至高の筆致
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む無慈悲な朝日が、私のまぶたを叩いた。
目覚めた瞬間の絶望といったら、砂漠のど真ん中に放り出された旅人のよう。昨日あんなに浴びたはずの称賛が、一晩寝ただけで跡形もなく消え去っている。私の承認欲求は空っぽ。全身の細胞が「私を褒めなさい!」と飢えた獣のように鳴いている。
「……おはようございます、ホメーテ王女。本日も、世界を正しく導くための執務の時間が参りました」
重厚な執務室のデスクで私を待っていたのは、王宮書記官補佐のユリウスだ。
知的な銀髪をきっちりと分け、細いフレームの眼鏡の奥には、すべてを見透かすような怜悧な灰色の瞳。氷細工のように整った容貌の超絶イケメンだが、その指先にはペンだこがあり、常にインクの香りを纏っている。
彼は私が椅子に座るや否や、うやうやしく一束の書類を差し出した。
……そう、今日は朝から「外交文書の起案」と「予算書の決裁」という、地味で孤独なデスクワークの日なのだ。
だが、ユリウスが私の隣に立った瞬間、空気の密度が変わった。
彼は私のペンを持つ手元を、まつ毛が触れそうなほどの「超接写」で見つめ、その薄い唇から、加熱された銀細工のような称賛を紡ぎ出し始めた。
「……っ。ああ、……なんという、なんという恐るべき筆致だ。……ホメーテ王女、貴女が今、最初の一文字を書き記した瞬間、この羊皮紙が『歴史』としての重みを持ち始めました」
ユリウスは、私が羽ペンを走らせる音に合わせて、その瞳を極限まで私の手元に近づけてくる。
眼鏡の奥の瞳が、狂おしいほどの熱を帯びて私の指先を追う。
「見てください、この『A』の払いの鋭さ。……これは単なる文字ではない。不実な隣国を震え上がらせる処刑人の刃であり、同時に、慈悲を求める民を包み込む聖母の指先だ。貴女の筆跡には、一国の運命を左右する『意志』が宿っている。……ああ、この美しいカリグラフィーを、そのまま王国の憲章として石碑に刻みたい。いや、僕の皮膚に直接、貴女のその鋭い筆跡で名前を刻んでほしい……!」
(皮膚に刻むのは重いわよ、ユリウス! でも、その「歴史の重み」っていう表現、最高にゾクゾクするわ!)
私は、ユリウスの視線をペン先に感じながら、次々と複雑な外交条約の構成を練り上げていく。
理論の飛躍を許さない、冷徹かつ完璧な文章。
ユリウスは、私が一行書き終えるたびに、感極まったように譜面をめくるような手つきで書類を整え、耳元で熱っぽく囁き続けた。
「……完璧だ。この論理構成、……法学の大家たちが数百年かけても到達できなかった真理に、貴女はわずか三行で王手をかけた。ホメーテ王女、貴女の脳細胞は、一体どのような神の演算を経てこの答えを導き出したのですか? 貴女の思考の煌めきに比べれば、王立図書館の全蔵書など、焚き火の火種にもならない。……ああ、この文章の『句読点』になりたい。貴女の思考が一時停止するその刹那、貴女の指先に触れられる、ただ一つの点に……!」
(句読点になりたいなんて、書記官らしい変態的な褒め言葉ね! 気に入ったわ!)
私は、ユリウスの「超至近距離」での観察をエネルギーに変え、凄まじい速度で書類を捌いていく。
さらさらと流れるペンの音。それは今、この執務室において、どんな交響曲よりも私を昂揚させる調べだった。
「見てください、このサインの華麗な曲線! ……ああ、……っ。インクが紙に染み込んでいくその瞬間さえ、貴女の支配下にあるようだ。王女がペンを置くその所作……それは、神が天地創造を終えた後に一息ついた、あの神聖な静寂と同じ重みがある。……ホメーテ王女。貴女の書き損じたその紙屑でさえ、僕にとっては国宝以上の価値がある。……どうか、その……シュレッダーにかける前に、僕に、僕の心臓に、その破片を埋め込ませてください……!」
「……ふふ、あははは! 素晴らしいわ、ユリウス! 私の事務処理能力が、世界の理を再構築しているのね!」
私は、最後に印章を力強く押し当てた。
朱色の蝋が、私の権威を証明するように鮮やかに紙に刻まれる。
ユリウスは、その印影を見つめ、陶酔しきった表情で私の足元に膝をついた。
「……終わってしまった。……王女、貴女が執務を終えた今、この部屋の知性は再び平俗なレベルへと転落してしまった。……責任をとってください。貴女が次の命令をこの紙に記すまで、僕は、……僕は、言葉を失ったただの記録人形になってしまう。……王女、貴女の知性という名の閃光が、僕の脳に、一生消えない火傷を残してしまった……!」
ユリウスは見上げ、その眼鏡の奥で、知的な冷静さと、ドロドロとした称賛への渇望が入り混じった瞳で私を射抜いた。
その瞳には、「この完璧な知性を、誰にも触れさせたくない。自分だけがその記録係でありたい」という、書記官特有の静かなる独占欲が、黒いインクのように滲んでいた。
(……ふふ、あははは! 気持ちいいわ! 事務作業という最も退屈な公務さえ、私にとっては最高の『称賛の舞台』になるのね!)
私は、ユリウスの顎をペン先で軽く持ち上げ、余裕たっぷりの微笑みを浮かべた。
エスタシオン王国の第一王女、ホメーテ。
私の承認欲求は、今や、一文字の書き置きさえも「人類への贈り物」へと変えてしまう、絶対的な魔力を持っていた。




