栗色の髪の令嬢は、閣下の「妹分」のクロエさんでした——とその場では思いました
クロエ・ハルトマン嬢は、嵐のような人だった。
悪い意味ではない。
ただ、エドヴァルト・シュヴァルツという男の隣に存在できる人間が、この世にいたという事実に、私は純粋に驚いていた。
玄関ホールでの第一声から「お兄様いい方と結婚されましたね」と言い切り、閣下の「黙れ」を涼しい顔で受け流し、「お茶しましょう」と私の腕を取って、気づいたら応接室のソファに座っていた。
閣下はどこへ行ったのか。
気づいたら、いなかった。
「閣下は……」
「書斎に逃げました」とクロエさんが言った。
「逃げた、んですか」
「私が来ると、いつもそうなんです。『用があるなら後で聞く』って言って消えるんですよ。もう慣れました」
クロエさんがレモンティーを一口飲んで、にっこりした。
「怒っているわけじゃないんです、お兄様は。ただ、賑やかなのが苦手なので」
「……そうなんですね」
「奥様は、もう慣れましたか? お兄様の、ああいうところに」
私は少し考えてから「慣れてきました」と答えた。
「それはよかった」とクロエさんが言った。「最初、怖かったでしょう」
「少し」
「私もそうでした。最初に会ったとき、十二歳だったんですけど、一言も話しかけてもらえなくて。でも次に会ったとき、私の好きな焼き菓子が出てきたんです。聞いてもいないのに。それで、ああこの人はこういう人なんだって」
クロエさんが言いながら、ふふ、と笑った。
「言葉にはしないけど、ちゃんと見てる人なんです。ずっと前から」
私は白薔薇を思い出した。
庭に植えられた十株の白薔薇。今日、手渡してもらった一輪。
*
話しながら、私はクロエさんのスキル圏内に入らないように意識していた。
相手が初対面の場合、心の声を聞くのは少し気が引ける。
もちろん、意図的に距離を詰めなくても、応接室のソファという狭い空間では自然に一・五メートルを切ることがある。
そういうとき、私はなるべくぼんやりと聞こえる声を流すようにしていた。
だから今聞こえていたクロエさんの「(かわいい方だなぁ)」という声は、聞こえなかったことにした。
「奥様は転生者なんですよね」とクロエさんが言った。
私は一瞬、固まった。
「……ご存知でしたか」
「お兄様から聞きました。それだけです。詳しいことは何も」
閣下が言ったのか、と思った。別に隠していたわけではないが、誰かに話されるとは思っていなかった。
「前の世界では、どんなお仕事をしていたんですか?」
「……会社で、書類の整理や人の調整をする仕事を」
「なんか、今と同じですね」とクロエさんが笑った。
「宰相夫人の仕事って、そういうことじゃないですか? お客様の対応して、屋敷のことを取り仕切って、宴席では閣下の隣でにこにこして」
「……言われてみれば」
「それで、向いてそうですか?」
「慣れてきました、と思います」
クロエさんが「よかった」と言って、また笑った。
よかった、という言葉の言い方が、閣下と少し似ていた。
*
しばらく話していると、閣下が書斎から戻ってきた。
応接室の扉を開けて、中を見て、少し間があった。
「……まだいるのか」
「います」とクロエさんが即答した。「お兄様も座ってください。奥様と三人でお茶しましょう」
「用件があるなら言え」
「用件は奥様とお話ししたかっただけなので、もう済みました」
「では帰れ」
「お茶がまだ残っています」
閣下が低く「クロエ」と言った。
クロエさんが涼しい顔でレモンティーを飲んだ。
「(……変わらないな)」
閣下の心の声が聞こえた。
呆れているのか、困っているのか、どちらでもあるような声だった。
でも——歩み寄って椅子に座ったのは、閣下の方だった。
私は内心で「おお」と思った。
「お兄様、最近お顔が柔らかくなりましたね」
クロエさんが言った。
閣下が「余計なことを言うな」と即座に返した。
「(余計なことを言うな)」という心の声も、ほぼ同時に聞こえた。
(心の声と口に出る言葉が一緒のとき、もあるんですね)
私はひっそりと感慨深くなった。
クロエさんが「でも本当のことです」と続けた。
「宰相府でも評判になってますよ。宰相閣下が最近穏やかだって」
「知らん」
「奥様のおかげだって、みんな言ってます」
「知らん」
「お兄様が知らなくても、みんな知ってます」
閣下が「……クロエ」と今度は低い声で言った。
クロエさんが「はーい」と返事をしてカップを置いた。
「そろそろ帰ります。奥様、今日はありがとうございました。またお邪魔してもいいですか?」
「もちろんです」と私は答えた。
クロエさんがぱっと笑った。
よかった、という声が、聞こえた気がした。
*
見送りは閣下が行った。
私は応接室でお茶の後片付けを手伝いながら、今日のクロエさんとのやりとりを反芻していた。
明るくて、率直で、閣下に対して全然遠慮がない。
でも底意地の悪さがまったくない。
閣下のことを本当に好いている、というのが声を聞くまでもなく伝わってきた。
廊下から二人の声が聞こえた。
「奥様と仲良くなれてよかった」というクロエさんの声と、「……そうか」という閣下の短い返事。
「(……よかった)」
扉越しに、心の声が届いた。
クロエさんを見送って戻ってきた閣下が、応接室の前で少し立ち止まった。
「……手伝いは使用人に任せていい」
「体を動かしている方が落ち着くので」
「そうか」と閣下が言った。
入ってくるのかと思ったら、そのまま立ち去った。
廊下の奥に、足音が遠ざかっていく。
「(……楽しかったか)」
遠ざかる声で、聞こえた。
私はカップをトレイに乗せながら、少し笑った。
楽しかったか、と聞きたかったんですか。
聞けなかったんですか。
(聞こえてますよ、閣下)
(楽しかったです)
*
その夜、レオナに今日のことを話した。
花市場のこと。クロエさんのこと。
閣下が書斎に逃げたこと、でも結局戻ってきたこと。
「クロエ様って、どんな方でしたか」とレオナが聞いた。
「嵐みたいな方でした」
「いい意味で?」
「いい意味で」
レオナが「そうですか」と言いながら、私の髪を梳いた。
「一個聞いてもいいですか」
「なんですか」
「花市場から帰ってきたとき、奥様すごく穏やかな顔してましたよ」
私は鏡越しにレオナを見た。
「……そうでしたか」
「楽しかったんですね、やっぱり」
「……楽しかったです」
「閣下と?」
私はしばらく鏡の中の自分の顔を見た。
「……閣下と」
答えた後、少し恥ずかしくなって目を逸らした。
レオナが「そうですか」とだけ言って、また髪を梳き始めた。
何も言わなかった。
何も言わなかったけれど、鏡に映るレオナの顔が、嬉しそうだった。
*
翌朝、クロエさんから短い手紙が届いた。
昨日はありがとうございました、またお邪魔します、という内容の後に、一文だけ追加されていた。
《お兄様、奥様のことがとても——》
そこで便箋が終わっていた。
次の紙がない。
封筒を逆さにして振っても、何も落ちてこない。
(……続きは?)
私は封筒をもう一度確認した。
どう見ても、一枚しか入っていなかった。
クロエさんが二枚目を入れ忘れたのか。
それとも、あの一文が最後のつもりで、続きは次に会ったときに話すつもりなのか。
(お兄様、奥様のことがとても——なんですか)
気になって仕方がなかったが、聞ける相手が今ここにいない。
「どうしましたか、奥様」とレオナが覗き込んできた。
「……手紙が、途中で終わっていて」
「どんな内容ですか」
「『お兄様、奥様のことがとても』で終わっています」
レオナが「とても、何ですか」と言った。
「わかりません。二枚目がないので」
二人で封筒を眺めた。
とても、何だろう。




