3 天が原へ
もう幾たび高みに導かれただろうか、既にソオは精根尽き果ててしまっていた。それでも、ユハニが身体を揺さぶるたびに、ソオは、もっと、もっと、とばかりに甘い声を上げてしまうのだ。
ユハニが満足そうに微笑んで、ソオに口づけの雨を降らせる。ソオがうっとりと瞼を閉じた時、聞いたことのない男の声が、部屋の中に響き渡った。
『主よ』
突然の出来事に、ソオは反射的に短い悲鳴を上げて、ユハニの身体にしがみついた。
その背を抱きしめて、ユハニが苦笑を浮かべる。
「恐れることはない。一のしもべ、この船の精霊だ。控えろ、オメガ、ここはプライベートエリアだぞ」
荒い息もそのままに、ソオはユハニから身を離そうとした。相手が何者だろうが、こんなはしたない姿を見られるわけにはいかない、と。
だが、すかさずユハニがそれを押さえ込む。
「オメガのことは、気にしなくていい。そもそも、姿が見えないだけで、奴はずっとここにいたのだからな」
「え……」
絶句するソオに、ユハニが悪戯っぽく笑う。
「所詮、奴は船だ。心配することは何も無い。せいぜい見せつけてやろうではないか」
『主よ』
落ち着いた低い声が、辛抱強く、同じ言葉を繰り返した。
ユハニが、あからさまに不機嫌な顔で舌打ちをする。
「控えろ、と言った」
『ケースSです』
その一瞬、ユハニの身体が強張ったのを感じ、ソオはつい悩ましげな声を漏らした。
「放り出せ」
氷のような声で吐き捨ててから、ユハニが再びソオに意識を集中させる。
オメガの存在に戸惑いを隠せないソオだったが、間断なく与えられる刺激に、ほどなく彼女の瞳に忘我の色が差し始めた。
『いえ、そういうわけにはまいりません』
「どういうことだ」
『私は、人命を最優先にするよう言いつかっております』
ユハニが、また舌打ちをした。
「そもそも、何故今まで気がつかなかった?」
『気がつかなかったわけではありませんが、対処できませんでした』
「だから、一体どういうことだ。会話レベルを2に上げろ」
束の間、静まり返った部屋の中、ソオの荒い息だけが空気を揺らす。
『離陸時に感知いたしましたが、計画の遂行を優先して、再着陸を断念しました』
「それで、現在どういう状況なのだ」
『対象を、脚格納室から医療室へ誘導、先ほど低体温睡眠状態への移行が無事完了いたしました』
「馬鹿な。雑菌の塊を月に持ち込む気か。パニックになるぞ。今すぐ放り出せ」
『対象を含む、船内に持ち込まれたものは全て、皆様と同様にクリーニング処理を行いました』
もはやソオの耳には、何も届いてはいなかった。きつく目をつむり、ユハニの動きに合わせて、身をよじらせて喘ぐのみ。
そんなソオの背後で、机が光輝いたかと思えば、寝台に横たわる男の姿が空中に浮かび上がった。生成りの麻の服に、竹の皮で作られた沓、典型的な地上人のいでたちだ。その手元に見える、鮮やかな緑色。
男の顔を見るなり、ユハニの口元が憎々しげに歪んだ。そうして、より一層激しくソオを攻めたて始める。
ソオの嬌声が、ぐんと大きさを増した。
「不穏分子を紛れ込ませるわけにはいかない。人類の未来のためにも、このシステムは維持しなければならないのだ」
『ですが、私は、人命を最優先にするようプログラミングされています』
「確かに、遺伝子学的には人間だがな、所詮は我々に作られた命に過ぎない」
『マスター、その会話は、レベル1相当です』
「問題ない。理解できるはずがない」
限界を迎えたソオの身体が、ユハニの胸元に力なく崩れ落ちた。余韻に震える頼りなげな肩を抱きとめながら、ユハニは言い放つ。冷たい声で。
「もう一度言う。そいつを宇宙に放り出せ。これは特権命令だ」
小さな部屋の中央に、寝台が一つ。白一色の世界の中、鮮やかな緑色がソオの目を引いた。
それは小さな花束だった。細い茎の先には、小豆大の白い花が一つずつ咲いている。そんな素朴な野の花を根気よく何十本も束ねて作られた花束が、寝台の上にちょこんと置かれていた。
「まあ! これ、私が大好きな花なんです」
ソオは満面の笑みで、傍らのユハニを振り返った。
「薬にも染め物にも使えない、何の役にも立たない花なんて、って里の皆は笑うんですけど」
でも、クヤノだけは、真面目な顔で頷いてくれた。ふと幼馴染みのことを思い出し、ソオの胸の奥がじんわりと温かくなる。里を離れてまだ何日も経っていないというのに、まるで遠い昔の出来事のような気がした。
「私からのプレゼントだ」
甘い声が耳元を震わせる。再び熱を帯び始めた頬を意識しながら、ソオは僅かに柳眉を寄せた。
「どうして、こんなに良くしてくださるんですか?」
「お前達がいなければ、我々は子孫を残すことができない」
ユハニの囁きは、やがて独白の色を増していく。
「我々は思い上がり過ぎたのだろうな。あのパンデミックを天罰だと、自分達は選ばれたのだと嘯きながら、のうのうと無菌室に引き籠っていた結果が、これだ。既に脅威が去って久しいというのに、未だ母なる大地に拒まれ続け、そして……」
言葉の意味を問おうとしたソオは、ユハニの苦々しげな表情を見て口をつぐんだ。
しばしの沈黙ののち、ユハニが小さく息をついた。
「ソオ、世界の秘密を知りたいか?」
「世界の、秘密、ですか?」
深い眼差しがソオを射抜く。ユハニの声音が一段低くなった。
「そうだ」
彼の言わんとすることが理解できず、ソオは眉をひそめた。
「私が世界の秘密を知れば、どうなりますか?」
ユハニの目が微かに揺れ……、それから、そっと細められる。
「そうだな、大いなる叡智と引き換えに楽園を追われ、秘密を漏らした私のことを未来永劫呪い続けるか……」
ソオは目をつむった。
芦原を吹き抜けてきた風に、小粟の穂が一斉に波打つ。見渡す限りの青空に、薄く走る雲。鳥の声が高く低く聞こえてくる中、収穫の歌を口ずさみながら畑仕事に精を出す里人達。
決して楽な暮らしではなかったが、ソオにとってあそこは楽園だったのだ。既に一度失われたものを、また更に失うなど、一体どんな悪夢だろうか。
それに――
「ユハニ様を呪わなければならなくなるというのならば、そのようなもの、知りたくもありません」
「そうか」
ユハニが笑った。かすれた声で。それから彼は、大きな動作でソオを抱きしめた。
「ソオ、ようこそ楽園へ」
温かい腕の中で、ソオは陶然と瞼を閉じた。
〈 完 〉