
「“飢え”です」
イリーナの声音は静かで、しかし凍てつくほど冷たかった。
「力への渇き。栄光への執着。何より――“支配”への異常な欲望。
彼は、自分以外のすべてを従わせるものとして見ている」
カティアはわずかに眉を寄せた。
「……やはり、あなたにもそう映ったのね」
イリーナはうなずき、遠くを見るように言葉を続ける。
「王であることを超えて、神にさえ手を伸ばそうとしている。
神に選ばれし者を求めるのは、信仰のためではありません。
それは、自らの軍勢を作り出すための、神の代行者になるための一手」
カティアは静かに瞳を伏せた。
彼女の胸にも、同じ不安が芽生えていた。
「……あなたを差し出せば、あの男は満足するでしょう。でも、そんなことは――」
「この国が終わります」
イリーナの断言に、空気が一瞬凍りつく。
「彼は一度手にしたものを、決して手放さない。
私を王の道具とするために、どれだけの策を弄するか……」
「だからこそ、私は行かねばなりません」
カティアが顔を上げ、イリーナを見つめた。
「何を言って……?」
イリーナは、ふわりと微笑んだ。
その笑みは、どこまでも静謐で、どこまでも覚悟に満ちていた。
「私が行かなければ、いずれ彼は力尽くでこの国を侵します。
その時は、私だけではなく、神殿も、民も、すべてが標的になる」
「……そんなこと、させないわ」
「ええ、きっと陛下なら守ってくださる。
ですが、それは今の私が、彼の興味を引いているからこそ成り立っている均衡です」
イリーナは視線をそらさず、はっきりと告げた。
「私が行けば、標的はこの身だけになる」
カティアは言葉を失った。
この少女がどれほど純粋で、聡明で、そして国を思っているか。
誰よりも知っていたからこそ、その覚悟の深さが胸を締めつける。
「……あなたは、捧げるつもりなのね。自分を」
。
その瞳には、揺るぎなき意思が宿っていた。
カティアは黙って少女を抱きしめた。
その腕の中で、まるで月の光のように儚くも強い巫女の温もりが、確かにそこにあった。




