心の有り様
白い陣幕が静かに揺れた。
外から聞こえていた茶々と初の小さな話し声も、蝉時雨に紛れて次第に遠ざかってゆく。
おキヨが最後に一礼し、幕を閉じる。
診療所の中には、お市と桃慧だけが残された。
しばらく、暑さでじっとりと蒸れる胸元をパタパタとしながらも両者とも口を開かなかった。
蝉の声だけが、夏の日差しをそのまま音にしたように降り注いでいる。
桃慧は膝元の帳面へ静かに手を伸ばした。
先ほどまでおキヨが書き留めていた診療録である。
その帳面をそっと閉じると、脇へ置いた。
その動きを見て、お市が静かに尋ねる。
「……もう、お書きにならないのですか。」
桃慧は小さく微笑んだ。
「はい。ここから先は、診療録へ残すようなお話ではございません。」
お市は桃慧を見つめた。
年若い少女である。
それでも、その一つひとつの所作には、数え切れぬほど多くの命へ向き合ってきた医師だけが持つ落ち着きがあった。
桃慧は一度だけ息を整える。
「お市様。」
「はい。」
「これからお尋ねすることは、お答えになりたくなければ、お答えいただかなくて結構でございます。」
少し場に緊張感が張り巡らされ場の空気が冷たくなったように感じた。
「……。」
「私は、お市様のお言葉を無理に引き出したいわけではございません。ただ、お市様のお身体を少しでも楽にして差し上げたい、そのために必要なお話であればお聞かせいただきたいと思っております。」
その場に、再び静かな沈黙が落ちる。
お市は膝の上へ置いた手へ目を落とした。
細くなった指先。
籠城の日々で荒れた皮膚。
その手で娘たちを抱き、食を分け、兵を励まし、小谷の城と浅井家を守ってきた。
そんなお市の事を想い、桃慧は回答を急がなかった。
沈黙もまた、患者の言葉であることを知っていたからだ。
やがて、お市が小さく微笑む。
「先生は……不思議なお方ですね。」
「そうでしょうか。」
「今まで診てくださった医師は皆、『どこが痛む』『何を飲む』と、そればかりをお聞きになりました。しかし先生だけは、答えたくなければ答えなくてよいと仰る。」
桃慧は穏やかに首を横へ振った。
「心は、無理に開くものではございません。傷口を無理に広げれば、かえって血が流れます。お心もそれと同じでございます。言葉の刃は鋭いものです、扱いは刀以上に慎重にせねばなりません。」
その言葉に、お市の表情がわずかに和らいだ。
医術の話をしているのに、どこか自分の心へ語りかけられているような気がした。
桃慧は静かに続ける。
「先ほど、お市様は『母ですから』と仰いました。」
「……はい。」
「私は、そのお言葉を何度も耳にいたしました。娘たちのため。病の者のため。家のため。ご自身のことは、その後でよい、と。」
お市は否定しなかった。
とても否定できるものではなかった。
なぜならその否定は今、母として生きる自分の生き方を否定する言葉だったからだ。
桃慧は責めることなく、小さく頷く。
「そのお心は、とても尊いものにございます。私は母にそのような愛情といいますか、家族故の施しやお市様とお茶々様方のような温もりある愛情と言うものを受けたことがございません。母としてお市様は誠に....いえ、一人の女性としてお強い方ですね……。ですが。」
そこで言葉を切った。
「お市様が倒れられては、まだお乳が必要なお江様の命に関わります。母親が動けなくなればお茶々様、お初様も悲しみます。」
その言葉を受けてお市の目がハッと何か大きなものが飛び込んでくるように見開かれ、桃慧の姿を眼球全体で見入るように捉えていた。
そんな表情を下から上目遣いで心配そうに見つめる桃慧は話を続ける。
「お市様。最後に、心から安らかにお休みになれた夜を、覚えておられますか。」
その問いは、診療所の静寂へゆっくりと落ちた。
お市は目を細め、目を横に流してしまい、答えられなかった。
目を閉じようとすれば、小谷城の日々が浮かぶ。
夫・長政の背中。
別れの言葉。
城へ残した世話になった家臣たち。
籠城の日々の中で娘たちを抱き締めながら聞いた銃声。
様々な光景が胸の奥から静かに浮かび上がる。
長い沈黙の末、お市は小さく息を吐いた。
「お恥ずかしいことですが……思い出せませんね……何故でしょうか。」
その一言は、弱音というより、自分自身への驚きにも似ていた。
いつからだったのか、安心して眠れなくなったのは。
それすら思い出せないほど自分は張り詰めて生きてきたのだと、その時初めて気付いたのである。
お市は、しばらく言葉を失っていた。
胸の内へ落ちた「思い出せません」という自らの言葉が、思いのほか重く響いていたのである。
自分は眠れていると思っていた。
疲れれば人は眠るものだと。
だから、眠れているのだと思い込んでいた。
だが今、心から安らかに眠れた夜を問われても、その記憶が見つからない。
それはお市自身にとっても、初めて知る己の姿だった。
診療所には、蝉の声だけが静かに満ちていた。
桃慧は急いで言葉を重ねなかった。
慰めの言葉も、励ましの言葉も、今はまだ違う。
お市自身が気付いた、その小さな事実を受け止める時間が必要だと分かっていた。
やがて桃慧は、穏やかな声で口を開いた。
「……お恥ずかしいことではございません。」
お市がゆっくりと顔を上げる。
桃慧は柔らかく微笑んでいた。
「それほどまでに、お市様は張り詰めて生きてこられたのでございます。」
「張り……詰めて。」
「はい。」
桃慧はお市の眼をしっかりと見つめながら静かに頷いた。
「人のお身体は、とても正直でございます。心が『まだ大丈夫』と申しておりましても、お身体は隠しきれませぬ。」
お市の傍に体を寄せ桃慧は寄り添うようにお市の身体に手を添える。
「立ちくらみに夜の動悸、死人の様な手足の冷え。それに痩せられたお身体。どれも、お身体がお市様へ送っている声でございます。」
お市は、自分の手を見つめた。
細くなった指、荒れた皮膚、娘たちを抱き続けた腕。
それのどれもが、今まで当たり前だと思っていた。
「私は……。」
小さく漏れた声は、誰へ向けたものでもなかった。
「皆を支え、守らねばと思っておりました。娘たちや城の者たちを……そしてあの方を……。」
そこまで言って、お市は口を閉ざした。
名前は出なかった。いや出すと涙を抑える瞼が崩れ落ちそうで壊れそうで声に出せなかった。
桃慧は、その沈黙を壊さなかった。
誰を思い浮かべたのか、尋ねる必要はなかった。
それは医師が踏み込むべき領域ではなく、一人の妻が大切に抱えている場所だったからである。
桃慧はそっと身を乗り出し、お市の手へ自らの両手を添えた。
診察のためではない。
ただ、その細い手があまりにも冷たく感じられたからだった。
「お市様。」
「……はい。」
「どうか、ご自身のお身体を責めないでください。お市様は、誰かを守ろうとなさいました。それは決して過ちではございません。」
お市の睫毛が小さく震える。
桃慧は続けた。
「ですが先程お話した通りに、お市様がお倒れになれば、お茶々様も、お初様も、お江様も、お母上を守ることができませぬ。今のお江様は、お市様のお乳で命を繋いでおられます。母君のお身体が弱れば、お乳も弱ります。母君が倒れれば、お江様もまた倒れてしまうのです。」
その言葉に、お市は息を呑んだ。
娘を守るために、自分を削る。
それが母だと信じてきた。
だが、その先には娘たちの悲しみがある。
そんなことは、一度も考えたことがなかった。
「私は……。」
お市の声が震える。
「守っているつもりで、お江を苦しめるところだったのでしょうか。」
桃慧は静かに首を横へ振った。
「いいえ。そうではございません。だからこそ、今お伝えしているのでございます。」
桃慧はお市の優しい掌をゆっくりと包むように握りしめ自らの温もりを伝えるようにそっと力を込めた。
「お市様。母君が健やかでいてくださることも、お子様方を守ることなのでございます。ご自身を慈しむことは、決して我が身可愛さではございません。それもまた、お母上のお務めなのでございます。」
お市は目を閉じた。
その言葉は、これまで誰一人として教えてくれなかった。
母とは耐えるもの。
妻とは従うもの。
姫とは気丈であるもの。
そう教えられて生きてきた。
だが今、目の前の十八歳の若い医師は、それとは違う道を静かに示している。
「そのようなことを……。」
お市は小さく微笑んだ。
その笑みはどこか照れくさそうで、少しだけ寂しかった。
「そのようなことを申してくださった方は、初めてでございます。」
桃慧は照れたように視線を落とす。
「……僭越ながら、医師としての願いでございます。」
「……願い。」
「はい。」
桃慧は穏やかに微笑んだ。
「私からお市様への処方薬にございます。今日より、ご自身のお身体を、お茶々様、お初様、お江様と同じように大切になさってください。それが、お市様にお願いしたい、たった一つのことでございます。」
お市はその言葉を胸の内で何度も繰り返した。
自分を大切にすることも、母の務め。
その考えは、お市のこれまでの人生にはなかった。
長い沈黙が、二人の間へ静かに流れていた。
その時だった。
診療所の幕が小さく揺れ、控えめな声が外から聞こえる。
「桃慧様。よろしいでしょうか。」
「あら、おキヨですか?」
「はい、その通り。おキヨにございます。」
桃慧は穏やかに振り返る。
「どうぞ、お入りになってください。」
幕がわずかに開き、おキヨが木盆を抱えて姿を見せた。
盆の上には湯呑が二つ。
井戸水を汲んで間もない冷たい水と、白布へ丁寧に包まれた濡れ手拭いが載せられている。
おキヨは二人の様子を一瞬だけ見た。
先ほどまで張り詰めていた空気は残っている。
それでも、互いへ向ける眼差しは少しだけ柔らかくなっていた。
2人が何が話していたのかは、おキヨは決して尋ねない。それが医務衆の記録役としての務めであることを、誰より理解していた。
「お待たせいたしました。」
桃慧は微笑みながら受け取る。
「ありがとう、おキヨ。御足労かけましたね。」
「いえ、なんのこれしき。はい、お市様もどうぞ。」
桃慧は湯呑をお市へ差し出した。
お市は軽く一礼し、両手で受け取る。
冷えた井戸水が喉を潤す、火照っていた身体へ静かな涼しさが染み渡った。
「はぁ、体の芯に染み渡りますね。」
桃慧も一口だけ水を含み、小さく息を吐く。
「ほんとですね、おキヨも一口どうぞ」
「えぇ、よろしいのですか!」
そういうとおキヨも桃慧の湯呑みに口をつけゴクリと飲み込む。
「ふぁー……ありがとうございます、桃慧様」
おキヨはぺこりと頭を下げるとそのまま濡れ手拭いをそっと二人の前へ置いた。
「何かございましたら、お呼びください。私はあやめ様へお薬の準備をお願いしてきますので。」
「ええ、ありがとう。」
おキヨは深く頭を下げると、音を立てぬよう静かに幕を閉じた。
「随分と慕われているのですね」
「えぇ、医務の長を任されているものの、どうも歳が近いせいか甘やかしてしまいます。よくありませんね。」
「でも素敵な関係だと思いますよ」
2人が笑い合うと再び診療所へ静寂が戻る。
だが先ほどまでとは違う、二人とも湯呑を手にし、小さく息をついたことで張り詰めていた空気が少しだけ和らいでいた。
幕の向こうでは蝉が鳴き続け、夏風が白い陣幕をゆっくりと揺らしている。
その音だけが、二人の間に横たわる沈黙を優しく包み込んでいた。
お市はゆっくりと息を吐く。
胸の奥へ張り詰めていた何かが、ほんの少しだけほどけていくような心地がした。その様子を見届けた桃慧もまた、小さく息を吐いた。
気付かぬうちに肩へ入っていた力が抜け、僅かに肩が下がる。
その姿を見て、お市は思わず口元を緩めた。
「先生も、お疲れになるのですね。」
突然の言葉に、桃慧は目を丸くした。
やがて少し照れたように笑う。
「……ええ。」
「実は、とても緊張しておりました。」
「それは私に、でございますか。」
「はい、恐れながら。」
桃慧は苦笑しながら頷く。
「信長様をはじめ、丹羽様、柴田様、皆様がお市様の御身をどれほど案じ、大切に思っておられるか、この数日で何度も伺いました。そのようなお方のお身体をお預かりする以上、私の一言でお市様のお心を傷つけてしまってはならぬと、そればかり考えておりました。」
お市はくすりと笑った。
「先生でも、そのようなお顔をなさるのですね。皆からは、何事にも動じぬお方と伺っておりました。」
桃慧は困ったように首を振る。
「そのようなことはございません。怖いものもございますし、失敗もいたします。毎回、これで良かったのだろうかと考えながら診ております。……医者とは、そのようなものでございます。」
その最後の一言だけが、少し寂しそうに聞こえた。
お市は静かに桃慧を見つめる。
聞くところによると十八程の娘。
黒い法衣が色落ちし、白い法衣のように見える。そんな法衣の袖口には、何度洗っても落ちぬ薬草の染みが黒い法衣の意地かのように残っている。
細い指には、薬研や包丁でできた細かな傷が幾筋も走り、爪の縁には薬草の色がわずかに残っていた。
その手は美しい姫君の手ではない。
幾百、幾千という命へ触れ続けてきた玄人の手だった。
ふと目を上げれば、その吸い込まれそうな透明感のある瞳の奥には穏やかな光がある。
けれど、そのさらに奥には、年齢には似つかわしくない深い闇のような疲れが静かに沈んでいた。
お市は、その表情から目を離せなかった。
この子もまた、自分と同じなのだ。
誰かを守るために、自分を後回しにすることを覚えてしまった人なのだ。
そう思うと、不思議と胸が締めつけられた。
お市は静かに居住まいを正した。
「先生。」
「はい。」
「今度は、私から一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか。」
桃慧は穏やかに微笑み、軽く頷いた。
「もちろんでございます。」
お市は少しだけ言葉を選ぶように視線を落とし、それからもう一度、まっすぐ桃慧を見つめた。
その眼差しは、診察を受ける患者のものではない、一人の女性が目の前にいるもう一人の女性を案じる、静かな眼差しだった。
「……先生は」
一呼吸置いて、お市は優しく問い掛ける。
「先生は、お疲れではありませんか。」
その一言は、静かな診療所の空気を震わせることもなく、夏の風に乗って桃慧の胸へそっと届いた。
桃慧は一瞬だけ言葉を失う。
これまで幾度となく患者へ向けてきた問い。
身体の異変を隠す者へ、何度も投げ掛けてきた言葉。
それが今、自分へ返ってきたのである。
反射的に口を開く。
「私は……」
そこまで言って、言葉が止まった。
"大丈夫です"
その一言が喉元まで込み上げていた。
けれど、それを口にすれば、つい先ほど自分がお市へ語ったことを、自ら否定することになる。
『大丈夫』というお言葉だけでは、お身体は診られませぬ。
自分自身が語った言葉が、静かに胸へ返ってくる。 桃慧は思わず苦笑した。
「これは……一本、取られてしまいましたね。」
その笑みに、お市も穏やかに笑みを返した。
診療所には再び蝉時雨が響く。
しかし、その音は先ほどまでとは違って聞こえた。
この会話を皮切りに医師と患者として始まったこの問診は、いつしか互いを思いやる二人の女性の語らいへと変わっていたのである。
心を見抜き合った2人の会話はつかの間の平和を感じるひとときであった。




