問診
白い陣幕が夏のか細い風にわずかに揺られ、蝉時雨がそれぞれの胸に響き渡る。
戦場の緊張感からか、胸に大きな締め付けを感じるわずかな時を過ごす一同。
そんな最中に桃慧は傍らに控える治癒班の娘へ目を向けた。
名は喜代美。皆からは、おキヨと呼ばれている娘である。長いおさげを肩口で束ね周囲をキョロキョロと緊張した面持ちで桃慧の傍に腰を据える。おキヨは己の役目をよく心得ていた。膝元には帳面と筆、硯が整えられ、桃慧の問う言葉とお市の答えを、余計な解釈を加えず記す準備ができている。
桃慧が小さく頷くと、おキヨも黙って筆を取った。
「それでは、お市様。少しばかり今のお身体のことをお尋ねいたします」
「ええ、よろしくお願いします。」
お市は穏やかに答えた。その声音は澄んでおり、喉に強い腫れや呼吸の苦しさは感じられない。言葉の終わりも乱れず、息継ぎも自然だったが、声量は思ったより小さく、一言ごとに無意識の慎重さが滲んでいた。
桃慧はまず、もっとも答えやすいことから始めた。
「この数日、熱をお感じになったことはございますか」
「いいえ。少なくとも、自分で分かるほどの熱はございませんでした」
「寒気や、身体の節々が痛むことは」
「それもございませんね」
「咳や喉の痛みは」
「時折、香の煙で少し咳き込むことはございましたが、今はもう」
おキヨの筆が、さらさらと紙の上を進んでいく。
桃慧はお市の顔から目を離さぬまま、ゆるやかに問いを重ねた。
「頭が重い、あるいは締めつけられるように痛むことはございませんか」
お市はわずかに考えてから答えた。
「夕刻になりますと、こめかみの辺りが重くなることはございました」
「なるほど、光がまぶしく感じたり、吐き気を伴うほどでは」
「そこまではありません」
「では、立ち上がった際に目の前が暗くなることはございますか」
その問いに、お市はほんの少しだけ苦笑した。
「それは……幾度か」
「どのような時に」
「朝、急に立った折や、城内の階段を上り下りした後でしょうか。少し足元が遠くなるような心地がいたしましたが、すぐに治まりました」
桃慧の内で、先ほど見た歩幅の狭さと、椅子へ座る際の手の支えが静かに結びついていく。
(血が足りないだけではない。水も、食も、眠りも足りていない。)
だが、まだ言葉にはしなかった。
「それでは胸が急に速く打つことは」
「坂を上る時には」
「ふふっ、針仕事や座っている時など、身体を動かさないにもかかわらず、突然どきどきすることはございませんか」
「それならば……夜に、少し」
その答えに、桃慧はほんのわずかに目を細めたが、声色は変えなかった。
「その時に息苦しさは?」
「ございません」
「胸の痛みもありませんか?」
「はい」
ここまでの問診は、ごく普通のものだった。戦で疲れた体に現れる病の徴を一つずつ確かめ、重い病が隠れていないかを見極めるための、医師ならば当然行うべき問いである。
お市もまだ、桃慧の質問へ身構える様子はなかった。むしろ、声を荒らげることも、急かすこともなく、答えを待ってくれる若い医師の姿勢に、少しずつ肩の力を抜き始めているようだった。
桃慧は次に、食について尋ねた。
「籠城の間、お食事は一日に何度ほど召し上がっておられましたか」
お市は膝の上の手へ視線を落とした。
「初めの頃は、朝と夕に」
「初めの頃?ではここ最近は違うのですか?」
「夜の一度で済ませる日もございました」
「一度食事でどのくらいを召し上がれるのでしょうか?」
「粥を、小さな椀に一つほど。」
「粥の共に魚や豆、味噌などは召し上がられては?」
「毎日ではございませんが、時折頂いておりました。普段は子らや病人へ先に回しましたので」
言葉は静かだった。
自らの食を娘や周囲へ譲ったことを、特別な犠牲として語っているわけではない。お市にとっては、それが母として、浅井家の御台所として当然の務めであったのだろう。
桃慧は帯の内側へ不自然に折り込まれた布を一度だけ見た。
予想は当たっていた。
「……聞く言葉を否定する訳ではございませんが、殆どご自身の分の食事を減らされて居たのですね。」
お市は少し驚いたように顔を上げた。
「……どうして、お分かりに」
桃慧は穏やかに答えた。
「新しいお召し物の肩と帯に、余りがございました。皆様同じように籠城を耐えられたはずですが、お市様だけ痩せ方が深い。食が足りなかっただけではなく、ご自分から控えておられたのではないかと思いました」
お市はしばらく桃慧を見つめ、それから諦めたように小さく笑った。
「兄上が信を置かれるわけが、少し分かった気がいたします」
「いえ。衣が教えてくれただけでございます」
「それを見逃さぬことが、並のことではないのでしょう」
お市の言葉に、桃慧は照れたように目を伏せたが、問診の手を止めることはなかった。
「食べた後に、胃が痛むことはございますか」
「時折、重く感じます」
「みぞおちの辺りでしょうか」
「はい」
「吐き気は?」
「ございません」
「下腹部が張ることはございますか?」
「少し」
「便は何日おきに」
ここでお市は、さすがに僅かに戸惑ったようだった。だが桃慧の眼差しには好奇も羞恥を誘う色もなく、ただ身体を診る医師としての真摯さしかなかったため、少し声を落としながら答えた。
「二日、あるいは三日に一度ほどでございました」
「硬うございましたか」
「ええ」
「色が黒い、あるいは血が混じるようなことは」
「それはございません」
桃慧は小さく頷いた。
食事量の低下と水分不足による便秘。腹部の張りも、その延長と考えてよいだろう。急を要する兆しは今のところない。
「水は、日にどのくらい」
「水は限られていたので決まった量を皆で分けておりました。朝に一椀、昼に少し、夜に一椀ほどでしょうか」
「汗をかく暑さの中で、それだけでは足りません。籠城中なので仕方ないことではありますが、少々無理をしすぎですね。」
桃慧は責めるのではなく、事実だけを静かに告げた。
「喉が渇いても、我慢なさったのですね」
お市は微笑んだ。
「娘たちが飲めれば、それでよいと思っておりました」
その微笑みは美しかったが、桃慧には、そこへ長秀と勝家の言葉が重なって聞こえた。
――ご自身のことは後回しになさる。
――『大丈夫』を、そのまま信じるな。
桃慧は、お市の答えを否定しなかった。ただ、心の中で一つずつ積み上げていった。
食事の不足。
水の不足。
筋力の低下。
頭痛。
立ちくらみ。
夜間の動悸。
便秘。
そして、娘を優先し続けるために自分を削る癖。
次に女性の身体について問う必要があったが、桃慧は周囲に殿方が耳を済ませていないのかを改めて確かめた上で、声を少し落とした。
「失礼ながら、月のものについてもお尋ねしてよろしいでしょうか」
お市は一瞬だけ姿勢を正したものの、すぐに頷いた。
「はい」
「江様をお産みになってから、月のものは戻っておられますか」
「いいえ。お江が生まれて半年経っておりませんので、まだ一度も」
「江様には、今もお乳をお与えになっておりますか」
「はい。乳母にも助けてもらっておりますが、夜は私が」
桃慧は静かに頷いた。
「でしたら、月のものが戻らぬこと自体は、今のところ不思議ではございません。お乳を与えている間は、身体がお産の後の働きを優先し、月の巡りを休ませることがございます」
そう告げながらも、桃慧はお市の細くなった手首と、荒れた肌を横目でしっかりと確認する。
月のものが戻らぬ理由は、授乳だけで説明できるかもしれない。しかし、この痩せ方と立ちくらみ、指先の冷えまでを、それだけで片づけてはならなかった。
「それでは他に手足の冷えは」
「手足の冷えは以前より感じます」
「夜、足がつることはございませんか」
「夜中に時折あります。」
「髪が抜けやすくなった、爪が割れやすくなったことは」
お市は己の手へ目を落とし、爪先へ視線を留めた。
「言われてみれば、爪は以前より脆くなったように思います」
桃慧の予想は、少しずつ輪郭を増していった。
栄養はも水分も足りていない。
血も十分ではない。
しかし、それだけではない。
これらの身体症状を長引かせ、回復を妨げているものが、まだ別にある。
桃慧はその答えを急がなかった。
病の核心へ至るほど、医師は歩みを遅くしなければならない。
鋭い問いを投げれば、患者は心を閉じる。見抜いたことを誇るように言えば、信頼は二度と戻らない。
そこで一度、別の話へ移った。
「茶々様、初様のお食事は、比較的保てておられましたか」
その問いには、お市の顔が少し明るくなった。
「はい。皆がよくしてくれました。茶々は我慢強く、初は姉の真似をして、たまに泣いて困らせることもございましたが」
母として娘たちを語る間、お市の声には柔らかな温もりが戻った。桃慧はその変化を確かめながら頷いた。
「お江様だけでなく、お初様も夜泣きをするのでは?」
「そうなのです。特に夜中に大きな声を出されると全然泣き止まないのです。」
「ではそのような時もお市様があやされたのですね」
「ええ。乳母もおりましたが、あの子は私でなければ泣き止まぬことが多く」
「では、夜中も何度もお起きになられたのではないですか?」
「それは、母ですから、私めの仕事です。長政様もよくお助けに来てくれたのですがあの方は子をあやすのが下手なんですよ。すぐ私が代わります。」
お市は優しく微笑みながら当然のように答えた。
桃慧はその一言を胸へ留めた。
母だから。御台所だから。妻だから。
その言葉で、お市はあらゆる疲労を正当化し、自らへ休む許しを与えぬままここまで来たのだろう。
問診は、いよいよ睡眠へ近づいていた。
だが桃慧はまだ、真正面から切り込まなかった。まずは、ごく普通の診察の続きを装うように、柔らかな口調で尋ねた。
「では、お市様がお休みになる時刻は、いつ頃でございましたか」
「城内が静かになってからでございます。もっとも、完全に静かになる夜はほとんどございませんでしたが」
「眠りへ入るまで、時間は掛かりましたか」
お市は少し考えた。
「日によりますがすぐに眠れる夜もございました」
「夜中に目を覚ますことは」
「お初や、お江が泣けば。それ以外にも、物音がいたしますと」
「その後、また眠れましたか」
「……ええ」
答えは整っていた。
けれど、桃慧には、その整い方がかえって気に掛かった。言葉があまりにも無難で、苦しさの輪郭だけを避けている。
桃慧は一度呼吸を整え、できる限り何気ない問いとして、次の言葉を選んだ。
「夜は、心地よくお休みになれておりますか」
お市の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
それまで桃慧の顔をまっすぐ見ていた視線が、初めて膝元へ落ちる。
右手の指先が、着物の裾を静かにつまんだ。
「……はい」
答えはすぐに返ってきた。
だが、その声だけが、先ほどまでより僅かに遠かった。
桃慧は表情を変えず、さらに穏やかに続けた。
「では朝は、気持ちよくお目覚めになれますか」
今度は、沈黙があった。
ほんの一呼吸。
それだけの短い間であったが、お市ほど言葉を選び慣れた女性にとっては、明らかな遅れだった。
やがてお市は、微笑みを取り戻して答えた。
「朝は、娘たちより早く目が覚めます」
桃慧は静かにお市を見つめた。
質問への答えではない、いつ目覚めるかを答えている。
気持ちよく目覚められるかという問いだけが、そっと避けられていた。
(ここだ。)
桃慧の胸中で、これまで散らばっていた徴が一つにつながった。
夜の動悸。
物音に反応して目覚めること。
眠りを尋ねた瞬間に曇った表情。
朝の心地よさを問われ、時間だけを答えたこと。
身体が休めないのではない。
心が休むことを許していない。
あるいは、眠りへ落ちることそのものに、何かしらの恐れが結びついている。
桃慧はそこで問いを重ねなかった。
核心へ触れたと気づいた医師が、興味のままに踏み込めば、それは診療ではなく暴力になる。
傍らではおキヨが、先ほどと同じように筆を進めていた。茶々たちと侍女たちも、診療所の奥で静かに待っている。
ここでは話せない。
桃慧はそう判断すると、ふいに自分の喉へ手を添え、少し困ったように笑った。
「申し訳ございません。どうやら私の方が、少し喉を乾かしてしまったようです」
おキヨが筆を止める。
「では桃慧様、お水をお持ちいたします」
「ありがとうございます。それと、濡らした手拭いを一枚お願いできますか」
「只今お持ちしますね。」
おキヨが立ち上がろうとしたところで、桃慧はごく自然に言葉を重ねた。
「外で待つお姫様方も、そろそろお退屈でしょう。涼しい場所で少しお休みいただけるよう、皆様をご案内して差し上げてください」
おキヨは一瞬だけ桃慧を見た。
その眼差しに、いつもの診察とは少し違う意図を感じ取ったのだろう。だが、何も尋ねずに深く頭を下げた。
「畏まりました、ではお水と手ぬぐいは別の者にお願いしたしますのでお時間を頂きますがよろしいですか?」
「えぇ、ありがとうおキヨ。そのようにお願いします。」
「はい、承知しました。」
幕が閉じる。
筆の音も、幼い姫たちの気配も消え、診療所の内側には、お市と桃慧だけが残された。
外では蝉が、何事もなかったかのように鳴き続けていた。




