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雲の向こうの月

その夜、小谷山には、雨上がりの湿った闇が深く沈んでいた。



夕立が残した纏わり着くような重苦しさは、小谷の山へ深く染み込み、杉木立の奥からは濡れた土と苔の匂いが重く立ち上っていた。風が谷を渡るたびに、黒く沈んだ木々の梢が低く鳴り、その音は時に遠雷のようにも、時に誰かが忍び寄る足音のように不気味に聞こえる。


小谷城の石垣は夜露を帯び、見張り台の篝火は風に煽られて揺れながら、山城の輪郭をかろうじて闇の中へ浮かび上がらせていた。


城は未だ直接的には攻められずとも真綿で首を絞められるような威圧感に押しつぶされそうであった。


しかし、その夜の小谷城はすでに敗れた城にだけ漂う静けさがあった。怒号もなく、泣き叫ぶ声もなく、兵たちは普段通り持ち場に立っている。


炊事場では粥を炊く煙が細く上がり、些細な穏やかな笑い声がいつもの籠城の夜と変わらぬように聞こえる。だがその一つ一つがどこか虚ろで、どこか感情の薄いものあった。


城中の者たちは皆、夕刻に届いた報せの意味を知っていた。


朝倉義景の討死。その言葉は一人の武将の死を告げただけではなかった。朝倉家という後ろ盾が崩れ落ち、浅井家がこの近江の地に完全に取り残されたことを意味していた。


しかしその意味を誰も口にはしない。


口にすれば、まだ形を保っている心が崩れてしまう。だから皆、黙っていた。

それ故に今はそれぞれの役目を果たしているふりをしていた。城中の家臣たち、兵、逃げてきた城下の民達を繋いでいたのは主君、浅井長政への忠義と信頼、それだけであった。


本丸奥の一室で、浅井長政は柔らかな座布団の上に腰を下ろしていた。

障子は半ば開かれ、夜気が静かに室内へ流れ込んでいる。傍らに置かれた灯火は小さく、風が吹き込むたびに炎が細く揺れ、柱や畳の上に頼りない影を落としていた。


長政は庭を見ていたが、その目は昼間の虚ろとした眼差しで向けられているものではない。しかし希望に燦々と輝いたものでもなかった。彼の眼差しはもっと遠いものを見ていたのである。


線刻越前へ向かったであろう織田信忠の一万の軍勢、それが越前でどのような力を発揮するかは火を見るより明らかである。義景の死によって乱れる朝倉諸将。戦わずに開かれるであろう城。

朝倉の家臣たちは主家を離れていくであろう。


近い内に、残された我らに信長は攻めかかってくるであろう。

眼前で静かに佇む信長が率いる四万織田の軍勢が、小谷山へ這い上がって来るであろう未来。

考えれば考えるほど、道は一つへ収束していく。


朝倉家、浅井家家はその伝統と歴史を閉じる。


小谷城は堅い。山城としては比類なく堅い。城主として、一人の武士としてこの城に対して揺るぎない信頼を寄せている。だが、城の堅さだけで戦は勝てぬ。


兵糧、水、兵の気力、家臣の忠義、そして何より外から差し伸べられる手。

それらが尽きた時、どれほど堅牢な城も、静かに内側から崩れていくのだ。


長政はそれを知っていた。

知っているからこそ、苦しかった。


背後で障子滑り、かすかにピシャリと鳴る。

振り返らずとも、誰が来たのか分かった。


妻のお市であった。


お市は何も言わず部屋へ入り、長政の隣へそっと腰を下ろした。

衣擦れの音だけが微かに響き、その後にはまた夜の静けさが戻ってくる。


結ばれて直ぐであれば何か気の利いた言葉を探したかもしれない。だが今の二人には、すぐに言葉を交わす必要はなかった。数年ではあるものの多くの年月を共にし、三人の娘を授かり、戦の報せを何度も待ち、喜びも不安も分け合ってきた夫婦である。沈黙の中にこそ、伝わるものがあった。



しばらくして、お市が庭を見つめたまま静かに言った。

「夕立の雨で庭の木々が喜んでいますね。」


「そうだな。」


一瞬間を置いて長政のどこか無色な声色に少し慰めるかのように目を細めお市はさらに長政の方へ身を寄せる。そして囁くようにポツリと呟く。


「朝倉様が、討たれたのでございますね」


問いではなかった。長政の横顔を見て、すでに悟っていたのだ。


長政は小さく息を吐いた。

「……分かるか」


「えぇ」

お市の声は穏やかだった。けれど、その奥にはかすかな痛みがあった。

「貴方様が、そのようなお顔をなさるのを、私は見たことがございません」


長政は苦く笑おうとしたが、うまく笑えなかった。


家臣の前では平静を保っていたつもりだった。

義景の死を聞いても取り乱さず、声を荒らげず、当主として振る舞った。


城の者たちが自分を見ていることを知っていたからである。

主が揺らげば家臣は崩れる。父が動揺すれば家は沈む。だから長政は昼の間ずっと当主、浅井長政であり続けた。


だが、お市の前では隠せなかった。


「朝倉家は終わるだろう。」


長政は、闇の向こうを見つめたまま言った。


「義景殿が討たれた以上、越前の諸将はまとまるまい。先程信忠殿が一万程の軍勢を率いて北へ向かった。今や援軍に来てくれた朝倉の軍勢は散り散り、越前にはあの軍勢を相手にできる兵は居ないであろう。よって越前は織田のものとなる」


それは悲嘆ではなく、戦を知る者の読みだった。長政の声は落ち着いていたが、お市にはその落ち着きがかえって痛々しかった。


夫は今、己の心を殺し、当主として未来を見ている。嘆きたいはずなのに自ら嘆くことを許していない。悔しいはずなのに、悔しさを言葉にしない。


ただ、滅びへ向かう道筋だけを冷静に数えている。


「そして、義兄上殿はこの城を...。」


その名が出た時、夜気が一段冷たくなったように感じられた。


信長。

お市にとっては実の兄であり、長政にとっては義兄となる。


酒を酌み交わし、同じ席で笑い、同盟の未来を語ったこともあった相手。

その男が今、四万の軍勢をもって我らを滅ぼす一手を刺そうとしている。


お市は膝の上で重ねた指に力を込めた。


「越前に一万を向かわせておいて此方だけでも四万……」


「あぁ、四万だ。それに柴田殿や丹羽殿もいる。武もある。それを支える力もある。」


長政は頷いた。

「こちらは三千余。小谷城は堅い。だが、堅いだけでは勝てぬ。兵糧も水も、いつまでも保つものではない。朝倉が消えた今、外から救いの手は伸びぬ」


そこまで言って、長政はふと口を閉ざした。


離れ屋敷の方へ視線が向いた。


その先では、娘たちが眠っているはずだった。茶々、初、江。まだ幼い娘たち。戦の行方も、朝倉の死も、浅井家の命運も知らず、今はただ母に与えられた寝所で眠っているだろう。その寝顔を思った瞬間、長政の胸の奥に、武将としての覚悟では抑えきれぬ痛みが走った。


お市も同じ方角を見ていたが何も言わなかった。

言えば、互いに耐えられなくなると分かっていた。


長政は当主として、すでに覚悟を決め始めている。


城が落ちる時、自らがどうあるべきか。家臣をどう扱うべきか。妻と娘たちをどう生かすべきか。その答えはまだ言葉にはされていない。だが、お市には分かった。夫の横顔に、その決意の影が見えていたからである。


「恐ろしゅうございますか」

お市は、やがてそう尋ねた。


長政は少しだけ目を動かした。

その問いが、死の恐怖を問うものではないことを理解していた。


お市が聞いているのは、もっと深いところであった。守るべきものを残して逝くこと。愛する者たちを、この荒れ狂う世に置いていかねばならぬこと。その恐ろしさを問うているのだった。


長政は長く答えなかった。


庭の松が風に揺れ、濡れた枝から雫が一つ落ちた。石を打つ小さな音が、妙に大きく響いた。


「あぁ、怖い。恐ろしくて恐ろしくてたまらない。」


ようやく出た声は、ひどく静かだった。

「戦の末に死ぬことは恐ろしくない。武士として生まれ、当主として生き、そして義兄上を裏切ったその時からその日はいつか来ると思って居た。だが……」


言葉はそこで途切れた。

その先を言うことはできなかった。

胸の奥が抉り返るかと思った。


娘たちを残すことが怖い。

お市を残すことが怖い。

家臣や領民を、自分の決断の末に死なせることが怖い。


そう言ってしまえば、今まで保ってきたものが崩れてしまいそうだった。


お市は、長政が言葉にしなかったものをすべて受け取った。


夫は強い人だった。だが、強いから苦しまないわけではない。むしろ強いからこそ、人に見せぬ場所で深く傷つく。


お市はそのことを知っていた。長政が家臣の前で弱音を吐かず、兵の前で不安を見せず、父として娘たちに笑ってみせることも知っていた。そして今、そのすべてを背負ったまま、一人で滅びの方角を見つめていることも。


お市はそっと手を伸ばした。

長政の手に、自分の手を重ねる。


戦場で槍を握り、幾度も采配を振るった手である。節くれ立ち、固く、古い傷がいくつも残っている。

その手は冷えていた。お市は両手で包むように握った。


長政はわずかに驚いたようにお市を見たが、すぐに目を伏せた。何も言わない。言わないまま、その温もりを受け入れた。


お市の手は小さかった。

けれど、その温もりは不思議なほど深く、長政の胸の奥で張り詰めていたものを少しだけ緩めた。

どれほど当主として振る舞っても、どれほど武将として覚悟を固めても、人は一人では立ち続けられないのだと、その時ふと思った。

城の者たちは皆、長政を主として見る。家臣は長政を当主として仰ぐ。兵は長政を旗印として見る。娘たちは父として慕う。


だが、お市だけは違った。


お市だけは、浅井長政という一人の男の弱さを、何も言わずに受け止めてくれる。


お市は身を寄せた。


肩が触れ、やがてその額が長政の胸元へ静かに預けられる。抱きつくというほど強いものではない。ただ、倒れそうな心をそっと支えるような、儚く慎ましい触れ方だった。


長政はしばらく動けなかった。


お市の髪から、かすかに香の匂いがした。城に満ちる湿った土の匂いや、遠くの篝火の煙とは違う、日常の匂いだった。かつて穏やかな日々の中で何度も感じた匂い。娘たちの笑い声が廊下に響き、お市がそれを叱りながらも微笑んでいた日の匂い。


その記憶が胸に迫り、長政は静かに目を閉じた。

お市は長政の胸に耳を寄せたまま、その鼓動を聞いていた。


まだ感じられる鼓動を力強く、気高く鳴る鼓動。


だが、この鼓動をこうして聞ける夜はあとどれほど残されているのだろう。

そう思うと、喉の奥が痛んだ。

泣きたくはなかった。今泣けば、長政の覚悟を乱してしまう。

自分が泣けば、この人は夫ではなく当主に戻ってしまう。慰める側になり、また己を押し殺してしまう。


だから、お市は泣かなかった。

ただ、そっと長政を抱きしめた。

言葉ではなく、温もりで伝えるために。


貴方様は一人ではありません。

私は分かっております。

貴方様が何を選ぼうとしているのかも。

その選択がどれほど苦しいものかも。


そう伝える為に今はその胸に寄せるだけ、温もりを伝えるだけ。


長政はその思いを感じ取ったのか、ようやく自らの手をお市の手に重ね返した。強く握るのではない。縋るのでもない。ただ、そこにある温もりを確かめるように、静かに指を添えた。


「すまぬ」


長政は振り絞るように一言だけ囁いた。今にも消えてしまいそうな、風邪で運ばれてしまうかのような小さな声だった。


お市は顔を上げなかった、今貴方の目を見つめたら裂けてしまいそうだから。

「何を謝られるのです」

市も風の音のように柔らかく言葉を囁く。


「何もかもだ」

長政の声は寄り添うように優しく降りかかる。

「義兄上と戦わせたことも、娘たちをこの城に閉じ込めたことも、そなたに……このような夜を迎えさせたことも」


お市はゆっくり首を横に振った。

「私は、浅井へ嫁ぎました」


その言葉は静かだったが、揺らぎはなかった。

「織田の血が流れていますが、今は貴方様の妻でございます」


長政は何も言えなかった。

お市は続けた。

「兄の妹である前に、私は貴方様の妻です。茶々、初、江の母です。ですから、それは貴方様だけが背負うものではございませぬ」


その声に、長政は胸を突かれた。

お市は強い。

細く、儚げで、戦場に立つわけでもない。だが、その心は強かった。長政が言葉にできぬ覚悟を察し、それでも逃げず、責めず、ただ傍にいる。それがどれほど大きな支えであるか、長政は痛いほど分かっていた。


夜風がまた吹き込んだ。

灯火が大きく揺れ、二人の影が畳の上で一つに重なった。


外では小谷山の木々がざわめき、遠くの織田陣では篝火がいくつも瞬いているはずだった。


朝倉はすでに滅びへ向かい、織田の大軍はやがてこの山へ進んでくる。時は止まらない。戦も止まらない。


夜が明ければ、長政は再び当主として家臣の前に立たねばならない。兵糧を数え、守りを固め、家臣の動揺を抑え、滅びへ向かう城を支え続けねばならない。


だが今だけは、この短い夜の間だけは。

長政は、浅井家当主ではなく、一人の夫でいることを許された。


お市の温もりを胸に受けながら、長政は闇の向こうを見つめていた。そこにはまだ何も見えない。終わりだけが近づいている。だが、その終わりの中で何を守るべきかは、少しずつ定まり始めていた。


家臣を生かす。

娘たちを生かす。

お市を生かす。


そして、自分は浅井家当主として責任を負う。

その覚悟を、長政はまだ口にはしなかった。

口にすれば、お市を傷つけると分かっていたからである。


なれど、お市は知っていた。

言葉にされずとも、夫の胸の奥でその決意が静かに形を成していることを。


だから、お市はさらに少しだけ身を寄せた。


まるで、これから訪れる別れの冷たさを、今だけでも押し返そうとするかのように。


二人はそうして長い間、何も言わずに寄り添っていた。


夜は深く、風は湿り、山は沈黙している。


小谷城の外では時代が動いていた。

朝倉が滅び、織田が進み、浅井の終わりが近づいている。


それでもその一室だけには、まだかろうじて人の温もりが残っていた。

滅びへ向かう城の中で、夫婦は言葉にならぬ別れを抱えながら、互いの温もりだけを頼りに、静かに夜を耐えていた。

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― 新着の感想 ―
先生 今回のエピソードは悲しいですね。 何だか言葉にならないです。
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