病を討つ者達
1573年6月22日
北近江、小谷。
夏の日差しが山々を照らし、姉川の流れが銀色に輝いていた。
その穏やかな景色とは裏腹に、この地の戦は既に決着へ向けて大きく傾き始めていた。
代々浅井家に仕えてきた浅井家重臣、阿閉貞征。
その裏切りは小谷城を本拠とする浅井家には青天の霹靂であった。
山本山城という小谷城北方の要を失った浅井家は、もはや野戦による打開を望めなくなっていた。
兵を労せず、戦わずして敵の要を打ち破る竹中半兵衛の一手は正に万の大軍にも匹敵した。。
信長率いる織田軍はその綻びを的確に突き敵に立て直す暇を与えなかった。
まるで濁流のような勢いで北近江へ雪崩れ込み、街道を押さえ、砦を落とし、ついには浅井家本拠たる小谷城を包囲するに至った。
その報せを受けた浅井長政は城内にて静かに目を閉じた。
もはや打って出る余地は無い。
頼みの朝倉軍は救援に出るとは言っていたものの未だその影は遠い。
眼下には五万に迫る織田軍、浅井家に残された道はただ一つ、籠城であった。
天下に名を轟かす名城、小谷城は山の尾根沿いに堅固な砦や廓を何重にも張り巡らせた山城である。
その城は自然を味方につけ、人の知恵が磨き上げた美しき要塞であった。
そんな城を守は主君浅井長政に忠義を誓う武士たち、その数3000。
織田の苛烈な攻めにも負けずここまで命を繋いできた精兵たちであった。
その頃。小谷城の南方。小谷城と対峙するようにそびえる小高い山、虎御前山。
古より軍事の要所として戦で歴史に名を刻んできた山である。その地に布陣したのは織田信長、その人である。
虎御前山は古城や砦があったわけではないが天然の要害であり布陣するには持って来いの場所であった。
そして今信長が指揮を執り、簡素ながら堅固で難攻な拠点へと姿を変えつつあった。
木瓜紋の旗が無数に立ち並び、槌音と掛け声が山中へ響く。
山頂には織田信長の本陣。
周囲には柵が築かれ、物見櫓が組まれ、兵たちが忙しなく動いていた。
信長は虎御前山の高台から小谷城を見据えていた。
遥か向こう、尾根沿いに続く巨大な山城。
浅井三代の本拠であり容易に落ちる城ではないことは誰から見ても明らかであった。
だが信長の表情に焦りは無かった。
「良き眺めよな。」
ぽつりと呟く。
隣に控える丹羽長秀が頭を下げた。
「小谷城の全容がよく見えます。」
「敵もまたこちらを見ておろう。」
信長は笑う。
「だが構わぬ。見えるならば見せてやれば良い。」
その声には揺るぎない自信があった。
小谷城の正面に位置する虎御前山の北部には羽柴秀吉隊が陣を構える。
その隣には柴田勝家隊。
さらに東の平野部には滝川一益隊が展開し、小谷城からの打って出を警戒していた。
信長の本陣より後方には丹羽長秀隊。
兵糧、荷駄、補給、軍を支えるための要である。
そして、その長秀隊のさらに右前方、虎御前山の麓。滝川軍の後方に位置する一面の平地に白旗が立てられていた。
黒き木瓜紋、その下に大きく一文字「慧」
医務衆の本陣がそこに建てられたのある。
重症患者の搬送に使われる牛車が並び、牽引用の馬と伝令用の馬が初夏ののどかな風と共に繋がれる。
荷を運ぶ者が行き交う。
他の足軽や兵、武将たちとは少し異様な者たちが地面へ縄を張り、区画を定めていた。
桃慧は馬から降りると辺りを見渡した。
目に映るのは山、平野、風の流れ、草木の様子。そして農業用に張り巡らされた水の流れ。
まるで土地そのものの声を聞くように静かに観察する。
宗次が尋ねた。
「如何ですか。」
桃慧は小さく頷いた。
「悪くありません。ここならば搬送路も確保できます。」
さらに地面へ視線を落とす。
「雨が降ればあちらへ水が流れます。病舎は山側の高い位置へ。包帯などの洗濯場は一番端のあのため池の脇にしましょう。」
宗次は苦笑した。
「武将が板についてきましたな。」
桃慧は真顔で答えた。
「少しでも緊張してるように見えたら下の者たちが焦りますから。顔芸も学べと丹羽様が。」
その言葉に治長が静かに頷いた。
「なるほど、然し笑顔を忘れず。桃慧様が笑って居た方が皆が安心します。」
「確かにそうかもしれませんね。しかしまずは何時でも負傷兵と病人を受け入れる体制を作ることです、準備を進めましょう。」
まったく変わらぬ。
堅固な敵城を前にしても、この少女の頭の中はまず病と負傷兵なのである。
一方。
虎御前山では新たな組織が動き始めていた。
病疫守である。
頭領を任された田原茂吉は、腰に縄を下げながら山頂付近を歩いていた。
築城普請に長年携わってきた男の目は鋭い。
まず見たのは湧き水の位置、そこから導き出した井戸の場所。
次に風向き、そして地面の傾斜であった。
「ここだ。」
茂吉が地面を指差す。
周囲の病疫守たちが集まった。
「厠はここへ掘る。あの水場から離す。それにここは谷間の脇で風がよく通る。あっちが風下だ、来れば分かる」
松吉が感心する。
「どうやればそんな簡単にわかるんだい、匂いでも嗅いでるのか?」
「あぁそうだ。」
茂吉は頷く。
一同は唖然とした、歴戦の職人は歳をとっても職人であり続けているようだ。
間髪入れずに作業が始まった。
鍬が振るわれ、土が掘り返される。
事前に決められた深さ、決められた広さで。
桃慧から何度も聞かされたやり方である。
穴の側に木の板が引かれ足元が汚れない様にされ、導線の脇に手洗い用の桶と桶が置かれた。
厠の周りはぐるりと陣幕で囲われ物理的に視覚が遮られ匂いの拡散を防止する、
さらにその脇に布を張った小屋が建てられる。
監視所だ、病疫守が交代で詰める。
使い方を教え、水を管理し異変を見張る。
近くを通りかかった羽柴兵が怪訝そうに尋ねた。
「厠如きでここまでしなくても」
松吉が胸を張る。
「これは信長様主導で行われている陣改革だ、病を防ぐための物だ。」
兵は首を傾げた。
「病を防ぐ?」
「そうだ。病人を治すのが医務衆だとすれば、病人を出さぬのが俺たちの仕事だ。」
兵は半信半疑で去っていったが、しかし病疫守たちは気にしなかった。
彼ら自身も数週間前までは分かっていなかったからだ、病を防ぐという考え方そのものを。
そして順調に拠点の防護措置と衛生管理が行われる。
羽柴隊の野営地では、足軽たちが斧を振るい木を切り倒し、柴田隊では荷駄から運び出された筵や藁束が積み上げられている。
兵たちはそれぞれ今夜の寝床を確保しようと忙しく動いていた。
戦が始まれば十分な休息など望めない。
だからこそ陣を張った最初の数日で寝床を整えることは兵にとって重要な仕事だった。
しかし茂吉の目にはその様子が危うく映っていた。
「勘七。」
茂吉は足を止めた。
「はい。」
「ここを見てみろ。」
十三になったばかりの勘七は言われるままに地面へしゃがみ込む。
周囲には羽柴隊の足軽たちが寝床を作ろうとしていた。
大きな木の下で日中でも日陰になり涼しく兵たちからすれば上等な場所だった。
「良い場所じゃありませんか?」
勘七は素直に答えた。
茂吉は苦笑する。
「お前もまだまだだな。」
そう言うと杖で地面を軽く叩いた。
「ほれ、少しここを掘って触ってみろ。」
勘七は草をかき分け土へ触れる。
ひんやりとしていた。
「冷たくて湿っています。」
「そうだ。」
茂吉は頷く。
「木が大きいだろう。」
「はい。」
「匂いを嗅いでみろ」
地面に顔を近づけ鼻に空気を通す
「これは青臭いような...湿気臭いような。」
勘七は木々を見上げた、大きな木々が枝葉が空を覆っている。
「この時期夜になれば露が降り朝には湿ってぬかるむ。」
「はい。」
「夕方でもこの様子だ。この時期は地面が乾かん。常に水を吸った土なんだ。」
「……。」
「その上で毎日寝ればどうなる。」
勘七は少し考えた。
桃慧から教わった事を思い出す。
身体が冷え、腹が冷えれば腹を下す。それに朝方の寒さで体調を崩せば咳が出で熱が出る。
「あっ。」
茂吉は満足そうに頷いた。
「そういう事だ。」
「病はいきなり出るんじゃねぇ。些細な寝床の状態の良し悪しからも出る。だから病疫守は寝床まで細かく見るんだ。。」
その時だった。
近くで藁を運んでいた羽柴隊の足軽が不満そうな声を上げた。
「おいおい。折角良い場所を見つけたのによ、また移れってのか?」
周囲の兵も同意するように頷いている。
茂吉は怒らなかった。
むしろ当然だと思った。
ここ数週間戦に明け暮れてきた羽柴隊は既に戦場での生活に慣れ感覚がずれてきているのだ。
こんな些細なことが恐ろしい病などに繋がる訳もないと思い込むのも当たり前だった。
茂吉はゆっくり兵たちへ近づく。
「お前さんら。戦は強いか?」
突然の問いだった。
「そりゃ弱かねぇ。ここまで戦い抜てきた羽柴様の兵だぞ。隣の頭まで筋肉になっちまった柴田様の兵も負けちゃいねぇ。」
口々に声が上がる。
茂吉は頷いた。
「なら生きて帰りたいだろう。」
兵たちが黙る。
「槍で死ぬのは仕方ねぇ、矢で死ぬのも仕方ねぇ。だが腹を壊して寝込むのは馬鹿らしいとは思わねぇか?」
その言葉に兵たちは顔を見合わせた。
茂吉はさらに続ける。
「桃慧様は仰った。『病で倒れた兵も、戦で倒れた兵も同じ命である』だからお前らさん達を守るために俺達はここにいる。お前さんらを無駄に病ませねぇ為にな。ここはひとつ指示に従ってくんねぇか?でなきゃ軍奉行様に怒られちまうよ。」
先ほどまで文句を言っていた兵が頭を掻いた。
「そこまで言うなら移るか。」
「別に木陰じゃなくても寝られるしな。それに確かに言われてみれば、こんな湿ったところに藁にくるまって寝ちまったら朝には腐った豆みてぇになっちまう。」
周囲から思わず笑いがこぼれた。
「確かに納豆にはなりたくねぇな」
茂吉も笑った。
「そうだ。その代わり風通しがよくよく寝れる場所を選んでやる。ぐっすり眠れるぞ。」
兵たちは荷物を担ぎ直し始めた。
それを見届けた勘七が小さく呟く。
「皆、ちゃんと聞いてくれるんですね。」
茂吉は遠くで翻る『慧』の旗を見た。
「俺の言葉を聞いてるんじゃねぇ。皆桃慧様の言葉を聞いてるんだ。」
その声には少しだけ誇らしさが滲んでいた。
そして病疫守たちは再び歩き出す。
まだ見なければならない場所は山ほどあった。
炊事場。
水場。
洗濯場。
羽柴、柴田の兵を合わせればおおよそ八千の兵。その数の人が暮らす陣は一つの町にも等しい。
病疫守たちが寝床の整理に追われていた頃。
軍奉行の話し合いの場では別の問題が持ち上がっていた。
「これでは足りません。」
治長が帳面を広げながら静かに言った。
医務衆本陣の中央。
急ごしらえの陣幕の中では桃慧、丹羽長秀、宗次、あやめらが集まり今後の運用について話し合っていた。
外では丹羽隊の足軽たちが行き交い、負傷兵を収容するための天幕が次々と組み上がっている。
だがその喧騒とは裏腹に、陣幕の中には重い空気が漂っていた。
「何が足りぬのだ。」
長秀が尋ねる。
治長は帳面の一頁を示した。
「洗濯です。」
その場にいた者達が顔を見合わせた。
「洗濯?」
宗次が怪訝そうな顔をし、治長は頷いた。
「はい。衣服は日に日に汚れてゆきます。」
そして帳面を閉じる。
「兵たちは洗う暇もありませんので現状でもひどく汚れたままなのです。」
長秀は腕を組んだ、その表情は真剣だった。
軍を行う武将達は兵糧の数を気にする。
矢や玉の数を気にする。
馬の数を気にする。
だが衣服の汚れなど気にする者は少ない。
しかし目の前にいる少女は違った。
桃慧は静かに言った。
「汚れた衣服は病を呼びます。血液が付いたままの服を着ているものが多くみられるのです、直ぐにでも洗濯をした方がよいかと思います。それに汗で湿った衣服を着続ければ皮膚が傷みます。傷んだ皮膚から病が入ります。それが何百人と続けば流行病になります。」
その声に迷いはなかった。
長秀も既にそれを理解している。
だからこそ桃慧の言葉を軽く扱うことはなかった。
「ではどうする。」
長秀が尋ねる。
桃慧は少し考えた後、首を横に振った。
「医務衆だけでは出来ません。病疫守だけでも無理です。とても人手が足りません。」
その言葉に宗次が苦笑した。
「柴田隊、羽柴隊合わせて八千人分ですからな。毎日洗ったとしても追いつきませぬ。」
その時だった。
長秀がふと陣幕の外へ視線を向けた。
その先には田畑が広がっている。
夏の風に揺れる小麦の穂。
その向こうには小さな村々、炊事の煙が立ち昇り人々がいつも通りの暮らしている。
長秀はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「ならば借りよう。」
宗次が首を傾げる。
「借りる?」
「人手をだ。」
長秀は立ち上がった。
「洗濯程度の仕事だったらどんな人物でもできるだろう。人手が必要なら洗濯が出来る者を集めればよい。幸いなことに城の反対側、川の畔には村がある。そこの村人達に頼もう。」
桃慧は長秀を見上げた。
「協力してくださるでしょうか。」
戦は村人にとって災害に等しい。
軍勢が来れば田畑は荒れ、米は徴発される。
兵に関わる事を嫌う者も少なくない。
しかし長秀は微かに笑った。
「頼み方次第だ。」
その翌日。
虎御前山の麓にある長秀の陣へ、近隣の村々から庄屋や名主が集められた。
皆、緊張した面持ちだった。
突然織田家の重臣に呼び出されたのである。無理もない。
丹羽の陣の奥に通された村人達は戸惑った。
そこに並んでいたのは兵ではなかった。
山積みにされた米俵、木の桝に詰められた塩、甕に入れられた酒。なにより眩い銭。
そして織田家の朱印が押された木札。
村人達は思わず顔を見合わせる、何が始まるのか分からない。
やがて長秀が現れた。
「突然の呼び出しで驚かせたな。」
長秀の落ち着いた声が響く。
「今日は頼みがあって来てもらった。」
村人達は黙って耳を傾ける。
「織田軍の兵が多い、そのため衣服の洗濯が必要だ。ぜひその手伝いを頼みたいのだ。」
場が静まり返った。
村人達はさらに困惑する。
兵糧を出せと言われると思っていた。
人夫を出せと言われると思っていた。
まさか洗濯とは思わなかったのである。
長秀は続けた。
「無論、働きに対しては対価を支払う。」
そう言って机の上の銭を指し示す。
「米も出すし塩や酒も出す。」
ざわりと空気が揺れた。
さらに長秀は言った。
「それだけではない。」
その場にいた桃慧へ視線を向ける。
「紹介しよう。この娘は主、織田信長様の直臣、桃慧殿だ。卓越した医術にて織田軍の柱となっている。その桃慧殿が率いる医務衆による診療を行おう。体が痛む者、病に苦しむ者の家族が一人でも協力してくれたら必ず診よう。」
その瞬間だった。
村人達の表情が変わる。
桃慧。
その名は既に北近江にも広まっていた。
坂本で疱瘡を鎮めという医僧。北近江の戦で敵だった浅井勢の兵までも救った医者。
噂は尾ひれを付けながら人々の間を駆け巡っていた。
一人の老婆が震える声で言った。
「私の孫が……毎夜強張りを起こすので是非見てほしいのです。」
桃慧は静かに頭を下げた。
「えぇ、診ましょう。」
その一言だった。
張り詰めていた空気が一気に和らぐ。
「麦の収穫まで少し時期がある、今なら人手が余っているので是非!」
「某は娘達にも声をかけましょう。」
「私も!それに嫁も手伝います。ぜひやらせてくだせぇ!」
次々と声が上がる。
長秀はその様子を見ながら静かに息を吐いた。
「桃慧殿。」
桃慧は少し困ったように笑った。
「皆が協力してくださるなら、それが一番です。」
こうして虎御前山の西の麓には新たな洗濯場が設けられることとなる。
病疫守、村人達、医務衆。
誰も刀を振るわない。
誰も武功を立てない。
だがその働きは確実に兵達の命を支えていた。
病との戦は、まだ始まったばかりだった。




