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竹中半兵衛

1573年6月20日

軍議を終えて動き出した織田軍の先鋒に位置する羽柴、柴田隊の野営陣に医務衆が着陣した。

それぞれの羽柴、柴田家の家紋を示す軍旗の横に白い布地に黒色の木瓜紋の下に"慧"の字をあしらった旗が新たに並ぶ。


医務衆が着陣しただけで歓声が上がるのは柴田隊、奇妙な面持ちでその様子を伺うのは羽柴の兵たちだった。


「いやなぁ、しかしなぁ…。」

医務衆を引き連れ戻って来た羽柴秀吉はかなり肩を落しトボトボと戻って来たからである。


「申し訳ございません、木のし……羽柴様。改名なされていたなどと露ほども知らず。」


「気にせんでええ、仕方ない。桃慧殿は聞くによれば武田へ内部への密偵として赴いていたと聞く。某の渾身の改名を知らぬのは仕方ない事じゃ」


(なぜ信長様や一部の重臣の方のみが知っている武田の件を"木下様"が?)

桃慧は少し心に詰まる感覚がしたが今は戦場、そのようなことは後回しだと考えた。


「ところで羽柴とはどの様な意味でつけられたのですか?」


「おっ!気になるか!」

少し後ろを歩く勝家の顔が赤くなり、ふんっと喉を鳴らして指て鼻下を擦る。


「実はな、羽柴とは某が尊敬する二人のお方から一字づつ頂いたのじゃ!」

秀吉は腰に手を置き自慢げに話す。


「1人は丹羽長秀殿の"丹"の一字。立ち振る舞いや様々な技術とその知識を頂いた、言うなれば知の親じゃ!」


「ではもうひとりは……」

桃慧は勝家の方をチラリと見る。


「ふふふ、そうじゃもうひとりは柴田勝家殿、戦ごとは勿論、一人の男として育ててくれた、武の父、漢の父じゃ!」


「それは大変素晴らしいお名前ですね。」


そうじゃろう、そうじゃろうと秀吉は頷きながら自慢げに笑う。一方勝家は耳まで真っ赤にして明後日の方向を眺めている。


「私もお2人から一字頂きましょうかね?」


「おっ!桃慧殿、それなら良い方法がありますぞ!」


「はて、なんでしょうか?」

秀吉がなにか閃いたようにそっと桃慧の横に寄る。

後ろに控える一綱がギっと秀吉を睨みつけるも気がつく訳がなく秀吉は話し続ける。


「それはですな、某と夫婦に……っぃたぁ!?」


「戯言はよさんか」

勝家のゲンコツが秀吉の頭を兜の上から鈍い音と共に叩きつけられた。


「うーん、それはご遠慮仕ります。」

桃慧からの返事は勿論即答であった。


「そんなぁっ、某は真面目に言ったのじゃがなぁ」

はぁと溜息を吐きながら陣の木箱にどんっと座る。


後ろに控える医務衆の主力より殺意を感じるような気がするも話は進む。


「それで木…羽柴様、我々は動いてもよろしいですか?」

桃慧は静かに秀吉へ伺いを立てる。


「おぉ、好きにやったらええ。皆戦に疲れておる、けが人も多い、医務衆が来たと知れば皆が喜ぶ。」


「サルにしては気前がいいではないか、良いのか?医務衆は細かいぞ?」

柴田勝家が桃慧の肩をバシバシと叩きながらほくそ笑む。


「親父殿、冗談はよしてくだせぇ」


一同が思わず笑いに包まれる。

「そうだ桃慧殿、良い機会じゃ。某の家臣団を見てくだされ!桃慧殿を皆に紹介したい!」


「えぇ、こちらもあれこれ動く前に挨拶したいと思っておりました。」


「ささ、こちらへ」

秀吉は自身の野営陣へ医務衆の主たるもの達を連れて行く。

羽柴軍の野営地は広大であった。


秀吉の案内の元桃慧達は羽柴軍の中枢へと歩を進めた。

無数の陣幕が並び、槍が林のように立ち並ぶ。


炊事の煙が幾筋も空へ昇り、兵達が武具の手入れをしている。


だが桃慧は歩きながら視線を動かしていた。


兵の顔色、干された衣服、水瓶や排水の為に掘られた溝、厠へ向かう兵の足取り。


それらを医師の目で一つ一つ見ている。

そして病疫守の者たちもを教わった知識をもとにその陣形や位置や道の隅々を撫でる様に視線を巡らせた。


「……」


宗次も同じであった。

治長も記録板を片手に周囲を観察している。

あやめは陣の奥、怪我人たちが呻く場所を眺めている。


秀吉はそんな様子に気付き苦笑した。


「皆して同じ顔をしておりますな、これは恐ろしい。親父殿が言った意味がわかりましたわ。」

秀吉は呆れたように肩を落とした。


「職務柄申し訳ございません、医者の性分と申しますか....。」

桃慧は作った笑みを振りまきながら軽く頭を下げた。


するとあやめが桃慧のそばに寄ってきて、「病の匂いがします」と一言。


その一言に秀吉の笑みが少し止まる。


「ふん、確かにこの感じですと...。き、羽柴様、腹を下す者が増えておりますね」


「え?」


「それに皮膚を掻いている方も多いです。」


「……」


「水も少し悪いようです。この暑さでも兵の水の飲み方がおかしいですね。恐らく本能的に違和感を感じているのでは?」


秀吉は思わず周囲を見回した。

だが分からない。


桃慧や医務衆には見えている。

秀吉には見えない、その違いだった。


「これは……恐れ入るなぁ」


やがて一行は一際大きな陣幕の前へ辿り着く。

秀吉が幕を上げる。

「皆の者、居るか!」


陣幕の中では数人の武将達が地図を囲んでいた。

最初に立ち上がったのは穏やかな顔立ちの男だった。

「兄者、お戻りでしたか」


羽柴秀長である、秀吉の実弟。

柔和な表情ながら、どこか聡明さを感じさせる男だった。


「おぉ秀長」

秀吉は上機嫌に頷く。


「紹介しよう」


そう言うと桃慧へ振り返った。

「これがワシの自慢の弟の秀長じゃ」


秀長は丁寧に頭を下げる。

「羽柴秀長にございます」


「医務衆筆頭、桃慧にございます」

桃慧も頭を下げた。


秀長はその様子を見て微笑む。

「兄者からよく話を聞いております」


その言葉に秀吉が得意そうに胸を張る。

「そうじゃろうそうじゃろう」


「毎日のように聞かされております故、そろそろ本物にお会いしたいと思っていたところにございました。」

秀長がさらりと言うと、周囲から小さな笑いが起こった。

「ご覧の通り長戦故に兵たちは傷つき衰えております。医務衆の支援、心より歓迎いたしまする」


「こちらこそ、ご迷惑にならぬ程度にお力添え出来れば嬉しく思います。」

桃慧は秀長の表情と指先にの墨の後から理解した。この秀長がこの隊の屋台骨であり羽柴軍の骨格であると。

「桃慧様は何やら面白き策を次々と打ち出す切れ者とお聞きしております。一つお時間を頂き話を……」


秀吉だけが少し咳払いをした。


「おっと、失礼仕りました。」

秀長はそっと一歩下がり秀吉へ場の主導権を渡す。


「ごほんっ、桃慧殿この竹中半兵衛こそ、この度阿閉貞征殿を調略したワシ自慢の軍師じゃ。」


一人の男が静かに立ち上がった。

戦国に生きる武将としては細身で肌は色白くそれに女子のように整った顔立ち。

武将というより公家の若君のような風貌だった。


どこか儚げですらある。

「竹中半兵衛にございます、桃慧様の名は秀吉様から兼ねてより聞き及んでおりました。面白き考えをするお方と。」

沢の優しいせせらぎの様に穏やかな声だった。


「こちらこそよろしくお願いいたします。」

桃慧は頭を下げる。


「いきなりで申し訳ございませんが一つお聞きしたい。」


「如何致しましたか?」


「桃慧様は何故医者に?」

木々がか細い風に吹かれ僅かに葉を鳴らす。

質問の本意とはなにか疑問に思ったものの桃慧は短直に答えを出す。

「命を救う術を身につけたからです。必然的に医者になりました。」


「なるほど、よく分かりました。聞き及んでいた通り面白そうなお方です。」

桃慧は半兵衛の僅かな瞬間を見逃さなかった。


僅かに肩で息を吸う動作、すると半兵衛は少し息を吸い込み震える様に小さく咳をする。


ほんの一瞬、誰も気に留めない程度の震えと咳。


桃慧はその瞬間を絶対に見逃さ無い。


明らかに他者とは違う。それは呼吸の浅さ、肩の動き、痩せた頬、唇の色、そしてわずかながら特徴的な咳。


桃慧は僅かに目を細めた。


「失礼ですが」


突然の言葉に陣幕の中が静まる。

半兵衛が首を傾げた。


「何でしょうか?」


桃慧は真っ直ぐに半兵衛を見た。


「半兵衛様、肺を患っておられますね」


一瞬でその場が固まる、足元に涼しい風が通る気がした。


秀長が目を見開く。

柴田勝家が瞬きをした。

秀吉も思わず固まる。


「……は?」


思わず漏れた声は秀吉のものだった。


桃慧は続ける。

「その咳、よろしくない咳です。息も少し苦しそうです。夜になると咳が強くなるのではありませんか?」


半兵衛の目が細くなる。

静かな驚きだった。

「……何故お分かりに」


秀吉が半兵衛を振り返る。

「本当なのか?」


半兵衛は苦笑した。

「幼き頃から身体が弱いだけでございます。お気になさらずに。」


「いえ、その咳はただの咳ではありません。」

桃慧は即座に否定した。


勝家が横で豪快に笑う。

「はっはっは!始まったな!」


秀吉が振り返る。

「何がです?」


「桃慧殿が医者になる時じゃ」


勝家は愉快そうだった。


「半兵衛と申したな、一度見つかったら病が治るまで桃慧殿はしつこいぞ。桃慧殿の追撃は浅井朝倉の兵よりも手強い。」


秀吉は桃慧を見る。

桃慧は真剣そのものだった、冗談を言っている顔ではない。


そして半兵衛もまた桃慧を見ていた。

その瞳に宿っていたのは警戒ではなかった。

人の僅かな特徴と病の特徴を結び付けるだけでなく、それを正確に判断する能力。


興味、いや、理解者を見つけたような静かな眼差しだった。


この時桃慧はまだ知らない。

目の前の病弱そうな男が、羽柴軍のみならず日本でも一二を争う軍略の天才であることを。

そして半兵衛もまた、目の前の若き医僧が、ただ病を治すだけの医者ではないことを。 

二人が本当の意味で言葉を交わすのは、もう少し後のことである。


「さて立ち話も難じゃ。ほれ、座って話そうではないか。」

秀吉がすかさず話に割って入って気を利かせて話の流れを変えるもふたりは名残惜しそうに会話を紡ぐ。、


「そうですね、半兵衛様、後ほど診察させていただきたいのですが?」


「えぇ、承知しました。さすがは殿だけでなく信長様が一目置くお医者様ですね」


秀吉は豪快に笑い膝を叩いた。

その後桃慧は羽柴、柴田それぞれの隊の主だった人物と軍奉行達へ病疫守の説明が終わると、秀吉は足軽大将の蜂須賀や前野らを連れて外へ出て行った。

 

人足の手配や陣地の確認があるらしい。

秀長も兄の後を追おうとしたが、補給担当の者に呼び止められ陣幕の外へ消えていく。

陣幕の中に残ったのは桃慧と半兵衛だけだった。

 

外からは兵達の声が聞こえる。

遠くでは兵たちの宴の声の音も響いていた。


半兵衛は小さく咳をした。


桃慧は即座に反応する。

「その咳は喉から肺に空気を分け入れる管の付近が炎症を起こして出るもの。しかも慢性的にその咳が続き炎症を起こし続けていているものとお見受け致します。故に夜も寝れない日が多いのでは?」


半兵衛は苦笑した。


「医者…いえ、織田家の医務衆筆頭というのは恐ろしいものですな。」


「何がですか。」


「隠しているつもりでも意図も簡単に病を見抜いてしまう。」


「見えてしまうだけです。」

桃慧は真顔だったが半兵衛は少し笑っている。

 

なるほど。

秀吉が面白がる理由も分かる、この娘は変に飾らない。だから話しやすい。


「先程の病疫守。」

半兵衛が話題を変えた。


「面白い考えです。」


「ありがとうございます。」


「病を治すのではなく病を出さない。」


「軍師として聞いていて興味深かった。」


桃慧は首を傾げた。

「軍師の方でもそう思われますか。」


「ええ。」


半兵衛は頷く。


「戦場で最も厄介なのは、敵よりも予測できぬ事です。病もそうです、矢が飛んで来る場所はある程度分かりますが病は違う。気付けば手遅れになり兵が減っている。」


桃慧は静かに聞いていた。

半兵衛は続ける。


「病疫守というのは兵を治す役ではなく兵力を守る役ですな。」


桃慧は少しだけ目を見開いた。

信長も長秀も病疫守を評価してくれた。


だがその価値をここまで簡潔に言い表した者は初めてだった。


「……そのように考えた事はありませんでした。」


「本当ですか?」


「私は命を守る為に考えました。」

半兵衛は笑った。


「それが面白い。私には軍略に見える、しかし桃慧殿には医療に見える。同じものを見ているのに違う。」

 

桃慧も少しだけ笑った。不思議な人だと思った。

病人を見るときのように理を見ている、そんな男だった。


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