10
三〇六号室——そう扉には書いてあった。
サツキはシアと顔を見合わせ、ドアノブに手をかけ、捻った。
興奮に背中を押され、部屋の中へと足を踏み入れる。
「これが……宿ってやつか……」
瞬間、木の匂いが押し寄せてきた。それが古さを否応なく感じさせる。
「豪奢な宿には泊まれないからね。安宿はこんなものだよ」
縦横の大きさはサツキの五歩分ほど。手前にはテーブルと椅子があり、壁の真横にベッドがある。右には窓がついていて、空が見える。ちょうど寝ながら夜空を眺められるような形式だ。
「本当は湯浴みとかもしたいけど……今日はいいかな」
「おいシア正気か?」
「なんでよ。正気だよ。お姉さんはどこもおかしくないよ」
「だって、あんだけ歩いて汗もかいて何もしないまま寝るの……俺には無理だぞ」
いくら手触りがサラサラで、かつ動きやすい制服とはいえ、汗を無限に吸う訳ではない。少なからずサツキはベタつきによる不快感を感じていた。
困った顔で抗議すると、極彩色の髪を揺らすお姉さんは嫌そうにそっぽを向いた。
「魔術でお湯とかは作れるから、タオルで拭くくらいは出来るけど……」
「ぜひ頼む!」
「そんなに!?」
「こんなにだ!」
サツキが顔を勢いよく近づけると、シアの目はゆっくりぐるぐると動き、諦めたように閉じられた。
「タオルを借りてきてくれる? あとは私がやるから」
「もちろん!」
そう言って駆け出したサツキを、「ちょっと待って」と呼び止めた。
「〈風よ、静まれ〉……これでいいかな。いってらっしゃい」
「?」
何をされたか理解はしていないが、気にせず再び駆け出した。
扉を開け、廊下を走り、階段を降り……。
——すると、サツキはすぐに異変に気がつく。
足音が全くしないのだ。
ドンドンと鳴るはずの足音が、どこかに置いてきてしまったかのように消え去っている。
自分の身体が軽くなったか、隠密の才能でもあったか……というのはないだろう。間違いなくシアの魔術によるものだ。
「……誰かいないかな」
「うわっ!? どこから出てきたんだ!?」
受付まで無音でやってくると、デスクワークをしていた宿の主人がギョッとした顔で驚いた。盗賊を見る目つきにはムッとしたが、状況的にさして変わりはないと思うと、閉口するほかなかった。
気を取り直し、二枚ほどタオルを貸してもらえないか聞くと快く承諾してくれた。
サツキは無音で上に戻り、シアにタオルを差し出す。
「ご苦労さま。〈水よ、出でよ〉〈炎よ、温めよ〉」
空中にこぶし大の水滴が現れ、その真下に小さな炎が灯った。
すぐに水滴からは温かい空気が溢れ、じんわりと空気を温めていく。
「炎を消して……えいやっ」
水はタオルに過不足なく染み込み、全体を濡らした。
「じゃ、上脱いで。拭いてあげる。背中とか届きにくいだろうし」
「え、ちょっ……それは……本気か?」
「さっきから私の気を疑いすぎじゃない??? 本気だよ?」
「いや……恥ずかしい……」
「いきなり乙女みたいなこと言わないでよ」
「くっ……俺は冒険者。これくらい乗り越えられるはず!」
「私の善意を難局みたいに言わないでくれる???」
「さぁ! 拭いてくれ!」
パチ、パチとボタンを外し、服を脱ぎ、サツキは背中を露わにした。
背中がどうなっているか、シアがどんな顔をしているのかを窺い知ることは出来ない。
その妙な緊張感が心臓の鼓動を急かす。
「んっ……」
温かい感触が背中に触れる。肩甲骨の辺りにじんわりと熱が広がる。
それが心地よくて、筋肉が解れる感じがした。次第に皮脂が溶け、取り払われていくのが分かる。
上へ、下へと動かされるタオルの動きが、ねぎらいにも思えた。
「背中はこれで終わったよ。あとは自分で出来るよね」
「さすがにな」
サツキはタオルを受け取ると、上半身を拭いた。きちんとサッパリするまで拭いたので気分は爽快。だからこそ、サツキはその善意を以て提案をする。
「よし、俺もシアの背中を拭こう」
「……いやいや、それこそ私は乙女だよ!? 恥ずかしいよ!?」
「大丈夫だ。問題ない」
「何が!?」
「別に気にしないさ。何も言わないし」
「私は気にするんだけど……!」
そうは言っても、サツキは引く気などなかった。やましい気持ちもなく、ただ〝お返し〟をしたいだけだった。
「な、なんか今までよりずっと頑固だね……?」
「世話になりっぱなし、ってのも癪に障るというか、な。恩返しというと大げさだが」
「……分かったよ。ただし、絶対に目を開かないこと。いいね?」
「約束する」
「とりあえず、一旦あっち向いてて」
「おう」
身体を反転し、扉の方をじっと見つめる。まるで門番だが、後ろでは衣擦れの音が響いている。
「……いい、よ」
合図が聞こえると、サツキはぎゅっと目を閉じた。強い意志で、しっかりと。次いで身体をゆっくりと反転していき、元に戻す。
何も見えない中、まずは場所を把握しようと手を伸ばす。
「……?」
「んんっ、ちょっとくすぐったいな」
サツキは、その声を聞いてやっとシアに触れているのだと理解した。触れているものが人の肉体だと思っていなかったのだ。
——それは石だった。
ひんやりと冷たく、硬質な触感。石以外の言葉が思いつかない。
その直後、混乱するサツキの視界——瞼が閉じられて暗闇のはずの——に、極彩が満ちた。そう、〝見えた〟のだ。明確に、シアの身体が。即ち、マナで構成されている証左。
シアの背中には、夥しい量の文字が書かれていた。しかも、〝第二種対高濃度魔力用封束陣〟など、サツキにとって未知の文字が並んでいる。
「ん? どうしたの? 手が止まってるけど……」
「い、いや。なんでもない」
サツキは自分でも声が震えているのが分かった。余計に目を閉じる力が強くなる。けれど、これ以上は閉じれない。痛くなるばかりだった。
焦ってタオルを手に取ったサツキは、自分にされた感覚を思い出して再現する。
自分が見た——いや〝視た〟ものを言うべきか否か。
その問いが脳内に渦巻きながら手を動かす。ぎこちない動きで、取り繕うように。
「ねぇ、ほんとに見てないんだよね……?」
そこに含まれているのは、怒りではない。心配、憂い、恐怖……今にも消え入りそうな声色で、少女は言った。
「あ、あぁ。誓って目を開いたりなんかしてない」
どれほどタオルで拭こうとも、マナで描かれた模様は消えない。そもそも、身体も汚れていなかった。石以外の部分はスベスベとしていた。不意に、それら模様が汚れに思えた。
「なら、なんでそんなに恐れてるの。声を震わせて、慎重なの。サツキくんはもっと大胆で、積極的で、この程度のことなら普通にやってのける人……って私は思ってたよ」
「っ……」
完全に怪しまれている。サツキの視えないものを見る目が、シアの秘密を暴いたからだ。
今、シアがどんな顔をしているかサツキには分からない。知らない。規定世界は、誰かの感情について何も教えてくれなかった。
「俺は……目を閉じている。でも、マナは見えるらしいんだ。だから、その……」
「うん、言いたいことは分かった、よ。見えちゃったんだ。なら……仕方ない」
諦観が酷く滲む声を、サツキは聞いたことがあった。サツキのことだ。だから、諦めるという感情は知っている。それが如何に哀れで、救いようのないものであるかも。
「ごめん」
「なんでサツキくんが謝るのさ。故意じゃないなら、しょうがないよ。マナが見えると知って連れてきたのは私なわけだし」
「いや、ただ俺は、諦めるのが嫌いなだけだ。それに、誰かが何かを諦めるのも、嫌いだ」
なにより、自分に希望を持たせてくれた人が諦めるのが悲しかった——なんて言うまでの勇気はなかった。
「へぇ、良いこというじゃん。ひひっ」
いつもの調子で笑ったシアは、サツキの手からタオルを取り上げた。
ゴソゴソと音がして、「目を開けて良いよ」と言われてサツキはようやく世界を再び視界に収めた。
「そろそろ寝よっか」
「そうだな……って、ベッドは一つだけか」
「一緒に寝れば問題ないでしょ」
「それ自体が問題だと俺は思うが——」
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