その1【"異"世界】
視界が暗い。
ついに視力まで損なったのか。まあ、これに関してはあってもなくても変わらないが。
「――――――」
誰かの声が一瞬聞こえた。
女性の声で、何と言ったのかは分からない。聞き馴染みのない言葉だった。だけどどこか、悲しそうな声だったと思う。
スローモーションの中で、他の人間の声がするのは不思議だが。これは一体どういうことだろうか。
土を踏む音が段々と遠ざかる。
どうもおかしい。
私は確かにスクランブル交差点で死にかけていたはずだが、ここはどこだ。
ふいにそよ風が頬を撫でる。
どこか心地よく、懐かしい香りを運んでいた。それは都会の喧騒の中では嗅ぐ機会の少ない自然の匂いだった。
木々が揺れる音も聞こえる。
知らない場所だ。いや、それよりも聴覚と嗅覚が機能している。確かに外の音が聞こえるし、匂いだってする。何故だ。いや、何だ。何が起こっているのだ。
考えろ。確か道路の真ん中で意識を失ったはずだが、どこか別のところに運ばれたのだろうか。いやしかし、それが仮に野外の地面の上ならば、扱いが雑にもほどがあるだろう。というか、千切れた体がくっついたのか? 現代医学では不可能なはすだ。
しかし、どれほど時間がたったんだ。視界は暗く、先ほどまで寝ていたせいか、正確な時間がわからない。
それにさっきの声からかなり時間が経ったように感じる。一分か、それとも一時間だった気もする。とにかく、曖昧な感覚だ。
ふいに体が宙に浮いた感覚がした。
浮遊感というやつだ。体が何かに持ち上げられている。まずい。何かが起こっていることは間違いない。
何とかして、確かめなければ。
ぐっと瞼に力を入れる。
身体を縛り付けるような眠気を押し殺すように何とか瞼をこじ開ける。
すると、謎の美女がこちらを覗き込んでいた。
――長い金髪を肩に流し、光を反射する翡翠色の瞳が宝石のように輝いている。外国人だろうか。
ふと、とある名称が浮かぶ。この人物を例える言葉は、遺憾ながらその一言に尽きた。
天使だ。
とすると、私は死んだのか? 死んだ結果、死後の世界とやらに来てしまったのだろうか。
あり得ない話だが、以前までの私の状態を考えてみると、それが妥当な答えになってしまう。
しかし、それだとここは天国になるが、私は果たして天国へ行けるような人間だったのだろうか。是非とも評価基準を知りたい。
いや、それにしても、少し大きすぎやしないか。
天使が人間の形をしていることも驚きだが、比率がおかしい。私の何倍のサイズもある。
「――――――」
また聞きなれない言葉だ。だが、さっき聞いたものとは声質が違う。
何を言っているのだろう。確か頭をぶつけた記憶はないが、記憶が混同して言葉が分からなくなってしまっているのかもしれない。
それとも単純にどこか異国の言葉なのか。まあ、天使は西洋的死後世界観の存在だから、言語は海外の言語であっても不思議ではない。
だが、どうだ。おそらく英語ではない。スペイン語でもドイツ語でも、ロシア語でもない。どの西洋の言語体系にも則らない未知の言語だ。
しかし、まあこの人が天使かなんだか正確には定かではないが、ともかく人を前にして挨拶もしないのは失礼だろう。友好的な態度を示すのは事前に不要な争いを避けるメリットもある。
「あぉー」
ん?
とりあえず世界で一番通じるであろう挨拶、helloと言ってみたつもりだったが、どうもおかしい。口がうまく動かない。
というのも、なんとか声帯を揺らして絞り出した声は、挨拶とも呼べない呻き声のような代物だった。
「――――」
何かを一言呟いたその美女は、表情一つ変えずにどこかへ歩みだす。
ここで気がついたが、どういう訳か私はこの天使?に抱えあげられているようだ。何たる怪力だろうか。大きさにも妙に納得がいったぞ。
なんだか、また眠気がする。
そんなところまでは、確かに覚えていた。
◆
整理すると、ここは天国でもなければ、死後のボーナスステージとして神から与えられた理想の楽園でもないらしい。となるともちろん、あの美女は天使ではない。
かといって、単なる妄想という訳でもない。紛れもない現実の出来事だ。
どうやら、私は今までとはかなり違う環境に生まれ変わったらしい。それも赤ん坊の姿で。世に言う所の、転生というやつだ。
しかし、それだけでは説明できないことも多い。言語が全く理解できなかったのも、単純に私の知らない言語という可能性もあるが、それでもこの私が全く聞いたことがないなんてことはあるのだろうか。
まあ、ともかく今の体たらくを鑑みるに、赤ん坊に生まれ変わったという点だけは疑う余地はないだろう。
そして、前世の知識はしっかり残っているのでその点は感謝したい。感謝しよう? 転生。そして、残念、ホーキング氏。正解は人は死後、生まれ変わるでした。
ただ、その点についてはかなり疑問がある。生まれ変わったというのに何故私は以前の知識や意識を継いでいるのだろうか。少なくとも、前世の知識を持って生まれ変わるというのはいろいろと問題があると思うが。たまたま私だけ特別だったのか、それとも死に方に原因があるのか。
いずれにしてもだ。この短い手足はかなり不便であるが、前世で積み上げた知識が健在とあらば、この二度目の人生においてもはや恐れるものはない。寧ろ、本来物心がないこの時期から既にここまで思考が回るというなら、その能力を研究者として生かすのも悪くはない。
前世で私がなんの職に就いていたかは思い出せないが、少なくとも今回の人生では困ることはないだろう。ふむ。実にいい出だしだ。
最初にこの世界で目が覚めてから、数週間ほどが過ぎた。具体的にどれくらい時間がたったかは分からない。
どうも、この家にカレンダーや時計の類は見受けられないのだ。これはこの辺りの文明水準が単純に低いだけなのか、それともこの美女が偶々文明から離れた暮らしをしているのか。その辺りはまだ分からない。ま、カレンダーがあったところで何が書いてあるかは分からないのが関の山だろうが。
とにかく、この美女が私の知る前世の文明からはかけ離れた生活をしていることは間違いない。使っている家具は木製のものだけだし、見る限り家電製品らしいものは一切ない。食器の類も金属のものは珍しい。
麦藁らしきもので編まれた揺り籠から外を眺めれば、見える景色は一面の森。ここが外の文明から閉ざされた場所と考えるに難くはない。
それと、私の知る限りこの美女がほかの誰かと会った記憶はこの数週間一度もない。まあ私も大体寝てるので、もしかしたらその時に誰かと会ってるのかもしれない。しかし、赤ちゃんは寝るのが仕事だから、その点は仕方ない。
また、ここでの食事は主に何らかの動物の乳を温めたもので、未だにちゃんとした食事を得ていない。食文化からだいたいどの地域くらいかは割り出せたが。まあ、これも求めすぎるのは贅沢である。何度か桶に入れられて体を洗われることはあったが、どこか雑で不慣れなようだった。というか、少なくとも、私を毎日風呂に入れる習慣はないらしい。それはいまだに慣れない。
そこから察するに、おそらく実の母親でもないらしい。
この人生での一番古い朧げな記憶を辿ってみると、あの最初に聞いた女性の声はこの美女のものではないし、そもそもあの声の主が、今の私の実の母親なのかも不確かだ。なんにせよ、謎は深まるばかりだ。
何も現状は不確かなものばかりではない。確かに得たものもあった。言語だ。
というのも、どうも赤ん坊の記憶力というのは馬鹿にならないようで、段々とこの美女が話す内容が理解できるようになってきていた。
とは言っても、単純に単語の組み合わせ程度のレベルで、会話というか複雑な意思疎通はまだ難しい。
だが、飯とうんちという意味の単語を覚えたのはかなりの収穫だ。単純に腹が減っても泣く真似をせずに済んだのは自尊心の面からもだいぶ助かっている。
無論、下の方はしっかり後始末してもらう必要はある。だが、あの鬱陶しい感覚をずっと我慢せずに済むのは何よりも幸いだ。この年になって、お漏らしを経験するとは思わなかった。
まあ、おそらくまともな発音にはなっていないので同じ音を繰り返しているうちに向こうも意味を察するようになったと思われる。複雑な意思疎通が難しいというのは、これに起因する。
しかし、今では一言『うんち』と発するだけでケツを拭ってもらえるほどだ。
……訂正。やっぱり自尊心は削られているかもしれない。
◆
それから幾月が過ぎた。
この頃になると、もうこの美女が何を言っているのかは大体理解できるようになっていて、体の方も順調に成長し、ついにハイハイを習得した。あと歯も生えてきたのでぬるい乳一辺倒の食生活からようやく解放された。
しかし謎も深まる。食事はライ麦らしき材料から焼かれたパンと、根菜類を多く含んだスープ。それとたまに魚や肉などだ。肉に関してはおそらく獣に分類される。鹿やイノシシと同じ味がした。魚に関しては、川魚が多い。しかし、どれも何の魚かまでは分からなかった。
料理の種類から、大体ここがヨーロッパ辺りだと分かったが、それにしても言語が通じないのには違和感がある。覚えた言語は全く未知の言語体系だった。
しかしまあ、何も進展したのは謎ばかりではない。新しく分かったことも増えた。
この美女はリンデット・エル・ガルウィンドルと言うらしい。なかなか自分の名前を呼ぶことがなかったので知る機会がなかったが、私に名前を付ける過程で自分の名前も丁寧に説明してくれた。
ちなみに私の名前はシルヴァルドになった。
その意味は森で拾った子らしい。嘘だろおい。
フルネームだとシルヴァルド・エル・ガルウィンドルということになるようだ。後半のガルウィンドルは姓に当たる箇所で祖先の名を冠するらしい。意味的にはガルウィンの子という意味になる。エルは何とか家などの接続詞的な意味を果たしている。
直訳すると、『ガルウィンの一族に連なる、森で拾われた子』ということになる。まあ、聞いた感じはかっこいいから私は気に入っている。
それと前々から気にはなっていたことも解決した。
日頃長い金髪に隠れていて、直接耳を見る機会がなかったせいで今の今まではっきりとしなかったが、リンデットはどうも私の知る人間ではないようだ。彼女の耳はぴんと尖っていて私の知るエルフという存在を想起させる。
まあ、その特徴以外は普通の人間と大差ない。
少なくともエルフのような耳を持つ人種など聞いたことも見たこともないが、単に私の知らない人種なんだろうか。それとも、本当にエルフなんてものがこの世界に存在しうるのか。結局のところ、答えは分からない。まあ、エルフが存在するならそれはそれで面白くはある。
しかし残念ながら、私にはその長耳はなく、少なくとも見た目は、普通の人間らしかった。少し悔しい。
話は戻るが、ハイハイは非常に便利だ。一気に行動範囲が広がる。
そんでもって家の中をぐるりと見た感想は、やはり最初に感じたものとそう変わりなかった。
どうやら私が今まで過ごしていた場所はリビングに当たる場所のようで、その周りにキッチンと物置部屋、それにリンデットの寝室がある間取りになっていた。
どうも一人暮らしにしては広い家だ。森の中とはいえ、少なくとも、今日明日の生活に困窮しているようには見えない。
総評すると、この家の文明レベルは前世のものよりもかなり下だ。例えると、田舎で山暮らしを極めた感じになる。小綺麗なのは好ましいが、パソコンもスマホもないのは残念極まりない。もうちょっと大きくなったら買ってもらうことにしよう。
だが、言語や立地の問題といい、解決しない謎は未だにある。何故こんな森の中にたった一人で暮らしているのか、そもそもなぜ私を拾ってくれたのか、それは単なる善意なのか。
拭えない疑問はかなり多いが、ここまで不慣れながら育てて貰っているので今は深く考えないことにした。どうせ考えても答えは出ない。
とまあ、そんな感じで家の中を散策していたとある日。
リンデットの部屋を物色していた所、何らかの書物らしきものがベッドの上に置かれているのが目に入った。今まで言語についてはなんとなく把握できていたが、実際文字の方はまだ未知の領域だ。
あくまでこの土地の文化を知る一環としてだ。是非拝見させて貰おう。
ハイハイを駆使し、ベッドのそばまで這い寄ると毛布を掴んで上半身を乗り上げようとしてみる。
が、失敗。赤ん坊の体にそんな筋力はなく、何とか掴んだ毛布を引っ張りながらずるずると地面にへたる。
すると、予想外ながら引っ張られた毛布に巻き込まれて目的の書物もバサっと地面へと落ちてきた。我ながらいい手を取ったと思う。偶々だが。
ともかく、ようやくその書物が視界に入った。先ほどの落ちた拍子に本が開かれたようだ。
どれどれ……文字は……むむ、無論まだ読めないが。幸いにして挿絵らしきページが開かれていた。
六角形を囲うように、見慣れない文字が円環状に書き込まれている。
その中心では、いくつもの幾何学図形が複雑に重なり合っていた。さらに周囲には、翼の生えた人間らしき簡略図まで描かれている。
どうにも奇妙な絵だ。悪魔崇拝でもしているのだろうか。
「あ、こら」
後方から聞こえた声にびくりと背筋が震える。
聞き馴染みのある声、リンデットだ。どうやら、勝手に本を漁っていたのがバレたらしい。
駆け寄ってきたリンデットは私をひょいと持ち上げると本に目を向ける。
「ほう。この『――』本に興味があるのか」
『――』が何を意味するのか分からなかったが、おそらく何らかの図書であることは分かった。やっぱり悪魔崇拝でもしているのだろうか。とすると、丁寧に育てられている私は生贄か何かだろうか。それだけは勘弁願いたい。
「妙に好奇心旺盛なところがあるとは思っていたが、これを見つけるとはな。まあちょうどいい機会だ。見せてやろう」
そう言うと、リンデットはおもむろに片手を広げ私の目の前へ出す。
彼女には何かを始めるような重々しい雰囲気があった。
「我らが祖、ガルウィンの名において命ずる――天を巡りし息吹よ、集いて穏やかなる流れを成せ。凪風」
何と仰々しい文言なんだろうか。差し詰め、中二病を極めたのか。まあ、私も大概人に言えた立場でもなかったが。
と、一瞬考えたのも束の間、
ふいに、風が頬を撫でた。急に風でも吹き込んだのだろうか、しかし窓はしっかりと閉まっている。
キョロキョロ辺りを見渡し、この謎の風の発生源を特定する。
間違いない、この風は彼女の掌の上で生まれている。
金髪がふわりと浮き、机の上の紙がぱらぱらとめくれていく。だが、それも一瞬の出来事で、気づくと先ほどまでの仰々しさと風は消え去っていた。
一瞬、呆気にとられる。
それは私の知っている物理現象で説明するには難しいものだった。
リンデットの詠唱とそれに連なる風の発生。そこから、彼女がそれを意図して発動させたことは分かった。
勢いがあまりなかったのは、私に配慮したのかもしれない。それが意味するのは、その風をある程度コントロールすることが出来るということだ。単にそれがその術の最大出力なのかもしれないが。
なんにせよ、今の風が偶然吹いたものではない。明確に意図して、リンデットが引き起こしたものだ。
だが、それが意味するのはつまり。
魔法のようなもの? というか、さっき口にした呪文といい、謎の風といい。私の知る限り一番妥当な答えはそれだ。
魔法が存在する?
そんな馬鹿な。少なくとも私の知る現実世界では、魔法は空想の産物でありもしない絵空事で、単なる妄想だ。
あり得ない。いや、あり得てはならない。
そんなえも知れぬものがあるならば、今まで私の信じていた緻密で完成された世界への常識が崩れ去ってしまうではないか。
信じるものか、魔法なんて俗物!
――――いやしかしだ。
あり得るわけがないのだ。そう、緻密で完成された"世界"ならば。
ふむ。考えてみればみるほど合点が合う。
聞きなれない言語体系、にしては西洋のような食文化、文明から離れた生活、不自然な長耳、それに目の前で起こった不可思議な現象。
これらから考えうるに……
――――ここは、私の知る世界ではない?
一番合点がいく。
この世界は別時空、または別次元か。はたまた並行世界か。何にせよ。今まで過ごしていた前世の地球とは似て非なる世界だ。
だとすると、なんたることだ。
以前の世界における美しい哲学や、芸術、学術のそのすべてがこの世界には存在しないかもしれない。いやそもそも、哲学自体存在しているのか。アリストテレスも、プラトンも、ベーコンも、孫子すら存在していない。偉大な賢人が存在していないなら、この世界で哲学は発展するというのか。
いずれにせよだ。
仮にそうならば、私の積み上げた膨大な知識はどうなる? 仮に全ての体系が異なるなら、私の持つすべてが無意味だ。無意味になってしまう。
……いや、違う。無意味なのは世界だ。
私の積み上げた知識が通用しないこの世界の方だ!
そして、この無意味な世界へと送り込んだ存在。一体何がそうさせたのか、不可思議な現象か、それともそう定められているか、いずれにせよ、何者かの介入を疑わざるを得ない。
こんな悍ましい世界へ送り込むなど、悪魔の所業。一体誰が喜ぶというのか。
きっと今も、この世界のどこかで私を嘲笑っているに違いない。あぁ、そうだ。そうに決まっている。
そんなこと、私は断じて許さない。
「これが『――』だ。もう少し大きくなれば、お前にも教えてやる」
先ほどの言葉の意味が何となくつかめてきた。
『――』とは、おそらくこの超常的現象そのものか、またはそれを起こす術のことを指しているのだろう。平たく言うと、この魔法のことらしい。
魔法が存在する世界。
あの緻密で完成された世界とは異なる常識で回る異なる世界。
なんたることか。
もしも本当にそうならば、私は知らねばならない。
この世のすべてを知り尽くし、この世のすべてを我が知識の糧とし、我が身を守らなくてはならない。
少なくとも、その努力はしなくてはならない。
それがこの未知の領域で生き残る最善の術なのだから。
私は知らねばならない、この世界を。
そして、必ず。
――――この無意味な世界に送り込んだ存在に相応の対価を支払わせてやる。
待っていろ。異世界。




