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冷酷と名高い宰相閣下の心の声が聞こえるのですが ——「かわいい」って、何ですか?  作者: 杠(ゆずりは)


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10/14

栗色の髪の令嬢は、閣下の「妹分」のクロエさんでした——とその場では思いました

 クロエ・ハルトマン嬢は、嵐のような人だった。


 悪い意味ではない。

 ただ、エドヴァルト・シュヴァルツという男の隣に存在できる人間が、この世にいたという事実に、私は純粋に驚いていた。


 玄関ホールでの第一声から「お兄様いい方と結婚されましたね」と言い切り、閣下の「黙れ」を涼しい顔で受け流し、「お茶しましょう」と私の腕を取って、気づいたら応接室のソファに座っていた。


 閣下はどこへ行ったのか。

 気づいたら、いなかった。


「閣下は……」


「書斎に逃げました」とクロエさんが言った。


「逃げた、んですか」


「私が来ると、いつもそうなんです。『用があるなら後で聞く』って言って消えるんですよ。もう慣れました」


 クロエさんがレモンティーを一口飲んで、にっこりした。


「怒っているわけじゃないんです、お兄様は。ただ、賑やかなのが苦手なので」


「……そうなんですね」


「奥様は、もう慣れましたか? お兄様の、ああいうところに」


 私は少し考えてから「慣れてきました」と答えた。


「それはよかった」とクロエさんが言った。「最初、怖かったでしょう」


「少し」


「私もそうでした。最初に会ったとき、十二歳だったんですけど、一言も話しかけてもらえなくて。でも次に会ったとき、私の好きな焼き菓子が出てきたんです。聞いてもいないのに。それで、ああこの人はこういう人なんだって」


 クロエさんが言いながら、ふふ、と笑った。


「言葉にはしないけど、ちゃんと見てる人なんです。ずっと前から」


 私は白薔薇を思い出した。

 庭に植えられた十株の白薔薇。今日、手渡してもらった一輪。



   *



 話しながら、私はクロエさんのスキル圏内に入らないように意識していた。


 相手が初対面の場合、心の声を聞くのは少し気が引ける。

 もちろん、意図的に距離を詰めなくても、応接室のソファという狭い空間では自然に一・五メートルを切ることがある。


 そういうとき、私はなるべくぼんやりと聞こえる声を流すようにしていた。


 だから今聞こえていたクロエさんの「(かわいい方だなぁ)」という声は、聞こえなかったことにした。


「奥様は転生者なんですよね」とクロエさんが言った。


 私は一瞬、固まった。


「……ご存知でしたか」


「お兄様から聞きました。それだけです。詳しいことは何も」


 閣下が言ったのか、と思った。別に隠していたわけではないが、誰かに話されるとは思っていなかった。


「前の世界では、どんなお仕事をしていたんですか?」


「……会社で、書類の整理や人の調整をする仕事を」


「なんか、今と同じですね」とクロエさんが笑った。


「宰相夫人の仕事って、そういうことじゃないですか? お客様の対応して、屋敷のことを取り仕切って、宴席では閣下の隣でにこにこして」


「……言われてみれば」


「それで、向いてそうですか?」


「慣れてきました、と思います」


 クロエさんが「よかった」と言って、また笑った。

 よかった、という言葉の言い方が、閣下と少し似ていた。



   *



 しばらく話していると、閣下が書斎から戻ってきた。


 応接室の扉を開けて、中を見て、少し間があった。


「……まだいるのか」


「います」とクロエさんが即答した。「お兄様も座ってください。奥様と三人でお茶しましょう」


「用件があるなら言え」


「用件は奥様とお話ししたかっただけなので、もう済みました」


「では帰れ」


「お茶がまだ残っています」


 閣下が低く「クロエ」と言った。


 クロエさんが涼しい顔でレモンティーを飲んだ。


「(……変わらないな)」


 閣下の心の声が聞こえた。

 呆れているのか、困っているのか、どちらでもあるような声だった。


 でも——歩み寄って椅子に座ったのは、閣下の方だった。


 私は内心で「おお」と思った。


「お兄様、最近お顔が柔らかくなりましたね」


 クロエさんが言った。


 閣下が「余計なことを言うな」と即座に返した。


「(余計なことを言うな)」という心の声も、ほぼ同時に聞こえた。


(心の声と口に出る言葉が一緒のとき、もあるんですね)


 私はひっそりと感慨深くなった。


 クロエさんが「でも本当のことです」と続けた。


「宰相府でも評判になってますよ。宰相閣下が最近穏やかだって」


「知らん」


「奥様のおかげだって、みんな言ってます」


「知らん」


「お兄様が知らなくても、みんな知ってます」


 閣下が「……クロエ」と今度は低い声で言った。

 クロエさんが「はーい」と返事をしてカップを置いた。


「そろそろ帰ります。奥様、今日はありがとうございました。またお邪魔してもいいですか?」


「もちろんです」と私は答えた。


 クロエさんがぱっと笑った。

 よかった、という声が、聞こえた気がした。



   *



 見送りは閣下が行った。


 私は応接室でお茶の後片付けを手伝いながら、今日のクロエさんとのやりとりを反芻していた。


 明るくて、率直で、閣下に対して全然遠慮がない。

 でも底意地の悪さがまったくない。

 閣下のことを本当に好いている、というのが声を聞くまでもなく伝わってきた。


 廊下から二人の声が聞こえた。


「奥様と仲良くなれてよかった」というクロエさんの声と、「……そうか」という閣下の短い返事。


「(……よかった)」


 扉越しに、心の声が届いた。


 クロエさんを見送って戻ってきた閣下が、応接室の前で少し立ち止まった。


「……手伝いは使用人に任せていい」


「体を動かしている方が落ち着くので」


「そうか」と閣下が言った。


 入ってくるのかと思ったら、そのまま立ち去った。

 廊下の奥に、足音が遠ざかっていく。


「(……楽しかったか)」


 遠ざかる声で、聞こえた。


 私はカップをトレイに乗せながら、少し笑った。


 楽しかったか、と聞きたかったんですか。

 聞けなかったんですか。


(聞こえてますよ、閣下)

(楽しかったです)



   *



 その夜、レオナに今日のことを話した。


 花市場のこと。クロエさんのこと。

 閣下が書斎に逃げたこと、でも結局戻ってきたこと。


「クロエ様って、どんな方でしたか」とレオナが聞いた。


「嵐みたいな方でした」


「いい意味で?」


「いい意味で」


 レオナが「そうですか」と言いながら、私の髪を梳いた。


「一個聞いてもいいですか」


「なんですか」


「花市場から帰ってきたとき、奥様すごく穏やかな顔してましたよ」


 私は鏡越しにレオナを見た。


「……そうでしたか」


「楽しかったんですね、やっぱり」


「……楽しかったです」


「閣下と?」


 私はしばらく鏡の中の自分の顔を見た。


「……閣下と」


 答えた後、少し恥ずかしくなって目を逸らした。


 レオナが「そうですか」とだけ言って、また髪を梳き始めた。

 何も言わなかった。

 何も言わなかったけれど、鏡に映るレオナの顔が、嬉しそうだった。



   *



 翌朝、クロエさんから短い手紙が届いた。


 昨日はありがとうございました、またお邪魔します、という内容の後に、一文だけ追加されていた。


《お兄様、奥様のことがとても——》


 そこで便箋が終わっていた。


 次の紙がない。

 封筒を逆さにして振っても、何も落ちてこない。


(……続きは?)


 私は封筒をもう一度確認した。


 どう見ても、一枚しか入っていなかった。


 クロエさんが二枚目を入れ忘れたのか。

 それとも、あの一文が最後のつもりで、続きは次に会ったときに話すつもりなのか。


(お兄様、奥様のことがとても——なんですか)


 気になって仕方がなかったが、聞ける相手が今ここにいない。


「どうしましたか、奥様」とレオナが覗き込んできた。


「……手紙が、途中で終わっていて」


「どんな内容ですか」


「『お兄様、奥様のことがとても』で終わっています」


 レオナが「とても、何ですか」と言った。


「わかりません。二枚目がないので」


 二人で封筒を眺めた。


 とても、何だろう。

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